社号 | 御靈神社 |
読み | ごりょう |
通称 | 上御霊神社 等 |
旧呼称 | |
鎮座地 | 京都府京都市上京区上御霊前通烏丸東入上御霊竪町 |
旧国郡 | 山城国京都 |
御祭神 | 崇道天皇、他戸親王、井上大皇后、藤原大夫人、橘大夫 文大夫、火雷神、吉備大臣 |
社格 | 旧府社、式内論社 |
例祭 | 5月18日 |
上御霊神社の概要
京都府京都市上京区上御霊前通烏丸東入上御霊竪町に鎮座する神社です。正式には「御靈神社」と称しますが、中京区下御霊前町に鎮座する下御霊神社に対する神社として「上御霊神社」と呼ばれるのが一般的です。
社伝によれば、はじめ当地に上出雲寺があったところ、桓武天皇の御代の延暦十三年(794年)に早良親王(崇道天皇)の霊を当地に祀ったのが当社の始めであると伝えられています。
その一方、井上内親王と他戸親王の親子の霊を上出雲寺の鎮守社として祀り、後に早良親王(崇道天皇)が加えられたのが当社だとする伝承もあり、当社の創建についてはやや錯綜しています。
賀茂川右岸にあたる当地は平安京の遷都以前には『倭名類聚抄』に見える山城国愛宕郡の「出雲郷」だったとされ、出雲系の人々が居住していたと考えられています。彼らが創建した氏寺の一つが上出雲寺であり、その鎮守社として祀られたのが当社の前身です。
また当社は式内社「出雲井於神社」および「出雲高野神社」の論社となっていますが、これは当地が出雲郷だったからであり、論拠としては極めて薄いものとなっています。
当社の御祭神の八柱はいわゆる御霊信仰として祀られたもので、不慮の死を遂げた人物の怨霊が疫病や災害等の祟りをなし、これを鎮めるために祀ったものです。特に当社の御祭神の筆頭である「崇道天皇(早良親王)」「他戸親王」「井上大皇后」は不慮の死によって怨霊となった人物の代表的な存在です。(崇道天皇の詳細は「崇道神社」の記事を参照)
特に崇道天皇は桓武天皇の同母弟であり、藤原種継暗殺事件の連座によって幽閉され憤死しており、桓武天皇と非常に関わりの深い人物でした。彼の祟りは桓武天皇によって造営された平安京を脅かすものと考えられ、彼の霊を鎮めることは殊更に京の安寧に重要だと考えられたものと思われます。
こうした御霊信仰は平安京遷都以来特に強く信じられるようになり、貞観五年(863年)には平安京の神泉苑で不慮の死を遂げた人々の霊を鎮める「御霊会」が行なわれました。対象となった人物は崇道天皇(早良親王)、伊予親王、藤原夫人(藤原吉子)、観察使(藤原仲成)、橘逸勢、文屋宮田麻呂の六柱です。
当社の御祭神は御霊会で祀られた六柱から伊予親王と観察使が除外され、井上大皇后、他戸親王、火雷神、吉備大臣が加えられたものとなっています。(なお、伊予親王は下御霊神社で祀られている)
このことから御霊会の祭祀が当社および下御霊神社に継承されたことが窺われます。
当社の御祭神の内、「火雷神」とは崇道天皇以下六柱の荒魂であると伝えられています。しかし御霊信仰自体が人物の霊の荒魂的な要素が表出されたものであり、これとは別に荒魂が祀られるのは不審です。一説に菅原道真のことであるとも言われていますが他の祭神と年代に大きな開きがあるためこれも不自然です。
私見ですが、火雷神とは或いは御霊信仰以前に上出雲寺に鎮守社として祀られていた神だったのではないでしょうか。『山城国風土記』逸文の丹塗矢伝説では丹塗矢は火雷神であるとしており、またそれによって生まれた子を賀茂別雷命とし賀茂別雷神社(上賀茂神社)で祀っています。京都盆地ではとりわけ火雷神を祀ることが広く行われていたことが考えられます。
もしかしたらこの火雷神を祀っていた神社が式内社「出雲井於神社」もしくは「出雲高野神社」だったのかもしれません。
なお、上出雲寺は平安時代以降衰退し、鎮守社だった当社の隆盛に伴いいつの頃か廃れたと言われています。
また当社は応仁の乱勃発の地としても知られています。天正二年(1467年)一月十七日に畠山政長が当社境内に布陣し、翌十八日の早朝に畠山義就と激しく合戦を起こしました。「上御霊神社の戦い」として知られるこの戦から10年以上に亘って京都市中を巻き込んだ応仁の乱が始まりました。
