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下御霊神社 (京都府京都市中京区寺町通丸太町下ル下御霊前町)

社号 下御霊神社
読み しもごりょう
通称
旧呼称
鎮座地 京都府京都市中京区寺町通丸太町下ル下御霊前町
旧国郡 山城国京都
御祭神 吉備聖霊、崇道天皇、伊予親王、藤原大夫人、藤大夫
橘大夫、文大夫、火雷天神
社格 旧府社、式内論社
例祭 5月第3日曜日

 

下御霊神社の概要

京都府京都市中京区寺町通丸太町下ル下御霊前町に鎮座する神社です。上京区竪町に鎮座する御靈神社(上御霊神社)に対して当社は「下御霊神社」と呼ばれています。

社伝によれば、貞観五年(863年)に神泉苑で行われた御霊会で祀られた六柱に吉備聖霊(吉備真備)と火雷天神を加えた八柱を祀ったのが始まりであると伝えられています。

当社は御霊信仰、すなわち不慮の死を遂げた人物の怨霊が疫病や災害等の祟りをなし、これを鎮めるために祭祀する信仰に基づくものです。御霊信仰は平安京遷都以降に非常に盛んになり、藤原種継暗殺事件の連座によって幽閉され憤死した崇道天皇(早良親王)を筆頭に多くの人物が怨霊として恐れられました。

このような中で怨霊を鎮めるために国家的に行われた祭祀が貞観五年の御霊会です。御霊会では崇道天皇(早良親王)、伊予親王、藤原夫人(藤原吉子)、観察使(藤原仲成)、橘逸勢、文屋宮田麻呂の六柱が祀られました。いずれも不慮の死を遂げ怨霊と恐れられた人々です。

先述のように当社の御祭神はこの六柱に吉備聖霊と火雷天神を加えたものとなっており、御霊会の祭祀が当社に継承されたことが推測されます。

別伝として、御霊会に先だって藤原仲成の陰謀により幽閉され自殺した伊予親王と藤原吉子の親子の霊を鎮めるために承和六年(839年)に当社が創建されたとする伝承もあります。

 

当社の社地は転々としたことが伝えられていますが、当初の鎮座地は下出雲寺の境内だったと言われています。

平安京遷都以前は鴨川・賀茂川の右岸側は『倭名類聚抄』に見える山城国愛宕郡の「出雲郷」だったとされ、出雲系の人々が居住し氏寺として上出雲寺・下出雲寺を創建したことが考えられます。

上出雲寺は現在の上御霊神社の地だったと思われますが下出雲寺がどこだったのかははっきりしません。現在地よりそう遠くない地だったものと思われます。いつの頃か境内に鎮座していた御霊神社の方が隆盛し、下出雲寺は衰退して廃れていったようです。

また一方、当社が式内社「出雲井於神社」だったとする説もありますが有力ではありません。

現在地に鎮座したのは天正十八年(1590年)のことで、豊臣秀吉の命により遷座されたと伝えられています。

 

それにしても、平安時代初期の御霊信仰の神社である当社に吉備真備と火雷天神が合祀されたのは不審です。

吉備真備は特に不慮の死を遂げたわけでもなく当時にしては長い80年もの人生を全うしています。もちろん怨霊として祟りを成したとする伝承もありません。上御霊神社でも祀られていますが何故吉備真備が祀られているのかは謎に満ちています。

また、火雷天神は菅原道真のことだとも言われていますが、菅原道真は他の祭神と時代に大きな隔たりがあり、やはり不審です。或いは平安京遷都以前から祀られていた神が「火雷天神」として伝わっているのかもしれません。(詳細は上御霊神社の記事を参照)

 

人々の怨霊は人々に災いを為すと考えられましたが、後にはこれを鎮めることで人々を守護し幸福をももたらしてくれると考えられるようにもなりました。当社も御所の守護神として大いに信仰されてきました。

現在でも京都市中の守護神として広く崇敬を集めています。

 

境内の様子

下御霊神社

境内入口。境内の西側に西向きの朱鳥居が建っています。

 

鳥居をくぐると左右に狛犬が配置されています。花崗岩製。

 

