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伏見稲荷大社 (京都府京都市伏見区深草藪之内町)

更新日:

社号 伏見稲荷大社
読み ふしみいなり
通称
旧呼称 三之峰稲荷大明神 等
鎮座地 京都府京都市伏見区深草藪之内町
旧国郡 山城国紀伊郡稲荷村
御祭神 宇迦之御魂大神、佐田彦大神、大宮能売大神、田中大神、四大神
社格 式内社、二十二社、旧官幣大社
例祭 5月3日

 

伏見稲荷大社の概要

京都府京都市伏見区深草藪之内町に鎮座する式内社です。『延喜式』神名帳に名神大社に列せられたと共に、二十二社の上七社にも列せられており、古くから非常に格の高い神社でした。

当社は京都盆地の西側に鎮座する「松尾大社」と共に「秦氏」が奉斎してきた神社です。五世紀頃に本邦へ渡来した秦氏は京都盆地に定住し、彼らの持つ卓越した技術力で以て大規模に開発しました。彼らの領域は京都盆地一帯に広がり、これに伴い西側の松尾山に松尾大社、東側の稲荷山に当社を奉斎しました。

社伝では当社の創建は和銅四年(711年)二月の初午の日としています。一方、当社の創建については『山城国風土記』逸文に次のような記述があります。

『山城国風土記』逸文(大意)

伊奈利と称するのは次の通り。秦中家忌寸の祖、秦伊侶具は豊富な稲作で裕福だった。そこで餅を的にして矢を射ると白い鳥となって飛び、山の峰に降り稲が成った(※子を生んだとする写本もある)。それで社の名とした。その子孫は先祖の過ちを悔いて社の木を抜いて家に植えて祭った。今ではその木を植えて根付けば幸福となり、枯れれば幸福にならないという。

同様に餅を的にしたところ餅が鳥となったとする話は『豊後国風土記』にも見え、そちらでは鳥が飛び去った後に人々は死にゆき田畑は荒れ果てたとされています。餅が穀霊であり、鳥はその象徴、または媒介的な存在であることが示唆されています。『豊後国風土記』では鳥が飛び去った後の破滅が描かれており、『山城国風土記』逸文でも餅を的にしたことを過ちとしているので、元来は破滅的な描写があったのかもしれません。いずれにせよ、これをきっかけとして稲の実りを司る穀霊を祀ったことが示唆されています。

それより後に書かれた縁起にはこれとは全く別の由緒が描かれています。南北朝時代に書かれた『稲荷大明神流記』には次のようにあります。

『稲荷大明神流記』(大意)

弘仁七年、弘法大師が紀伊田辺の宿で異相の老翁に会った。老翁は自分は神であると言い、自分の弟子になるよう勧めると、弘法大師は東寺で待っていると答え約束を交わした。弘仁十四年、件の紀伊の神が東寺の南門に来た。稲を荷し、椙の葉を提げ、二人の女と子供を率いていた。弘法大師は喜んでもてなし周りもこれに倣った。その後一行はしばらく二階の柴守に寄宿し、その間に弘法大師は寺の杣山に勝地を定めて十七日間祈祷し、老翁を神として祀った。

また、東寺に伝わる『稲荷大明神縁起』には次のように描かれています。

『稲荷大明神縁起』(大意)

100年の昔、和銅年間から竜頭太という者が稲荷山の麓に庵を結んでいた。その顔は龍のようで、顔の上に光があり、夜でも昼のように明るく照らした。人はこれを竜頭太と呼び、姓は荷田という。稲を荷す故である。弘仁の頃、弘法大師がこの山で修行していると、竜頭太が現れて「我はこの山の神である。仏法を守護しようと願っているので真言の口味を受けたい。さすればこの霊地を譲り渡そう。」と言った。弘法大師は深く敬ってその顔を面に移して神体とした。この面は東寺の竈戸殿に安置している。弘法大師は山を譲り受けた後に稲荷明神をこの地に勧請した。山麓には藤尾大明神が鎮座していたが深草に遷座させた。

これは秦氏と共に当社の社家を務めた「荷田氏」(秦氏の傍流とも別の出自とも言われる/江戸時代には国学者の荷田春満を輩出)に伝わる由緒のようで、東寺との関係が非常に密接であることがわかります。東寺はかつて当社の神宮寺のような存在であり、今でも当社の氏子は東寺付近となっています。

