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貴船神社 (京都府京都市左京区鞍馬貴船町)

更新日:

社号 貴船神社
読み きふね
通称
旧呼称
鎮座地 京都府京都市左京区鞍馬貴船町
旧国郡 山城国愛宕郡貴船村
御祭神 高龗神
社格 式内社、二十二社、旧官幣中社
例祭 6月1日

 

貴船神社の概要

京都府京都市左京区鞍馬貴船町に鎮座する式内社です。『延喜式』神名帳には名神大社に列せられ、また二十二社の下八社にも列せられた大変格式の高い神社です。保延六年(1140年)には正一位の神階も授けられました。

社伝によれば、反正天皇の御代、神武天皇の母である玉依姫命が浪速より黄船に乗って淀川・賀茂川・貴船川を遡り、水の湧き出る霊地である当地に水神を祀ったのが創建であると伝えられています。

また、別の社伝に丑の年・丑の月・丑の日・丑の刻に貴船山の中腹にある鏡岩に貴船神が天下ったとする伝承もあります。貴船山は神聖な地として現在は禁足地となっています。

いずれにしても極めて古い神話的な由緒を伝える神社です。

当社は水神である「高龗神」を御祭神としており、歴史的にも雨乞いに験のある神社として朝廷から極めて厚い崇敬を受けてきました。奈良に都のあった奈良時代には主に丹生川上神社で祈雨・止雨の神事が行われてきましたが、平安京に遷都して以来、京都盆地を流れる鴨川の上流に鎮座する当社で祈雨・止雨が行われるようになりました。弘仁年間に当社で祈雨が行われて以来、延喜式祈雨神祭八十五社の一社として祈雨・止雨の行われたことが正史に数多く記録されています。名神大社や二十二社への列格、正一位の神階の授与も、朝廷が当社へ格別に厚く崇敬していたことを物語るものでしょう。

丹生川上神社と同様、祈雨の際は黒馬が、止雨の際は白馬が奉納されました。後には生きた馬を用いる代わりに馬型の板が用いられ、これが絵馬の原型であると言われており、当社は絵馬発祥の地とも言われています。絵馬は江戸時代には額縁スタイルのものが全国で奉納され、さらには現在のように非常に小型のものが個人で奉納されるようになりました。

当社の社殿は元々は奥宮の地に建っていましたが、天喜三年(1055年)に水害に見舞われて社殿が流失し、南方500mほどの高地である現在地に遷座し、旧地は奥宮となりました。

また、いつの頃か当社は賀茂社と深い関係を持ち、長らく賀茂別雷神社(上賀茂神社)の摂社でした。その経緯は不明ですが、『山城国風土記』逸文に登場する丹塗矢は川上から流れてきたと描写されているため、川上に鎮座する当社の神こそが丹塗矢であるとする説もあるようです。賀茂社と当社との関係を示唆するものかもしれません。

ただ、二十二社の一社であり正一位の神階も授けられた当社が賀茂別雷神社の摂社であるのは不服だとして何度も紛争が発生しています。江戸時代の寛文四年(1664年)には正式に賀茂別雷神社の摂社とする採決が下り、その地位に甘んじざるを得ませんでしたが、時代が変わって明治年間には官幣中社となり賀茂別雷神社からの独立を果たすことが出来ました。

現在は若者の間でも非常に人気の神社となっており、静寂な山間の地にありながら年中活気のある神社となっています。

 

境内の様子

境内入口。叡山電鉄の貴船口駅から貴船川沿いに2kmほど遡ったところにあります。秋には紅葉の美しい境内となります。

なお、こちらの朱鳥居は二の鳥居です。一の鳥居は後述。

 

境内入口の二の鳥居をくぐってすぐ、参道の右側(東側)に末社の「白髭社」が鎮座。御祭神は「猿田彦命」。

 

二の鳥居をくぐると長い石段が続きます。朱の灯籠が並ぶ石段は非常に有名で、京都の観光ポスターにもよく使われています。

 

石段の先に神門が建っています。形式としては薬医門。

 

貴船神社と紅葉

神門をくぐると社殿の建つ主要な空間が広がっています。貴船川のせせらぎの音が心地よく、背後の紅葉もよく映え、大変清々しい空間。社殿は左側(西側)の石垣の上に南向きに建っています。

 

社殿の石垣下に手水舎があります。

 

石段を上ると社殿が並んでいます。拝殿は銅板葺きの平入入母屋造で、左側に寄せられた千鳥破風が付いています。建物はかなり新しいもの。

 

拝殿の前には御神水が湧き出ています。涸れることが無いと言われ、弱アルカリ性の天然の湧水です。飲用も可能ですがその際は煮沸することが推奨されています。

 