鳥居をくぐると正面に本瓦葺・平入切妻造の四脚門の神門(正門)が建っています。

天明の大火後に造営された仮皇居の建礼門を下賜されたものと伝えられており、蟇股に龍や玄武・朱雀に乗った彫刻などがあり見事な建築です。

案内板「正門」

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正門

天明の大火(一七八八)後に造営された仮皇居(御所)の建礼門を下賜され移築したものと伝えられています。大きい梁の中央に龍が飾られ、表側の化粧梁には玄武と朱雀に乗った仙人が、また裏側の梁には麒麟と鳳凰が飾られております。

 

神門をくぐってすぐ左側(北側)に手水舎があります。ここで湧き出ている水は「御霊水」と呼ばれ、わざわざ汲みに来る人もいます。

明和七年(1770年)に旱魃があった際に夢のお告げで境内を掘ったところ水が湧き出て「感応水」と名付けられたと伝わっています。現在の手水はこれとはまた別のようです。

 

下御霊神社

下御霊神社

正面に西向きの社殿が並んでいます。

拝殿は檜皮葺・妻入切妻造の舞殿風拝殿。正面三間・奥行三間の大規模な舞殿風拝殿です。寛政十年(1798年)に建立されたもので、京都市指定有形文化財

 

下御霊神社

下御霊神社

拝殿の後方に拝所としての中門、および本殿を囲う透塀(廻廊)が建てられています。

中門はトタンが被せられており構造はよくわかりませんんが唐破風が向拝のように伸びています。

また本殿もトタンが被せられておりよく見えませんが、寛政二年(1790年)に仮皇居の賢所が下賜されたものと伝えられています。

これら拝所、廻廊、本殿は京都市指定有形文化財。傷みが激しいようで、速やかな修復工事が求められます。

案内板

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御本殿は天明の大火被災後、寛政二年(一七九〇)に仮皇居の賢所(内侍所)旧殿を御下賜になったものです。賢所とは皇位継承の御証である八咫鏡の別御霊(御鏡)が奉斎され皇祖天照大御神をお祀りされている御殿であります。

つまり現在も宮中の賢所に鎮祭されている御鏡が仮とはいえ暫くは祀られていた御殿を社殿用に賜ったのですから誠に畏れ多い事であります。このような例は上下御霊社、藤森社のみであり、当時の宮廷の神殿を伝えるものとして貴重です。幣殿・拝所・廻廊・拝殿と共に京都市指定有形文化財となっております。

江戸時代中頃に大嘗祭などの朝儀を復興された霊元天皇(上皇)は、晩年に皇室と国の行末を案じて当社に御祈願文(重要文化財)を奉納され、さらに生前から崩御の後は下御霊社に祀るよう御違勅され、御霊八所の神と共に御祀りしております。天皇御自ら望まれて御祭神として祀られた例は他にありません。霊元天皇の大御心を拝察すれば今もここから皇室と日本国民を御守護されているのです。

 

中門前に配置されている狛犬。こちらは砂岩製です。

 

また拝殿と中門の間には左右に盛砂もあります。

 

本社本殿の左側(北側)には三社の境内社が西向きに鎮座しており、一つの拝所を共有しています。一般に「三社託宣」として掛軸で祀られる三社ですが、ここでは神社として祀っており珍しい例です。

 

これら三社の内、最も左側(北側)に鎮座するのは「春日社」。銅板葺の春日見世棚造で文化四年(1807年)の建築。

 

春日社の右側(南側)に「神明社」が鎮座。「外宮」と「内宮」の相殿であり、二棟の神明造の社殿が横並びに連結したものとなっています。同じく文化四年(1807年)の建築。

 

神明社の右側(南側)に「八幡社」が鎮座。銅板葺の流見世棚造で同じく文化四年(1807年)の建築。

 

境内の南東隅に神物宝庫があります。天明八年(1788年)の大火により当社は焼失しましたがこの土蔵は焼失を免れ、納められていた宝物も無事でした。

ただ現在は傷みが激しくなっています。

案内板「神物寶庫」

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神物寶庫

これは神輿や祭具を補完する蔵(神庫)です。

天明八年(一七八八)の大火によりまたもや内裏をはじめ公卿の邸宅、多くの家屋が焼失し当社も罹災しました。

ただ幸いなことに土蔵だけは扉を締める事で火災を免れ、宝永の大火(一七〇八年)の翌年に東山天皇・霊元上皇より賜った大宮神輿など現代では再現不可能な貴重な祭器が無事でありました。

元々は宝永の大火後に建てられたと思われますが、その当時の境内絵図ではここには違う建物がありますので、天明の大火後に社殿造営に伴い現在の位置に移築したと考えられます。

