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崇道神社 (京都府京都市左京区上高野西明寺山)

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社号 崇道神社(崇導神社)
読み すどう
通称
旧呼称
鎮座地 京都府京都市左京区上高野西明寺山
旧国郡 山城国愛宕郡高野村
御祭神 早良親王
社格 旧村社
例祭 5月5日

 

崇道神社の概要

京都府京都市左京区上高野西明寺山に鎮座する神社です。

当社の御祭神である「早良親王」は桓武天皇の弟で、桓武天皇が即位すると立太子しました。しかし長岡京遷都に関して造長岡宮使の長官だった藤原種継が暗殺され、この事件に連座して早良親王は廃太子となり、乙訓寺に幽閉。その際に早良親王は無実を訴えるべく絶食を敢行し、淡路島へ配流される途中に河内国の高瀬神社付近で亡くなりました。

その後、関係者の病死や疫病、洪水などが相次いで発生し、これらの現象は早良親王の祟りであるとされたため、早良親王を慰めるべく、「崇道天皇」の追諡、祭祀による慰撫、陵墓の改葬などが行われました。

このように、天変地異や災厄を非業の死を遂げた人物の怨霊の仕業として、これを鎮めることで平穏を願う信仰を御霊信仰と呼びます。菅原道真を祀る天満宮は御霊信仰の有名な例ですが、早良親王は御霊信仰の中でもかなり早い例で、国家的に怨霊を鎮める宮中行事である「御霊会」の第一回目にも早良親王が含まれています。

当社はこうした中で創建されたと考えられ、最初の御霊会が行われた前後の貞観年間に創建されたと伝えられています。早良親王を単独で祀る神社は京都で当社が唯一です。

また、境内にある墳墓からは小野妹子の子であり飛鳥時代の政治家である「小野毛人」の墓誌が江戸時代初期に発見され、現在は国宝に指定されています。

小野神社

崇道神社境内に鎮座する式内社です。御祭神は「小野妹子命」「小野毛人命」。

『倭名類聚抄』に見える山城国愛宕郡の「小野郷」は当地付近と考えられ、和珥(わに)氏の一族である「小野氏」が当地に居住していたと考えられています。『新撰姓氏録』の山城国皇別に「小野朝臣」及び「小野臣」が登載されており、この氏族が祖神を祀り小野神社を奉斎したと思われます。

ただし、小野神社はいつの頃からか廃絶しており、所在もわからなくなっていました。先述のように崇道神社は小野毛人の墓があり、小野氏と関係が深いことから、崇道神社の社地は元々は小野神社だったとする説があります。他にも様々な説がありますが、いずれにせよかつて当地付近に小野神社が存在した可能性が高く、これに因み小野氏とゆかりある崇道神社の地において昭和四十六年(1971年)、小野神社が再興されました。

出雲高野神社

崇道神社境内に鎮座する式内社です。御祭神は不明。

元々は崇道神社自体が式内社「出雲高野神社」であるとする説がありましたが、昭和五十一年(1976年)に本社と別に小祠が設けられ祀られるようになりました。

当地の旧村名「高野村」を論拠にしていますが、式内社「出雲高野神社」は社名の通り出雲郷に鎮座していたと思われ、前述の通り当地が小野郷だったとしたら矛盾が生じます。ただし小野郷・出雲郷ともにその範囲には諸説あり、当地も出雲郷だったとする説もあります。

伊多太神社

崇道神社境内に鎮座する式内社です。御祭神は「伊多太大神」。

元々は西方400mほどの地にありましたが、応仁の乱で焼失、衰退。明治四十一年(1908年)に崇道神社境内に遷座されました。

「伊多太」は「湯立て」の意で、この神事は出雲系と同様のものと説明されています。湧水・農業の神として信仰されています。

 

境内の様子

境内入口。南向きの一の鳥居をくぐると鬱蒼とした森が広がり、一直線に参道が伸びています。

 

