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御香宮神社 (京都府京都市伏見区御香宮門前町)

社号御香宮神社
読みごこうのみや
通称
旧呼称
鎮座地京都府京都市伏見区御香宮門前町
旧国郡山城国紀伊郡伏見町
御祭神神功皇后
社格式内社、旧府社
例祭4月17日、10月上旬

 

御香宮神社の概要

京都府京都市伏見区御香宮門前町に鎮座する神社です。

創建年代は不詳ですが、社伝によれば、貞観四年(862年)九月九日に境内から湧水が出て良い香りが漂い、この湧水を飲むと直ちに病が癒えるなどの奇瑞があったので、清和天皇より「御香宮」の名を賜ったと伝えられています。この湧水は明治以降に一時途絶えましたが、昭和五十七年(1982年)に復元され再び滾々と湧き出ています。

天正十八年(1590年)に豊臣秀吉が願文と太刀を献じ、その後伏見城の築城にあたって城内に遷座し鬼門除けの神社として崇敬を受けました。さらにその後、関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は慶長十年(1605年)に神社を元の地に戻し、社伝を造営しました。現在残っている本殿はこの時のものです。

明治元年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いでは当社境内が新政府軍(薩摩藩)の本営となったものの、奇跡的に当社の貴重な建築は戦火を免れました。

さて、当社は「神功皇后」を主祭神として「仲哀天皇」「応神天皇」その他六柱を配祀しています。神功皇后を御祭神とする理由は不明ですが、藤森神社に神功皇后の伝承が伝えられていることから当社でも同様の伝承があったのかもしれません。一方で仲哀天皇や応神天皇を同時に祀っており、上述の通り戦国武将に信仰されたことから武神である八幡神として信仰された可能性も考えられます。

また、一説に当社は元は式内社の「御諸神社」だったとも言われています。ただしその論拠は不明。「御諸」とは「御室」などとも称して神体山や磐座など神の降臨する神聖な場を指すことが多く、当社が御諸神社だったとしたらどこかから遷座してきた可能性も考えられます。紀伊郡でなく宇治郡ですが、南東6kmほどの地に三室戸寺があることは参考にすべきかもしれません。

当社は当地付近では藤森神社と並んで規模の大きな神社であり、伏見郷一帯の氏神として今も尚近隣住民から厚い崇敬を受け、特に安産の神として信仰されています。

 

境内の様子

一の鳥居は境内前の道路の西方に建っています。大きな朱鳥居ですが、車道にはみ出して建っているため往来する車は気を付けなければなりません。

 

御香宮神社

境内入口には三間一戸、平入切妻造の大きな薬医門である「表門」が南向きに堂々と建っています。元は伏見城の大手門として建てられていたもので、元和八年(1622年)に徳川頼房(水戸黄門の父)が寄進したものです。蟇股に中国の二十四孝の一幕が刻まれているのが特徴。国指定重要文化財

 

御香宮神社

表門をくぐると石造の二の鳥居が建っています。石畳の参道がここからおよそ150mほど続いています。

 

鳥居をくぐった様子。参道沿いは松の木が多く植えられています。

 

さらに参道を進んでいくとちょっとした石段があり、その上は社殿や社務所等の建つ空間となっています。

 

石段上の右側(東側)に手水舎があります。ただし現在使用されていないようで、後述の本殿前にある湧水「御香水」を手水に使うよう案内されています。

井筒に「斯水神霊」と刻まれていますが、元はこちらから「御香水」が汲み出されていたのでしょうか。

 

御香宮神社

参道正面に南向きの社殿が並んでいます。

拝殿は瓦葺・平入入母屋造で軒唐破風の付いた割拝殿で、桁行七間の大規模なもの。軒唐破風等に緻密な彫刻が施されています。

寛永二年(1625年)に徳川頼宜(初代紀州藩主)によって寄進されたもので京都府指定文化財。国重文に昇格しても良さそうな極めて立派な建築です。

なお、京都付近で割拝殿は珍しく、当地付近では藤森神社でも割拝殿が見られます。

 

拝殿前の狛犬。砂岩製でしょうか。

 

割拝殿の通路からは本殿前まで切妻屋根の付いた廊下が続いています。

 

御香宮神社 本殿

中門と透塀に囲われて檜皮葺・五間社流造の大規模な本殿が建っています。頭貫、木鼻、蟇股、向拝などに緻密な彫刻が施されており、極彩色に塗られています。一時的に伏見城内に遷座していた当社が徳川家康によって旧地に戻された慶長十年(1605年)に造営されたもので、国指定重要文化財。貴重な桃山建築の一例です。

 

本殿前には当社の社名の由来となった湧水「御香水」が流れ出ています。左右に二ヶ所あり、左側のちょろちょろと流れている方が濾過されたものなので飲用の際はこちらを用います。明治年間に一度涸れましたが、昭和五十七年(1982年)に復元され再び滾々と湧き出ています。