 

本社拝殿の右側(南側)に四社の境内社が相殿になった流見世棚造の社殿が北向きに建っています。文化四年(1807年)の建築。祀られているのは左から順に次の通り。

  • 日吉社
  • 愛宕社
  • 大将軍社」と「高知穂社」(御祭神「瓊々杵尊」)の相殿
  • 斎部社」(御祭神「天太玉命」)

 

四社の相殿の右側(西側)に「大国主社」が北向きに鎮座。御祭神は「大国主神」「事代主神」。檜皮葺の流造で文化四年(1807年)の建築。

 

大国主社の右側(西側)に「天満宮」が東向きに鎮座。社殿は覆屋の中に納められています。

 

神門の右側(北側)に「垂加社」「猿田彦社」「柿本社」の三社の相殿が東向きに鎮座。桟瓦葺平入入母屋造の拝殿が設けられています。

垂加社には儒学者であり神道家である「山崎闇斎」が祀られています。

 

三社の相殿の右側(北側)に「稲荷大神」が東向きに鎮座。四基の朱鳥居が建ち、覆屋内に流見世棚造の社殿が納められています。

 

境内北側に「宗像社」が西向きに鎮座。御祭神は「宗像三女神(辨財天)」。桟瓦葺の平入切妻造で、文化八年(1825年)の建築。

 

タマヨリ姫
京都には上御霊神社と下御霊神社があるけどこの二社で一つのセットだったのかな?
二社の関係性は明らかじゃないけど、だいたいそのように信仰されてきたんじゃないかしら。両社とも京都を守護する神社とされてきたのよ。
トヨタマ姫

 

御朱印

 

由緒

案内板「下御霊神社」

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下御霊神社

平安初期の貞観五年(八六三)に神泉苑で行われた御霊会で祀られた崇道天皇(早良親王)、伊予親王、藤原吉子、藤原広嗣、橘逸勢、文屋宮田麻呂の六座に、吉備聖霊と火雷天神を加えた八座、即ち八所御霊を出雲路(上京区)の地に奉祀したのが始まりである。

いずれも無実の罪などにより非業の死を遂げた人物で、疫病流行や天変地異はこの怨霊によるものと考えられ、それを鎮めるために御霊が祀られた。

当初、御霊神社(上御霊神社)の南にあったことから下御霊神社と呼ばれるようになったといわれ、以後、社地を転々とし、天正十八年(一五九〇)に豊臣秀吉の命により当地に移転した。古来より、京都御所の産土神として崇敬され、享保年間(一七一六~一七三六)に霊元天皇が当社に行幸し、宸筆の祈願文を納めている。

本殿は、寛政三年(一七九一)に仮皇居の内侍所を移建したもので、表門は、旧建礼門を移したものといわれている。

境内の垂加社には、江戸時代の神道家、山崎闇斎を祀っている。

京都市

案内板「下御霊神社 本殿 幣殿 拝所 南北廊 拝殿」

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京都市指定有形文化財

下御霊神社 本殿 幣殿 拝所 南北廊 拝殿

現社殿は、天明八年(一七八八)の大火で旧社殿が焼失した後、再建されたものである。

本殿は天明八年に仮皇居の聖護院宮において造営された内侍所仮殿を、寛政三年(一七九一)に移建したもので、仮殿造営当初の規模、形式をよく残している。本殿の前には切妻造の幣殿(寛政五年)が取りつぎ、その前には更に唐破風造の拝所がつく。また、幣殿からは南北に入母屋造の廊(文政十三年・一八三〇)がのびている。

本殿、幣殿、拝所そして南北廊が、屋根をそれぞれ交錯させて一連の内部空間をつくる特異な社殿構成は、市内の御霊社に特有のものであり、なかでも当社の社伝は造営の年代が古く貴重である。

また、拝所の前方に独立して建つ拝殿は、寛政十年に造営されたものである。

昭和五十八年六月一日 指定
京都市

『都名所図会』

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下御霊社は京極通春日(今丸太町といふ)の南にあり。祭る神は八所の御霊にして上御霊と同神なり。八所の神名は上にしるす。例祭は上御霊と同日なり。

観音堂 社内にあり。洛陽観音巡りの第六番なり。

 

地図

京都府京都市中京区寺町通丸太町下ル下御霊前町

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