社号 | 城南宮 |
読み | じょうなんぐう |
通称 | |
旧呼称 | |
鎮座地 | 京都府京都市伏見区中島鳥羽離宮町 |
旧国郡 | 山城国紀伊郡中島村 |
御祭神 | 息長帯日売命、八千歳神、国常立尊 |
社格 | 旧府社 |
例祭 | 7月20日 |
城南宮の概要
京都府京都市伏見区中島鳥羽離宮町に鎮座する神社です。
当社の創建は不明ですが。延暦十三年(794年)の平安京遷都に際し、王城(平安京)の守護を祈って南方に「国常立尊」「八千矛神」「息長帯日売命」を併せ、「城南大神」として祀ったと言われています。城南宮とは文字通り王城の南に鎮まる神社であることを意味しています。
12世紀以降の院政期において、当社を取り囲むように当地に「鳥羽離宮」が造営され、上皇による院政の拠点となりました。これに伴い当社は離宮の守護神として時の上皇・法皇から厚い崇敬を受け、当社が整備されると共に度々の行幸がありました。
また当社は熊野詣の精進所として、また方違えの宿所としても利用され、今に至るまで「方除け」の神として信仰されています。
幕末においては鳥羽・伏見の戦いの場もなり、錦の御旗を掲げて旧幕府軍に勝利した薩摩勢は当社の神の御加護で勝利したとしてお礼参りをしたと言われています。
当社の境内にある神苑は花の名所であり、特に梅の美しさは京都でも有数です。いち早く京都に春の訪れを告げる神社として親しまれています。
真幡寸神社
城南宮の境内に式内社の「真幡寸(まはたき)神社」が鎮座しています。御祭神は「真幡寸大神」「応神天皇」。
当社の創建・由緒は詳らかでありませんが、神功皇后の三韓征伐の際に船上に立てた旗に神功皇后と八千矛神の神霊を添えて祀ったとも言われています。また一説に、当地に勢力を伸ばした秦氏が神を祀ったとする考えもあるようです。
当社は元々は別の地に鎮座していたと言われており、その旧地は二ヶ所が伝えられています。
- 現在の「藤森神社」の地
- 現在の京都市伏見区竹田真幡木町の地(竹田駅の西方200mほど)
1の説について、藤森神社の伝承では、元々稲荷山の麓に藤尾社が鎮座していたところ、永享十年(1438年)に後花園天皇の勅により将軍の足利義教が山上にあった稲荷社(現在の伏見稲荷大社)を麓に遷し、そこに鎮座していた藤尾社は藤森神社の地へ遷したと伝えています。さらにこの際、藤森神社の地に鎮座していた真幡寸神社は当地へ遷座したと言われており、二重の玉突きにより当地に鎮まったことになります。
2の説について、詳細は不明ですが地名の読みが一致しており、旧地であることには説得力があります。このためか現在でも当社は竹田地区の人々の信仰が厚いようです。町内のどこかに真幡寸神社の旧地であることを顕彰した石碑があるようですが未確認。
このようにいつの頃か城南宮に当社が遷座してきましたが、その後城南宮と当社が混同されたこともあったようです。明治年間以降に城南宮は真幡寸神社と改称されており、城南宮本社が式内社「真幡寸神社」の後継社とされています。
戦後の昭和四十三年(1968年)には再び本社を城南宮に改称し、新しく真幡寸神社の社殿を造営して今の体制に至っています。
境内の様子
入口は境内の東側と西側の両方にあり、それぞれに鳥居が建っています。こちらは東側の入口。
東側入口の鳥居をくぐった様子。このように境内を東西に貫く石畳の参道が伸びており、この東側と西側に入口がある格好となっています。
東西に貫く参道の途中から北西方向へ分岐して社殿の並ぶ空間が広がっています。その入口には南東向きの二の鳥居が建っています。神明造に似た鳥居ですが笠木と島木の構造となっており、朱が施されている点で特殊な鳥居です。
二の鳥居の右脇(東側)に手水舎があり、これに用いられる水は「菊水若水」と呼ばれる御神水です。霊元法皇がこの水を飲むと痛みが治ったとも伝えられ、あらゆる病を治癒すると信仰されています。
「伏水」を語源とすると思われる伏見における有名な湧水の一つで、大変美味な水です。
伏見の名水としては近隣の藤森神社の「不二の水」や御香宮神社の「御香水」も有名です。