一方で『稲荷大明神縁起』にあるように、稲荷山の麓には元々は藤尾大明神が鎮座していたと伝えています。藤尾大明神は現在の「藤森神社」に合祀されている神社とされています。藤森神社の伝承も旧地は当社付近と伝えられ、また現在も当社付近の氏子は藤森神社となっています。

このように当社の由緒は『山城国風土記』逸文が伝える秦氏による白鳥伝承と、『稲荷大明神流記』や『稲荷大明神縁起』のように弘法大師との関わりの中で描かれる伝承の二通りがあることがわかります。前者は餅が白鳥となった点に穀霊が示唆され、後者は「稲を荷する」点に稲の神であることが示唆されています。それと同時に竜頭太の顔が龍の如きであったことから、稲荷山に住まう龍神であり、また農業に必要な水を司る神であったことも考えられるかもしれません。

平安時代には当社は上社・中社・下社に分かれていたようで、これが稲荷山上の一ノ峰・二ノ峰・三ノ峰に対応するのか、それとも山上・山腹・麓に対応するのかは所説あるようです。ただ、藤森神社の伝承に永享十年(1438年)に山頂にあった稲荷社の社殿を麓に遷したとあり、この頃に麓に集約して祀るようになったようです。

『延喜式』神名帳は三座とあり、「宇迦之御魂大神」「佐田彦大神」「大宮能売大神」を本来の祭神としています。後に「田中大神」「四大神」が合祀されましたが、この二神がどのような神であるのかは詳らかでありません。

当社は古くから朝廷のみならず庶民からの崇敬も篤く、特に江戸時代には商売繁盛の神として非常に人気となり全国に勧請されました。

祈願が成就した礼として朱の鳥居が奉納され、稲荷山の参道はこの鳥居がずらっと並んでいます。この光景は非常によく知られており、現在では国内はおろか世界各国から非常に多くの参拝客が訪れ、日本で最も人気のある観光地とまで言われるほどです。一年を通して非常に活気のある神社と言えましょう。

 

境内の様子

境内入口。一の鳥居である大きな朱鳥居が西向きに建っています。なおこちらの入口はJR稲荷駅からすぐですが、京阪の伏見稲荷駅からは裏参道から入るのが一般的なので一の鳥居を迂回する形になります。

 

参道を進んでいくと二の鳥居が建っています。上の写真は夏場の夕方17:30頃ですが、全く参拝客が減る様子が無く、遅い時間まで非常に賑わう神社であることがわかります。恐らく世界で最も有名な神社であり、その求心力は凄まじいものがあります。

 

二の鳥居をくぐると石段の上に三間一戸の檜皮葺・平入入母屋造の楼門が建っています。楼門およびこれに接続する南北の廻廊は天正十七年(1589年)の造営で、国指定重要文化財

 

楼門の前には当社の神使である狐に因み銅製の狛狐が配置されています。

 

楼門内には左右に随身像が安置されています。楼門は随身門の機能も兼ねています。

 

楼門をくぐると西向きの社殿が並んでおり、すぐ正面に檜皮葺・平入入母屋造の「外拝殿(げはいでん)」が建っています。この建物は元は四間四方だったものを天保十一年(1840年)に稲荷祭礼で五基の神輿を並べるために間口五間奥行三間に改造されたものです。

ただし、『都名所図会』の挿絵では間口三間、奥行き二間のやや小さな舞殿風拝殿として描かれています。国指定重要文化財

 

外拝殿の後方、石段上に「内拝殿」が建っています。銅板葺の平入入母屋造で非常に大きな唐破風の向拝が付いているのが特徴。『都名所図会』ではこの建物は描かれておらず、かつては直接本殿に参拝する形式だったようです。

 

内拝殿前にも銅製の狛狐が配置されています。

 

内拝殿の後方に檜皮葺・五間社流造の本殿が建っています。神社建築としては非常に大規模で、前面の屋根が長いのが特徴です。明応三年(1494年)に建立された貴重な建築で、国指定重要文化財

本殿に祀られる神は左側(北側)からそれぞれ「田中大神」(最北座/下社摂社)、「佐田彦大神」(北座/中社)、「宇迦之御魂大神 」(中央座/下社)、「大宮能売大神」(南座/上社)、「四大神」(最南座/中社摂社)。形式的には宇迦之御魂大神を中心として佐田彦大神と大宮能売大神を併せた三神を主祭神とし、残りの二神はその摂社という扱いになっています。

 