神門をくぐって右側(東側)には「龍船閣」と呼ばれる展望所と休憩所を兼ねた建物があります。

 

手水舎の右側(北側)には末社の「祖霊社」が鎮座。御祭神は「社人、氏子、崇敬者の祖先の御霊」。

 

この空間の北側には奥宮へと続く神門が建っています。形式としてはこちらも薬医門。

この神門の左側に石段が伸びており、いくつかの境内社が鎮座しているのでこちらを先に見ておきます。

 

この石段を上っていくと末社の「牛一社(ぎゅういちしゃ)」が鎮座。御祭神は「木花開耶姫命(古伝に牛鬼)」。牛鬼は貴船明神が丑の年・丑の月・丑の日・丑の刻に降臨の際にお供した神と伝えられています。

しかし花の象徴であり美しい女神であるとされる木花開耶姫命が牛鬼だとする伝承は珍しいと思われます。

 

石段を折れてまた少し上ると末社の「川尾社」が鎮座。御祭神は「罔象女神」。本社と同じく水神を祀っています。

鈴鹿谷の下にあるので川尾社と称すると言われています。

 

さらに石段を上っていくと突き当たりに「鈴鹿社」が鎮座。御祭神は「大比古命(古伝に皇大神宮)」。

元は本社裏手の鈴鹿谷の上に鎮座しており、往古より伊勢の大神を祀ると言われています。

 

この石段上からは本社の本殿がよく見えます。本殿は銅板葺きの三間社流造。やはり新しい建築です。

 

結社

奥宮への道を進みます。先の神門をくぐると「鈴鹿川」と呼ばれる小川が流れており、この谷を「鈴鹿谷」と呼んだようです。

先の川尾社、鈴鹿社は元はこの川に沿って鎮座していたのでしょう。

 

さらに進んでいくと斜面の上に貴船神社の中宮とされる「結社(ゆいのやしろ)」が鎮座しています。御祭神は「磐長姫命」。

記紀神話に次のような話があります。

『古事記』(大意)

ニニギ(神武天皇の曽祖父にあたる)は笠沙岬でコノハナサクヤヒメと出会い、求婚したところ、コノハナサクヤヒメの父・オオヤマツミは大変喜び、コノハナサクヤヒメの姉であるイワナガヒメも共に差し出した。しかしイワナガヒメは容姿が醜かったのでニニギはイワナガヒメを送り返し、コノハナサクヤヒメとだけ結婚した。

するとオオヤマツミは「イワナガヒメと結婚すれば天津神の子孫は岩のように永遠のものとなろう。コノハナサクヤヒメと結婚すれば花のように繁栄するだろう。このようにイワナガヒメを返してコノハナサクヤヒメ一人と結婚するのなら、天津神の子孫は花のように儚くなるだろう」と言った。このようなわけで、今の天皇の寿命は長くないのである。

これはいわゆるバナナ型神話であり、東南アジアやオセアニアを中心に各国で見られる話型の物語です。

この結社では、この神話に関連して磐長姫命(イワナガヒメ)が大いに恥じ入り、この地に留まって人々に良縁を授けるべく鎮座したと伝えられています。古くから縁結びの神社として有名で、古くはススキ等の細長い草を神前に結び付けて祈願した習わしがありました。

案内板「結社」

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貴船神社 中宮

結社(ゆいのやしろ)

御祭神

磐長姫命

神武天皇(初代の天皇)の曽祖父にあたられる瓊々杵命が、木花咲耶姫命を娶らんとする時、父の大山祇命が姉の磐長姫命も共におすゝめしたが、瓊々杵命は木花咲耶姫命だけを望まれたため、磐長姫命は大いに恥じ、「吾こゝに留まりて人々に良縁を授けよう」といわれ、御鎮座したと伝えられています。

古くより縁結びの神、「恋を祈る神」としての信仰が厚く、平安時代の女流歌人・和泉式部が切ない心情を歌に託して祈願したという話は有名です。(和泉式部の歌碑がこの上の境内に建っています)

昔はスゝキ等の細長い草を、今は「結び文」を神前に結び付けて祈願する習わしがあります。男女間の縁だけでなく、人と人、会社と会社、就職、進学などあらゆる縁を結んで下さる神様です。

 

結社の境内の傍らに和泉式部の歌碑が建っています。夫婦の仲を取り戻そうと貴船神社へ参拝しようとした和泉式部は、貴船川に飛ぶ蛍を見て歌に託したところ、社殿から慰めの返歌が聞こえて、ほどなくして祈願は成就し夫婦円満になったと言われています。