参道は150mほどあり、進んでいくと二の鳥居、三の鳥居が建っています。

 

三の鳥居をくぐると斜面が急になり、石段が設けられています。左右に石垣が積まれてあり、さながら城郭のような雰囲気もあります。

 

石段は二段構成になっており、中間の広場の左側(西側)に手水舎があります。

 

さらに石段を上ると南向きの社殿の建つ空間となります。

拝殿は銅板葺きの平入入母屋造で、舞殿風拝殿にも似ていますが床が無く土間となっています。

 

拝殿前の狛犬。花崗岩製です。

 

また、拝殿前には榊の立てられた盛り砂も配されています。盛り砂は神の憑代とも言われ、いわゆる神籬の一種ですが、御霊信仰の神社でもこのような素朴な信仰形態が見られるのは少し不思議な気もします。

 

拝殿の後方には土間の幣殿、そして銅板葺きの一間社流造の本殿が並んでいます。

 

拝殿前の左右それぞれの狛犬の後方に境内社が鎮座しています。

左側(西側)の境内社は「恵比須大神」「貴布祢大神」「日吉大神」を、右側(東側)の境内社は「春日大神」「赤山大神」「十二社大神」を祀っています。

 

本社社殿の右側(東側)には大小二社の境内社が鎮座しています。

左側(西側)の大きい方の境内社は「天照大神」「豊受大神」を祀っています。

右側(東側)の小さい方の境内社は式内社の「出雲高野神社」です。御祭神は不明。

 

社殿から石段を一つ下りたところにも左右に境内社が鎮座しています。こちらは左側(西側)の境内社。手水舎のすぐ側にあります。

手前右側(北側)の境内社は式内社の「伊多太神社」。御祭神は「伊多太大神」。

元々は当社の西400mほどの地に鎮座していましたが、明治四十一年(1908年)にこの地に遷座。「伊多太」とは「湯立て」の意とも言われています。

 

案内板「伊多太神社の由緒」

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伊多太神社の由緒

伊多太神社は洛北唯一の古い神社で祭神伊多太大神は元当村氏神で有った。湧水の神で有り農業の神で有る。都の丑寅に当るので小野神社二座(祭神小野妹子天武天皇重臣小野毛人六七七年)と共に王城の鎮護神として延喜五年延喜式内社と成った。伊多太は湯立の訛で社前にわ池ノ内・市川・大湯出等の良田が有る。往古より伊多太神社の神事(湯立儀)は出雲系と同様の神事で坐女は宮中に奉仕した。近世にわ知恵の神として都人多数に崇拝されて居る。明治四十一年七月当地崇導神社に合祀された。

昭和四十五年十一月
文学博士 志賀剛 鑑識

奥側には「鎌倉大神」「日吉大神」「美穂津大神」「三輪大神」「足之大神」「教之大神」の六神が一つの覆屋の中に相殿として祀られています。

 

また、参道の向かい側(東側)には「宇佐八幡大神」「北野天満大神」「市杵嶋姫大神」「弁財天大神」の四神が祀られています。

 

社殿の右側(東側)の石垣下に注連縄と榊の拵えられた石積みがあるのが気になります。何かを祀っているのでしょうか。

 

石段の最下部、三の鳥居の右側(東側)に広い空間があり、こちらにも境内社が鎮座しています。

 

この空間の入口近くには「行者の滝」と呼ばれる小規模な滝があります。恐らく修験道の滝行場だったのでしょう。

 

この空間を奥へ進んでいくと式内社の「小野神社」が鎮座しています。御祭神は「小野妹子命」「小野毛人命」。

この地はかつて小野郷だったと考えられており、小野氏の拠点の一つだと言われています。後述のように境内には小野毛人の墓があり、当社の御祭神にも加えられています。

傍らには石造宝塔が建てられています。

 