本社内拝殿の南側には「神楽殿」が建っています。

 

本殿の左側(北側)には檜皮葺・五間社流造の「権殿」が建っています。本社社殿で遷宮・改修などが行われるとき、代わりに神を祀るところです。寛永十二年(1635年)の建立で国指定重要文化財

案内板「権殿(重要文化財)」

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権殿(重要文化財)

構造

五間社流造 檜皮葺

建立

寛永十二年(一六三五)

この社殿は、『明応遷宮記録』(一四九九)によると『御殿ノ北ニハ仮殿 若宮ト云也是ハ遷殿トテ本社造営ノ時、此宮ヘ御ウツリ也 為其仮殿ト申ス也』とあり、この頃には建立されていた様である。

現在の建物は、寛永十二年(一六三五)に再興されたもので、昭和三十四年(一九五九)に東北側に移築された。

 

権殿横から奥社奉拝所へ

権殿の左側(北側)に鳥居が建っており、ここから石段を上った先の空間に多くの境内社があります。

 

石段の上の空間を左手前側(北西側)から見ていきます。

最も北西側に鎮座するのは「長者社」。「秦氏の祖神」を祀っています。

秦氏は当社を創建し、代々社家を務めた氏族です。一間社流見世棚造の江戸時代前期の建築で国指定重要文化財の附

案内板「末社 長者社」

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末社 長者社(重要文化財・附)

御祭神

秦氏(当社旧社家)の祖神

例祭日

八月八日 午前十一時

構造

一間社流見世棚造 檜皮葺

建立

江戸時代前期

この社殿は、『明応遷宮記録』(一四九九)に境内社としてすでに現れており、天正の社頭図に本殿の北方に「長者社 西向」と描かれている。社殿の化粧部材はほとんど江戸初期の材が残されており、元禄七年(一六九四)、以前からある建物を現在の地に遷したものと考えられる。

 

長者社の右側(東側)に「荷田社」が鎮座。御祭神は「荷田氏の祖神」。

荷田氏は秦氏とともに当社の社家を務めた氏族で、江戸時代には著名な国学者である荷田春満を輩出しています。

元禄七年(1694年)に建立された一間社流見世棚造で、国指定重要文化財の附

案内板「末社 荷田社」

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末社 荷田社(重要文化財・附)

御祭神

荷田氏(当社旧社家)の祖神

例祭日

十二月十三日 午前十一時

構造

一間社流見世棚造 檜皮葺

建立

元禄七年(一六九四)

この社殿は、安元二年(一一七六)、荷田氏の祖・荷大夫没後、「稲荷山の命婦社の南に社を造り霊魂を祀る」とあり、『明応遷宮記録』(一四九九)には「命婦ノ南ニハ荷大夫明神在之云々」と記されている。元禄七年(一六九四)、現在の地に再興された。

 

荷田社の右側(東側)に「五社相殿」が鎮座。それぞれ左側から次の神社の相殿となっています。

蛭子社」(御祭神「事代主神」)
猛尾社」(御祭神「須佐之男命」)
若王子社」(御祭神「若王子大神」)
日吉社」(御祭神「大山咋神」)
八幡宮社」(御祭神「応神天皇」)

それぞれ境内の各所に祀られていた神社を元禄七年(1694年)に相殿として祀ったものです。五間社流見世棚造で国指定重要文化財の附

案内板「五社相殿」

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五社相殿(重要文化財・附)

構造

五間社流見世棚造 檜皮葺

建立

元禄七年(一六九四)

末社 八幡宮

御祭神 応神天皇

例祭日 九月十五日 午前十時

末社 日吉社

御祭神 大山咋神

例祭日 四月十四日 午前十時

末社 若王子社

御祭神 若王子大神

例祭日 四月十五日 午前十時

末社 猛尾社

御祭神 須佐之男命

例祭日 四月十五日 午前十時三十分

末社 蛭子社

御祭神 事代主神

例祭日 四月七日 午前十時

この社殿は、古くは長禄三年(一四五九)の記録に表れる若王子社を始め、境内に祀られていた各社を、元禄七年(一六九四)、現在の地に遷し、五社相殿に奉祀したものである。

 

五社相殿の右側(東側)に「両宮社」が鎮座。御祭神は「天照皇大神」「豊受皇大神」。

当社の殆どの社殿に朱が施されるのに対し、この社殿だけ素木で異彩を放っています。元禄七年(1694年)に建立された神明造で国指定重要文化財の附

案内板「末社 両宮社」

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末社 両宮社(重要文化財・附)