「伏水」を由来とすると思われる伏見の有名な湧水の一つで、名水百選にも選ばれた大変美味な水です。伏見の名水としては近隣に藤森神社の「不二の水」、城南宮の「菊水若水」などもあります。

案内板

御香水

 

また、本殿前の左右にソテツがあります。左側の株(西株)は雌株、右側の株(東株)は雄株で、特に西株は大規模なものです。本殿が造営された慶長十年(1605年)に近い年代に植えられたと考えられており、京都市登録記念物に登録されています。

案内板

御香宮神社のソテツ

 

本殿左側(西側)にある神馬像。

 

本殿の周囲を一周するようにして非常に多くの境内社が鎮座しています。本殿左側(西側)から時計回りに見ていきます。

本殿左側(西側)の最も手前側に鎮座する境内社は「菊姫社」。見ての通り稲荷系の神社です。

 

菊姫社の右側(北側)に鎮座するのは「弁才天社」。立ち入ることはできませんが三日月状の池があり、突き出た陸地部分に社殿が建っています。

 

弁才天社の右側(北側)に「松尾社」が鎮座。一間社流造の社殿に同じ幅の唐破風が異常に長く伸びており、中門を兼ねた独特の造りとなっています。

 

松尾社の右側(北側)に「東照宮」が鎮座。中門と透塀に囲われた中に拝殿(幣殿?)と本殿が建つ珍しい造り。

恐らく徳川家康が祀られているのでしょう。伏見城へ遷されていた御香宮神社を旧地へ戻し、現在の本殿を築いたのは徳川家康であり、また水戸・紀州・尾張御三家の藩祖も伏見で誕生したことから御香宮神社を産土神として崇め、徳川家とは深い関係があります。

 

松尾社から東側へ。本殿の後方に六社が相殿となった境内社が鎮座しています。左から「金札宮」「那智」「熊野社」「新宮」「天満天神」「春日大明神」。何故か両端が一回り大きめとなっています。

中でも変わった社名の「金札宮」は、『山城志』によれば元は御香宮神社の西北西1kmほどの久米町に鎮座していましたが、文禄年間に伏見城に遷されて城の鎮守社となり、城が廃れた後に御香宮神社西方600ほどの鷹匠町に遷されたことが記されています。恐らく明治以降に合祀されたのでしょう。

 

六社の相殿の右側(東側)に南向きに「伊勢社」が鎮座しています。妻入入母屋造の拝殿が設けられており、境内社としてはやや厚遇された造りです。

神明鳥居であることからも天照大神が祀られているものと思われます。

 

伊勢社の南側に隣接して西向きに「豊国社」が鎮座。豊臣秀吉を祀っているのでしょうか。御香宮神社は一時的に豊臣秀吉によって伏見城へ遷されており、願文や太刀が献じられるなど関係の深い人物です。

同じ神社の境内に東照宮と豊国社があるのもやや不思議な感があります。

 

豊国社の右側(南側)に四社が相殿となった境内社が鎮座しています。左から「住吉大明神」「八阪社」「恵美須」「若(?)宮八幡」が祀られています。こちらも何故か両端が一回り大きめ。

 

四社の相殿の右側(南側)、拝殿の東側に絵馬殿が建っており、多くの絵馬が掲げられています。算額も奉納されています。

 

拝殿の左側(西側)の能舞台。

 

参道を戻ります。参道途中の右側(東側)に小さな祠がありますが、社名・御祭神等は不明。

 

桃山天満宮

同じく参道途中の右側(東側)に「桃山天満宮」が鎮座しています。御祭神は「菅原道真」。御香宮神社の境内にあるものの、御香宮神社の摂社・末社ではなく独立した神社です。

 

拝殿は銅板葺・妻入入母屋造。舞殿風拝殿のようですが床が無く土間となっています。

 

本殿は透き塀に囲われて見えにくいですが銅板葺の流造です。

社伝によれば、かつて御香宮神社の東方にあった蔵光庵の僧が1390年頃に夢枕に菅原道真が立ち、数年後に贈られた菅原道真の画像が夢で見たものと同じであったのでこれを祀ったと言われています。各地を転々としていましたが昭和四十四年(1969年)に現在地に遷座しました。

案内板

桃山天満宮

 

桃山天満宮の社殿の北側に「嚴島社」が鎮座しています。

 

嚴島社の右側(東側)に三社が相殿となった境内社が鎮座しています。左から「紅梅殿」「白太夫社」「老松社」が祀られています。

 

社殿前に置かれている牛の石像。

 

桃山天満宮の境内の隅には伏見城の残石とされるものが転がっていました。

 

タマ姫
湧き水が社名の由来になってるんだ!良い匂いがする水ってどんな匂いなんだろ?
この辺りは良質な湧き水が多いのよ。「伏見」という地名は「伏水」に因むとも言われてるわ。伏見が全国的に有名な酒どころなのもこの湧き水のお陰と言えるわね。
トヨ姫

 

御朱印

 

由来

案内板

御香宮神社

 

地図

京都府京都市伏見区御香宮門前町

 

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