このように京都御所の近くに鎮座する神社は京都の歴史と共にありました。怨霊を恐れる御霊信仰が薄れた現在でも京都を守護する神社として多くの人々から崇敬を集めています。
境内の様子
境内入口は境内の西側と南側の二ヶ所があります。西側が表参道にあたるのでこちらから紹介します。
境内の西側に西向きの鳥居が建っています。鳥居の額束や島木には菊花紋があしらわれており、朝廷と関係の深かったことが示されています。
鳥居をくぐると左右に狛犬が配置されています。花崗岩製で非常に貫禄ある堂々とした出で立ち。
鳥居をくぐって正面に銅板葺・平入入母屋造の楼門が建っています。
楼門の左右の部屋に随身像が安置されており、随身門としての機能を兼ね備えています。
神門をくぐった様子。広々とした境内に松などの木々が植えられ、石畳の敷かれた境内で、よく整った印象。
鳥居をくぐって左側(北側)に手水舎があります。
石畳の参道を進むと途中で左右に狛犬が配置されています。こちらは砂岩製でほっそりとした体形。古めかしさも感じられます。
さらにまっすぐ進むと正面に西向きの社殿が並んでいます。
拝殿は銅板葺・妻入入母屋造の舞殿風拝殿。正面三間、奥行三間の大規模な舞殿風拝殿です。
拝殿の後方には拝所としての中門と本殿を囲う透塀が建っています。
中門は銅板葺の妻入切妻造で、唐破風が向拝のように下部に設けられています。
中門前の狛犬。花崗岩製で、異様に目の小さいコミカルな顔つきです。
透塀に囲われて銅板葺・平入入母屋造の本殿が建っています。京都では入母屋造の本殿はやや珍しいように感じられます。
案内板には「享保十八年(一七三三)に下賜された賢所御殿を復元したもの」とあります。
本社社殿の周囲に非常に多くの境内社が鎮座しています。社殿左側(北側)から時計回りに見ていきます。
本社拝殿の左側(北側)に「八幡宮」が南向きに鎮座。
八幡宮の右側(東側)に六社の境内社が南向きに一つの覆屋に納められ、一つの拝所を共有しています。左側(西側)から順に見ていきます。
覆屋内の最も左側(西側)に「厄除社」「白髭社」の相殿が鎮座。
厄除社・白髭社の右側(東側)に「淡嶋社」が鎮座。
淡嶋社の右側(東側)に「大舞宮」が鎮座。この神社は三間社の平入入母屋造で唐破風の向拝が付いており、やや豪華な造りであることから特別な地位にあることが窺えます。
大舞宮の右側(東側)に「天満宮」が鎮座。
天満宮の右側(東側)に「多度神社」が鎮座。
多度神社の右側(東側)に「貴舩社」が鎮座。
六社の境内社の右側(東側)に三十間社流見世棚造という極めて長い社殿の境内社が南向きに鎮座しています。左から順に次の三十社が祀られています。
「春原社」、「荒神社」、「稲葉神社」、「今宮神社」、「熊野神社」、「愛宕神社」、「熱田神社」、「多賀社」、「嚴嶋神社」、「猿田彦社」、「貴布禰社」、「丹生神社」、「梅宮神社」、「八坂神社」、「廣田神社」、「吉田神社」、「日吉神社」、「住吉神社」、「龍田神社」、「廣瀬神社」、「大和神社」、「石上神社」、「大神社」、「大原神社」、「平野神社」、「春日神社」、「松尾神社」、「八幡神社」、「賀茂神社」、「鴨神社」
三十社の右側(東側)に「嚴島神社」が独立して南向きに鎮座しています。
本社本殿の後方(東側)に「神明神社」が西向きに鎮座。
独立して神明鳥居、妻入切妻造の拝殿が設けられています。伊勢系の神社と思われますが本殿は神明造でなく流造となっています。
本社本殿の右側(南側)に「福壽稲荷神社」が独立して西向きに鎮座。御祭神は「倉稲魂命」。
案内板
福壽稲荷神社
境内南西には桟瓦葺入母屋造で桁行四間、奥行二間の大規模な絵馬殿兼休憩所があります。屋根裏には新旧問わず非常に多くの絵馬が掲げられています。
先述の通り境内南側にも入口があります。こちらには銅板葺・平入入母屋造の四脚門の神門が建っています。
こちらの神門をくぐったところにも手水鉢が置かれています。
当社境内の南側から西側にかけて堀があり、ここに多数のイチハツが植えられています、初夏の頃には一面に紫の花を咲かせ、境内を華やかに彩ります。


御朱印
由緒
案内板
御霊神社(上御霊神社)
案内板
応仁の乱 勃発の地
『都名所図会』
地図
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