御祭神

天照皇大神
豊受皇大神

例祭日

十月十七日 午前十時

構造

二間社切妻見世棚造 檜皮葺

建立

元禄七年(一六九四)

この社殿は、天正十七年(一五八九)の社頭図に「伊勢両宮南向再興」とあり、神明造の社が描かれている。その後元禄七年(一六九四)現在の地に社殿が再興された。

 

石段奥の東側へ。こちらの左側(北側)に「供物所」があります。妻入入母屋造の建物で、社殿のような出で立ちですが、これは稲荷山に坐す神々へ供物を奉納するための建物です。正面の開口部から供物を差し入れるもので、他にあまり例を見ない建物です。

案内板「供物所」

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供物所

構造

妻入 銅板葺

建立

安政六年(一八五九)

この建物は、稲荷山に坐す神々への供物をする所として建立。正面中央格子戸の下部に開口部があり、供物を外部より差し入れる特異な形式である。

 

供物所の右側(南側)に「玉山稲荷社」が鎮座。御祭神は「玉山稲荷大神」。

東山天皇が祀っていた稲荷社を、崩御の後に松尾の月読神社の社家が預かり、その後某所に遷座、明治七年(1874年)に当地に遷座されたものです。

案内板「末社 玉山稲荷社」

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末社 玉山稲荷社

御祭神

玉山稲荷大神

例祭日

八月十五日 午前十一時

構造

一間社流造 檜皮葺

建立

明治八年(一八七五)

この社殿は、東山天皇が宮中において奉祀されていた稲荷社を崩御の後、天皇にお仕えしていた松尾月読神社の社家松室重興氏がお預りした。その後高野(左京区)私邸内に遷座、明治七年(一八七四)諸般の都合により当社に遷座されたものである。

 

玉山稲荷社の右側(南側)に神馬像が、さらに南側の参道突き当りにもう一つ神馬像が安置されています。

 

参道は升形状に続いており、その先にさらに石段があります。この石段の上の空間にも境内社が鎮座しています。

 

石段の上、左側(北側)に「白狐社」が鎮座。御祭神は「命婦専女神(みょうぶとうめのかみ)」。

当社では狐を神の使い(眷属)としていますが、その眷属を祀っています。

当社において狐を眷属とするようになった経緯は神道・仏教・その他海外の典籍等の様々の信仰や神話が結びついた結果と思われますが、『稲荷大明神流記』には次のような話が描かれています。

『稲荷大明神流記』(大意)

弘仁年間のこと、船岡山の麓に年老いた狐の夫婦がいた。オスは銀の針を立てたような毛並みで、尾は五鈷杵を巻き挟んだようであった。メスは頭は鹿、身体は狐で五匹の子狐を連れていた。この狐の夫婦は稲荷山に参り「我らは世を守り人々を助けたいと願っているが、畜生の身では成し遂げられない。どうか神の眷属となってこの願いを成し遂げたい」と言った。すると稲荷神は喜んでこれを受け入れて狐の夫婦を眷属とし、男狐に「小薄(コススキ)」、女狐に「阿古町(アコマチ)」の名を授けた。この狐は「告狐」と呼ばれ霊験あらたかなものである。

このように当社と狐は古くから結びついて信仰されていました。一説には白狐社の御祭神である「命婦専女神」とは、上に出てくる女狐である「阿古町」であるとも言われています。

白狐社の社殿は寛永年間に建立された一間社春日造の建築で国指定重要文化財

案内板「末社 白狐社」

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末社 白狐社

御祭神

命婦専女神(みょうぶとうめのかみ)

例祭日

一月四日 午前十時三十分

構造

一間社春日造 檜皮葺

建立

寛永年間(一六二四~一六四四)

この社殿は、稲荷大神の眷属を祀る唯一の社で、古くは「奥の命婦」「命婦社」とも称された。

元禄七年(一六九四)までは現在の玉山稲荷社あたりに祀られていた。

 

白狐社の右側(南側)に「奥宮」が鎮座。御祭神は「稲荷大神」。

この境内社は摂社でも末社でもない別格の神社として扱われており、かつては廻廊があったようです。

天正年間に建立された三間社流造で、国指定重要文化財

案内板「奥宮」

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奥宮(重要文化財)