この空間の最奥部には「如意輪観世音大菩薩」が祀られています。傍らには多数の石仏も安置されています。

恐らくここはかつて神宮寺があり、先の行者の滝と一連の施設だったのではないでしょうか。

 

小野毛人の墓

さて、一旦道を戻ります。

行者の滝の傍らに斜面の上へ通じる登山道が伸びています。やや足場の悪い道ですが、ここを登っていくと…

 

この上に「小野毛人(おののえみし)」の墓があります。慶長十八年(1613年)にここで銅製の墓誌が発見され、現在は国宝に指定されています。

小野毛人は小野妹子の子であり飛鳥時代の政治家です。当地が小野氏にゆかりの深い地であることがわかります。

 

小野毛人の墓の付近からは高野川沿いの平野部、そして遠く京都盆地まで見渡せます。小野氏が居を構えたこの地の地形がよくわかります。

案内板「小野毛人墓」

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小野毛人墓

天武朝の官僚であった小野毛人は、最初の遣随使小野妹子の子で、天武6年(677)に没したとされる。

慶長18年(1613)、崇道神社境内の上高野一帯を見渡す山腹の墓から鋳銅製の墓誌が発見され、この墓が小野毛人を埋葬したものであることが明らかとなった。大正3年(1914)、墓誌は国宝に指定され、現在京都国立博物館に保管されている。

墓は、大正3年に調査され、その結果、板石で作られた石室は長さ約2.5メートル、幅及び高さ共約1メートル・当初は封士が施されていたものとみられる。

この墓は、市内に残る奈良時代前期の数少ない遺跡であり、当時の墓制を知るうえでも貴重なものであることから、昭和59年6月1日京都市指定史跡に指定された。

京都市

 

伊多太神社旧地

当社から西へ400mほどの住宅地に伊多太神社の旧地があります。ちょっとした杉林になっており、鳥居と石碑が建っています。

当初はこの地に鎮座していましたが応仁の乱で焼失、衰退し、明治四十一年(1908年)に崇道神社境内に遷座されました。

 

タマヨリ姫
境内から小野毛人って人の墓誌が発見されたんだって!…ところで墓誌って何?
亡くなった人の功績などを金属や石に記してお墓に埋めたものよ。これが意外に発見例が少なくて、小野毛人の墓誌はその貴重な一例なのよ。
トヨタマ姫

 

由緒

崇道神社

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崇道神社

奈良末期~平安初期の皇族、早良親王を祀る。

早良親王は、光仁天皇・高野新笠(たかののにいがさ)の子で、桓武天皇の実弟である。延暦四年に起こった藤原種継暗殺事件の首謀者として逮捕され、乙訓寺に幽閉された後、淡路に流される途中、無実を主張して絶食死した。

その後、桓武天皇の近親者の死が続き、都に悪疫が流行したため、早良親王の崇りと噂され、その怨霊を鎮めるために延暦十九年には崇道天皇と追号を贈り、墓を現在の八島綾へ改葬した。

ほかに、藤森神社・上御霊神社にも崇道天皇が祀られているが、崇道天皇のみを祭神としているのは、この崇道神社だけである。

京都市

案内板

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当社は桓武天皇の皇弟早良親王(崇道天皇の諱を追尊)を奉祀する旧高野村の産土の社で、その創建年代は詳かでない。延暦四年に造長岡京使藤原種継暗殺事件がおこり親王も関係ありとされて淡路島へ配流の道中大山崎で怨念を残しつつ憤死された。

その後朝廷をはじめ都の内外に不吉な事故と奇妙な異変が続発した。これらの怪異天災は親王の怨霊の祟りがあると占に出たために鎮魂の行事が盛んに行われた。都の鬼門に当ると共に北陸への要衝のこの高野の地に御霊社として親王を祀ることになった。御霊信仰の全国的に流行する貞観時代に早良親王のみを祭った例はない。

 

地図

崇道神社

京都府京都市左京区上高野西明寺山

 

伊多太神社旧地

 


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