鳥居をくぐると正面に拝殿が建っており、檜皮葺・妻入入母屋造の舞殿風拝殿です。全体的に新しい建築の多い当社において珍しく古式を感じられる社殿です。
拝殿の後方にもう一つ拝殿が建っており、公式ウェブサイトではこの建物を「前殿」と呼んでいます。鈴の緒や賽銭箱が設けられ、実質的にこちらが拝殿の機能を持っています。
銅板葺・平入入母屋造で唐破風付きの向拝が付いています。梅雨時の参拝だったため前殿の前に茅の輪が設けられていました。
前殿前の左右に配されている狛犬。砂岩製のように見え、やや古めかしく感じます。
後方には銅板葺・三間社流造の本殿が建っています。幣殿と接続しており権現造のような出で立ちです。
本殿の左右に七社の境内社が配置されています。左側(南西側)から時計回りに見ていきます。
本殿左側、手前側に鎮座するのは「稲荷社」。御祭神は「宇気毛智神」。
稲荷社の右側に鎮座するのは「厳島社」「住吉社」「兵主社」の相殿。御祭神はそれぞれ「市寸島比売神」「綿津見神」「須佐之男尊」。
住吉系の神社の神を(筒之男神でなく)綿津見神とするのは珍しい例と思われます。
厳島社の右側、本殿左側の最も奥に鎮座するのは「粟島社」。御祭神は「少名毘古那神」。
本殿の右側(北東側)へ移り、こちらの奥側に鎮座するのは「天満宮社」「妙見社」「金刀比羅社」の相殿。御祭神は「菅原道真」「天之御中主神」「金山毘古神」。
天満宮社・妙見社・金刀比羅社の右側に鎮座するのは「庚申社」。御祭神は「猿田彦神」。
庚申社の右側に鎮座するのは「大国主社」。御祭神は「大国主命」。
大国主社の右側、本殿右側の最も手前に鎮座するのは「春日社」。御祭神は「天児屋根命」。
道を戻ります。二の鳥居の南側、東西を貫く参道の左側(南側)に「三照宮社」が北向きに鎮座しています。御祭神は「天照大御神」。社殿は檜皮葺の一間社流造。
江戸時代には「三光社」と称し、特に上鳥羽の人々による信仰が厚いようです。
二の鳥居の東側に絵馬殿があります。瓦葺・平入入母屋造の建築で、多くの絵馬が掲げられています。
絵馬殿は元々社殿だったものを転用した例が多く、もしかしたらこの建築もそうなのかもしれません。
絵馬殿の東側に「芹川天満宮」が鎮座。御祭神は「菅原道真公」。社殿は檜皮葺の一間社流造。
天永二年(1111年)に当社南方の芹川の地に勧請されたと伝えられ、大正年間の初め頃に当社境内に遷座されました。
社殿傍らの社号標にもあるように「唐渡天満宮」の別名があります。鎌倉時代以降に禅僧の間で菅原道真が唐へ渡ったとする「渡唐天神」の伝説が生まれ、これに関して呼ばれたものと思われます。
芹川天満宮の敷地の隅に鎮座する小祠。詳細不明。
芹川天満宮の東側に「真幡寸神社」が鎮座。御祭神は「真幡寸大神」「応神天皇」。社殿は檜皮葺の一間社流造。
式内社ですが昭和四十三年(1968年)に新しく社殿が造営されたものです。詳細は上の概要を参照のこと。
神苑
当社には神苑があり、社殿をぐるっと囲むように立地しています。四季折々の花を楽しめ、中でも「しだれ梅」は有名です。毎年2月下旬には梅の花が神苑中で咲き誇り、まるで花のシャワーのような光景となります。
当社の梅は関西随一と言っても過言ではありません。是非とも時期を狙ってみてください。
当社の神苑は椿でも有名。苔の上の「落ち椿」は大変美しいと評判です。
当社では30種類以上もの椿の品種を見ることができます。
神苑ではその他、桜やツツジ、紅葉なども楽しむことができ、一年を通して美しい光景を見せてくれます。
神苑は五つの庭で構成されており、それぞれ違った趣を味わうことができます。花や紅葉だけでなく、池や流水、苔までも美しい庭園となっています。
神苑内の一画に鎮座する小さな祠。社名・御祭神は不明です。
おせき餅
当社境内の西方、国道1号をはさんだところに「おせき餅」と呼ばれる小豆餡をのせた餅が名物として販売されています。
その由来は、江戸時代に「せき女」なる女がいて、茶屋で編み笠の形をした餅を笠の裏に並べて旅人に提供していたことに始まると言われています。
その味は現代に受け継がれ、素朴ながらも美味な味を楽しむことができます。参拝の際は是非どうぞ。
御朱印