御祭神

稲荷大神

例祭日

一月四日 午前十時

構造

三間社流造 檜皮葺

建立

天正年間(一五七三~一五九二)

この社殿は、本殿と同様の流造で建てられ、摂社でも末社でもんはく稲荷大神を祀ることから、他の境内社とは別格の社である。『長禄三年(一四五九)指図』には「命婦」として記され、存在が確認できる。『明応遷宮記録』(一四九九)には西側に八間の廻廊があったことが記されているが、この廻廊は現存していない。

現在の社殿は天正年間に建立されたもので、元禄七年(一六九四)に修復された。

 

この空間もまた升形状になっています。この空間の先、奥宮の右側(南側)からは参道に非常に多くの朱鳥居が連なっており、目に飛び込んでくる鮮やかな鳥居の数々はまさに壮観です。これらは「千本鳥居」と呼ばれており、世界的に有名な光景です。

 

千本鳥居を抜けた先の空間に「奥社奉拝所」があります。稲荷山への遥拝所にあたりますが、拝殿と本殿を備えており、普通の神社と変わらない形態です。その立地からしても、上述の奥宮よりも”奥宮らしい”出で立ちとも言えます。

拝殿は銅板葺きの妻入切妻造、本殿は檜皮葺の平入入母屋造で、非常に長い千鳥破風の向拝が付いています。

 

奥社奉拝所では絵馬ならぬ「絵狐」が多数奉納されており、名物になっています。絵狐に各々が思い思いに顔を描くのが習わしになっています。

 

後方にある「おもかる石」も有名です。

願いを念じて灯籠の空輪を持ち上げ、その重さが軽いと感じれば願いは成就し、重いと感じれば願いは成就しないとされています。

おもかる石は各地で見られるもので、石を持ち上げられれば神に願いが通じるとする信仰です。各地で力比べに用いられた力石はこれと同様の例と言えましょう。

 

 

東丸神社

ここで一旦本社側へ戻ります。

本社外拝殿の南側には「東丸神社」が北向きに鎮座しています。御祭神は江戸時代の当社の神官であり国学者でもあった「荷田東丸命(荷田春満/かだのあずままろ)」。

伏見稲荷大社の境内に接続していますが実は独立した神社です。学問に験のある神社として信仰されています。

案内板「東丸神社由緒略記」

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東丸神社由緒略記

祭神

荷田東丸命

鎮座地

京都市伏見区深草藪之内町

祭神荷田東丸(春満)大人は寛文九年(一六六九)正月三日この地に誕生、本名は羽倉信盛と申し幼少より歌道並に初動に秀れ、長じては国史、律令、古文古歌、さては諸家の記伝にいたるまで独学にて博く通じ、殊に内容の乏しい形式的な堂上歌道を打破して自由な本来の姿に立返らしめんとしました。元禄十年、廿九才の時から妙法院宮に稼働の師として進講されましたが、大人は当時幕府が朱子学を政治の指導理念としていたため、書を学ぶ者皆極端に漢風にのみ走るをみて、古学廃絶の危機にあるを憂え、古学復興こそ急務であるとして

われならで かけのたれをの たれかよに あかつきつくる こゑをまつらむ

の一首をのこして文化の中心たる江戸に下向されました。江戸在住の間、大人はあえて師を求めず、日夜独力孜々として研鑽、傍ら門人達に古学を講じましたがその卓越せる学識は世に聞え高く、享保七年将軍より建議並に百般の書籍の推薦検閲の特権を与えられ偽本の跡を絶たれました。享保八年錦衣帰郷された後も、日夜研究著述を旨とされる傍ら加茂真淵など門人多数に講義されておりましたが、古学普及のためその宿願たる倭学校を東山の地に創建せんとして幕府に提出すべく「請創造倭学校啓」を著されましたが志もむなしく、享保十五年病を得、ついに元文元年七月二日六十八才をもって帰天せられました。大人病むの報一たび吉宗将軍の許に達するや、将軍より度々秘薬を贈られました。東丸大人には著書が夥しくありましたが、そのうち研究の末に足らざるものを残すは却って後世に災ありと学者的良心から、その臨終に際し侍床の童子に命じて手近なものは焼かしめられましたが、今なお神祇道、日本史、律令、格式、有識故実、歌学及び語釈に関する遺著及び遺墨が多数残っています。されば大人の学徳を偲ぶ有志の人々相寄って荷田旧邸の一部であるこの地に社殿を創建し爾来「学問守護」の神としてひろく崇敬されることとなりました。

