社号 | 山科神社 |
読み | やましな |
通称 | |
旧呼称 | 西岩屋大明神、宮道二所明神 等 |
鎮座地 | 京都府京都市山科区西野山岩ケ谷町 |
旧国郡 | 山城国宇治郡勧修寺村 |
御祭神 | 日本武尊、稚武王 |
社格 | 式内社、旧村社 |
例祭 | 10月10日 |
山科神社の概要
京都府京都市山科区西野山岩ケ谷町に鎮座する式内社です。『延喜式』神名帳には名神大社に列せられ、古くは非常に有力な神社だったようです。
社伝によれば、寛平九年(897年)に宇多天皇の勅命により創建されたと伝えられ、それ以降当地の豪族である宮道氏の祖神として奉斎されたと言われています。
宮道氏は日本武尊の子孫とも物部氏の一族とも言われており、出自は諸説あってはっきりしません。当社の御祭神が「日本武尊」およびその御子である「稚武王」となっていることから、当社では日本武尊の子孫としているようです。
宇多天皇の后であり、『延喜式』の編纂を命じた醍醐天皇の母である藤原胤子は、母親が宮道氏の出身でした。このため九世紀末頃から朝廷内で宮道氏が外戚氏族として影響力を高めていったと思われ、『延喜式』神名帳に宮道氏の氏神である当社が加えられたことが推測されます。
『延喜式』神名帳に当社が名神大社でありながら宇治郡の最後に記載されているのは、恐らく『貞観式』神名帳を元に当社を新たに加えたからでしょう。
藤原胤子の死去の際は菩提の為に、祖父にあたる宮道弥益の邸宅を寺に改めて「勧修寺」が創建されています。このことからも宮道氏の影響力の大きさが窺われます。
当社の例祭である「山科祭」も朝廷から重視され、『延喜式』内蔵寮には官祭として「山科祭」があり、四月と十一月に斎行され非常に多くの供物があったことが記載されています。
その後も延長六年(928年)に正四位下の神階を叙せられるなど、宮道氏の勢力拡大に伴って当社も隆盛を極めていったようですが、中世以降は社殿が焼失するなどあまり振るわなかったようです。
いつの頃からか当社は「西岩屋大明神」と呼ばれるようになり、山科盆地の向かい側の山の西麓の大宅中小路町に鎮座する「岩屋神社」と共に「東・西・上の岩屋三社」と呼ばれました。なお、「上の岩屋社」がどの神社を指すのかは不明です。
現在は恐らくかつてほどの規模ではないにしても、山科盆地の代表的な神社の一つとして広く信仰されています。
境内の様子
当社は山科盆地の西方、稲荷山の東側の中腹に鎮座しており、ちょうど伏見稲荷大社と山を挟んで背中合わせに鎮座している形となっています。
稲荷山の東麓に当社の入口があり、鳥居が東向きに建っています。
鳥居をくぐった様子。鬱蒼とした社叢に参道が伸び、奥は石段となっています。
石段を上って右側(北側)に手水舎があり、吐水口からは大量の水が豪快にジャブジャブと出ています。当地の湧き水なのでしょうか。
手水鉢にはかつての呼称である「岩屋大明神」と刻まれています。
石段の正面に社殿が東向きに並んでいます。
拝殿は桟瓦葺・平入入母屋造の舞殿風拝殿。桁行三間、奥行二間の建物です。
拝殿後方は崖となっており、石段を上ると正面に本殿が瑞垣に囲まれて建っています。
本殿は檜皮葺の三間社流造で朱が施された優美な建築。建立年代は明確でないものの室町時代後期から江戸時代前期の建築と考えられており、京都市指定有形文化財となっています。
案内板
山科神社本殿
本殿前の石段下に配置されている狛犬。花崗岩製です。
本社本殿の左側(南側)の空間に二社の境内社が鎮座しています。
この内、手前側に東向きに鎮座する境内社は社名を示す標の文字が消えていて読めず、社名・祭神は不明。流見世棚造。
奥側(南側)で北向きに鎮座するのは「護国社」。流見世棚造。
本社本殿の右側(北側)に多くの境内社が覆屋に納められ南向きに鎮座しています。
覆屋内で最も左側(北側)に鎮座するのは「愛宕神社」。流見世棚造。
愛宕神社の右側(東側)には「弁財天社」が鎮座。流見世棚造。
弁財天社の右側(東側)に「天満宮社」が鎮座。春日見世棚造。左の二社よりやや大きい社殿です。
天満宮社の右側(東側)に「春日社」が鎮座。春日社ですが何故か春日造でなく流見世棚造。天満宮社よりさらに大きな社殿です。
春日社の右側(東側)に「竃神社」が鎮座。かなり小さな春日見世棚造。
竃神社の右側(東側)に三間社流見世棚造の境内社があり、三社の相殿となっています。左から順に「稲荷社」、「山王社」、「夷社」が祀られています。
由緒
案内板
山科神社
地図
関係する寺社等
岩屋神社 (京都府京都市山科区大宅中小路町)
社号 岩屋神社 読み いわや 通称 旧呼称 鎮座地 京都府京都市山科区大宅中小路町 旧国郡 山城国宇治郡大宅村 御祭神 天忍穂耳命、栲幡千々姫命、饒速日命 社格 旧郷社 例祭 4月29日 式内社 山城 ...
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