東丸大人と赤穂義士

東丸大人の逸話のうちで、江戸在住中多数の門人に古典古学を講じておられました。吉良上野介もまた教を受けた一人でありましたが、大人(通称羽倉齋)は彼の日頃の汚行を見聞するに及んで教えることをやめられました。たまたま元禄十五年に以前から親交のあった大石良雄の訪問をうけ、その後堀部弥兵衛同安兵衛、大高源吾等とも交わり、吉良邸の見取図を作り大高に与え、十二月十四日吉良邸に茶会のあることを探って赤穂義士を援助したこともありました。

なお当社は御祭神の邸跡の一部に建っていますので伏見稲荷大社と境内が隣接していますが別の神社であることを御承知下さい。

 

東丸神社の参道の左側(東側)に「荷田社」(左側)と「春葉殿」(右側)が鎮座。荷田社は荷田氏の祖とされる「荷田殷」「荷田嗣」「荷田早」「荷田龍」を合祀しています。荷田龍は『伏見大明神縁起』に登場する「竜頭太」と同一人物です。

案内板「荷田社」

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荷田社

荷田社は東丸神社祭神荷田東丸命の遠祖荷田殷、嗣、早、龍の四霊を合祀しています。和銅四年稲荷大神稲荷山三の峯鎮座の際、最初に奉仕したのが第二十一代雄略天皇の皇子磐城王の裔である荷田殷であって爾来荷田家は代々稲荷社正官御殿預職をつとめましたが、この祖神のうち特に龍は高徳で学問をよくし弘法大師とも信仰あり、龍頭太夫、龍頭太などと称せられました。

弘仁八年十二月十三日その帰天のとき、雷鳴風雨はげしく、早咲の梅花悉く裏向きに降らし黒雲を呼びあたかも龍神昇天の如くであったと伝えられています。それを記念して荷田家の定紋は一重裏梅花を用いています。

また毎年十二月十三日を荷田祭と称し祭典が行われ毎年十三日に月次祭が斎行されます。

 

表参道の境内社

さらに戻って楼門手前側の表参道へ。参道途中の左側(北側)にちょっとした空間があり、ここに境内社が三社鎮座しています。

 

左側(西側)に鎮座するのは「熊野社」。御祭神は「伊邪那美大神」。

元禄七年に建立された春日見世棚造で、国指定重要文化財の附

末社 熊野社

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末社 熊野社(重要文化財・附)

御祭神

伊邪那美大神

例祭日

七月十四日 午前十時

構造

一間社春日見世棚造 檜皮葺

建立

元禄七年(一六九四)

この社殿は、平安末期に流行した熊野御幸において、上皇らが稲荷奉幣を行なった際、立ち寄り拝礼されたと伝えられる社である。元禄七年(一六九四)に建直され、幾度か移築をくり返し、昭和三十四年(一九五九)、現在の地に遷された。

 

中央に「藤尾社」が鎮座。御祭神は「舎人親王」。

元々伏見稲荷大社の地は藤尾大明神の地だったと言われています。藤尾大明神は現在の藤森神社に合祀されている一社ですが、それとは別に新しく藤尾社を祀っているようです。

江戸時代初期の流見世棚造で、国指定重要文化財の附

案内板「末社 藤尾社」

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末社 藤尾社(重要文化財・附)

御祭神

舎人親王

例祭日

五月五日 午前十時

構造

一間社流見世棚造 檜皮葺

建立

江戸時代

この社殿は、日本書紀を編纂した舎人親王を祀る社で、天正十七年(一五八九)の社頭図に「藤尾天皇再興 南向」とあるのが初出である。その後、延宝八年(一六八〇)には天皇塚の崩れた跡に小社を新築して藤尾社を創建したとの記録がある。

 

右側(東側)に鎮座するのは「霊魂社」。伏見稲荷大社に関係の深い人物の霊を祀っています。

一間社春日造。朱塗りの社殿の多い当社において、両宮社とともに素木の建築で異彩を放っています。

案内板「霊魂社」

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霊魂社

例祭日

秋分の日 午前十一時

構造

一間社春日造 檜皮葺

建立

慶応三年(一八六七)

この社殿は、瑞穂講社並びに講務本庁の特別崇敬者等、当社に係り深い物故者の御霊が合祀されている。

 

当社周辺の様子

多くの参拝客を集めるだけあって、当社の周辺は土産物屋や飲食店が建ち並び、大規模な鳥居町を形成しています。

厚揚げに酢飯を詰めた「稲荷寿司」は当社の名物となっています。参道近くにある「祢ざめ家」さんの稲荷寿司は中でも有名で、麻の実の入った独特の食感で大変美味です。小腹が空いたら是非ともどうぞ。

またスズメ・ウズラの丸焼きも名物となっています。

 

タマヨリ姫
うわー、すごい人!観光客の多い神社は京都にいっぱいあるけど、ここは特に別格って感じだね!
最近は特にすごいわね。日本で最も外国人観光客の人気があるところとも言われてるほどよ。おかげで一年中、朝から晩まで大賑わいの神社になってるわ。
トヨタマ姫

 

御朱印

 

由緒

案内板「伏見稲荷大社」

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伏見稲荷大社

当社は宇迦之御魂大神を主祭神に佐田彦大神・大宮能売神・田中大神・四大神を奉祀し、この五柱を総称して稲荷大神と称えられている。

稲荷大神は商売繁盛、五穀豊穣の神様として広く信仰され、全国各地に祀られる稲荷神社の総本宮である。御鎮座は和銅四年(七一一)二月の初午の日と伝えられ、毎年二月初午の日には初午大祭が斎行される。四月下旬から五月三日に稲荷祭、十一月八日には火焚祭が斎行される。

御本殿は応仁・文明の大乱で焼失したが、明応八年(一四九九)に再興し重要文化財に指定されている。また権殿をはじめ多くの社殿等も平成二十六年(二〇一四)に重要文化財に指定された。淳和天皇の天長四年(八二七)に従五位下の神階に授かり爾来年とともに昇叙し、天慶五年(九四二)正一位の極位に昇る。また承和十二年(八四五)に名神に列し、延喜式神名帳の中に山城国紀伊郡「稲荷神社三座 並名神大。月次・新嘗」とみえる。明治四年(一八七一)五月には官幣大社に列格、昭和二十一年(一九四六)十一月に伏見稲荷大社と改称され、今日に至る。

京都市

『都名所図会』

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三の峰稲荷大明神のやしろは大和大路(伏見街道)の南にあり。往昔人皇四十三代元明帝の御宇和銅四年二月十一日午の日この山に出現し給ふ。本社第一宇賀御魂神第二素盞烏尊・第三大市姫(巳上)田中社四大神この二神を併せて五座と称す。弘長三年に告あつて文永年中に併奉るなり。(『神祇拾遺』)又田中社の客人神大歳神は鶴と化して稲の實を含んで来現し給ふ。このゆゑに一切の鳥を献ることを忌といふ。延喜八年故贈太政大臣藤原朝臣時平三箇社を修造す。又永享十年に社を三の峯より今の地に移すなり。上の社は宇賀御魂伊弉諾伊弉朋尊を崇奉る。二月の初午参りは和銅年中二月初めの午の日出現より恒例の祭事となる。倉稲の縁によりて土器黎栗等を土産とするなり。古は神木の杦の枝を折りて帰り、家に収しとぞ。

初午をよめる

稲荷山しるしの杦を尋ねきてあまねく人のかざすけふ哉 顕仲朝臣

三の峰の御注連張は毎歳正月五日なり。(古山の半腹に瀧あり。今は水涸て小水流れ麓に至って祓川といふ)

『拾遺』瀧の水帰りてすまば稲荷山七日のぼりししるしと思はん 読人しらず

稲荷行幸の時

『夫木』いなり山杦まの紅棄きてみればたゞあを地なる錦なりけり 周防内侍

例祭は四月上の卯の日なり。神輿五基九条の御旅所より東寺南の大門を掻入て金堂の前に神輿をすへ産子は神供を頭に戴て運び持て献じ僧侶はかはる〱出て法施し東寺寺務の僧正をはじめ一山の衆僧は東西に烈し弦召は東のかたに警す。其厳重たる粧ひ他にならぶ事なし。是を東寺の神供といふ。近年安永三(甲午)年より祭礼の式再興ありて行烈の首には勅裁綸旨・弓・楯の神具かずかず烈り神輿の前後には社司のめん〱騎馬にて供奉し唐鞍の神馬三疋其外大幣・榊・翳・菅蓋・錦蓋等雲のごとくつらなり、巍々滔々として壮麗たる祭式なり。

 

地図

京都府京都市伏見区深草藪之内町

 

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