案内板「和泉式部歌碑」

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和泉式部歌碑

貴船神社は、古来、恋を祈る社でもありました。平安時代の有名な女流歌人・和泉式部は、夫との仲がうまくいかなくなって当社にお参りし、貴船川に飛ぶ蛍を見て、切ない心情を歌に託して祈願しました。すると、社殿の中から慰めの返歌が聞こえてきて、ほどなく願いがかなえられ、夫婦仲がもとのように円満になったということです。『後拾遺和歌集』には次のように記されています。

男に忘れられて侍りけること貴布禰に参りてみたらし川に蛍の飛び侍りけるを見てよめる

ものおもへば沢の蛍もわが身より あくがれいづる魂かとぞみる

(※あれこれと思い悩んでここまで来ますと、蛍が貴船川一面に飛んでいます。そのはかない光は、まるで自分の魂が体からぬけ出て飛んでいるようでございます。)

御返し

おく山にたぎりて落つる滝つ瀬の 玉ちるばかりものな思ひそ

(※しぶきをあげて飛び散る奥山の滝の水玉のように〈魂がぬけ出て飛び散り消えていく=死ぬかと思うほど〉そんなに深く考えなさるなよ。)

この歌は貴布禰の明神の御返しなり、男の声にて和泉式部が耳に聞こえけるとなむいひ伝へたる。

 

結社の社殿の右側(北側)には「天乃磐船」と名付けられた船型の岩が配置されています。古くからの磐座というわけでなく、貴船山の山奥から出土したもので平成八年に奉納されたものです。

案内板「天乃磐船」

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この船形の自然石は、貴船の山奥より出土し、平成八年三月、市内の造園業・久保篤三氏より奉納された。重さは六トン。

船は、古くは唯一の交通機関であり、人と人、文化と文化の興隆(結ぶ)ということから、縁結びの信仰と関わりがある。また、奥宮の「船形石」伝説に見られるように、神様の乗り物として神聖視され、当社と船との関わりは深い。

縁結びの神で知られる結社の御祭神・磐長姫命の御料としてここに納めた。

 

結社の境内にある桂の御神木。非常に立派なもので樹齢は四百年と推定されています。

貴船神社の境内には他にも桂の大木があります。

貴船神社の周辺は落葉樹が比較的多いですが、このように大木となっているものもあり、古い森であることが偲ばれます。

 

結社からさらに奥宮へ。舗装された一般道を進みます。沿道には高級料理店が並んでおり、貴船川の川床料理は特に有名です。夏や秋の行楽期には川床料理を楽しむべく大勢の人が押し寄せます。

 

奥宮

さらに進むと奥宮入口となる鳥居が見えてきます。ここからは専用の参道が伸びています。

 

奥宮の鳥居の手前には樹齢千年とも言われる御神木の「相生の杉」があり、その傍らには「林田社」(御祭神「少彦名命」)と「私市社」(御祭神「大国主命」)の相殿の末社が鎮座しています。両社を併せて「二ツ社」と称し、貴船明神の荒魂を祀るとも言われています。

 

奥宮の鳥居をくぐると小川が流れています。本来は奥宮が当社の鎮座地だったため、神域との境界であるとともに身を清めるための川でもありました。

元は御物忌川と称したようですが、和泉式部の伝説に因み「思ひ川」と呼ばれるようになっています。

案内板「思ひ川」

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思ひ川

夫の愛を取り戻そうと思い悩んでいた和泉式部は、貴布禰詣でを思い立ちました。当時は奥宮が本社で、参拝者はこの谷川で手を洗い口をすすぎ、身を清めてから参拝しました。

この谷は禊(みそぎ)の川、物忌(ものいみ)の川だったのです。和泉式部もここで身を清めて恋の成就を祈ったのでしょう。

禊の川だった「おものいみ川」が、和泉式部の恋の話と重なり、いつの頃からか「思ひ川」と呼ばれるようになりました。

遅桜なほもたづねて奥宮
思ひ川渡ればまたも花野雨
虚子

 

奥宮への参道。両側に杉の木が並んでいます。

 

参道の途中にある「つつみヶ岩」。信仰の対象というわけではなさそうですが著名な巨岩のようです。

 

参道を進んでいくと朱塗りの神門が建っています。形式は薬医門。

当社は鳥居や灯籠、瑞垣などに朱が施されていることが多いですが、このように建築に施されることは多くありません。

 

神門をくぐってすぐ左側(西側)に御神木である連理の杉が聳えています。その根元に鎮座するのは末社の「日吉社」。御祭神は「大物主命」。

 

この空間の最奥部に「奥宮」の社殿が南向きに並んでいます。奥宮は当社の当初の鎮座地で、天喜三年(1055年)の水害で500mほど南方の現在地に遷座、そして旧地を奥宮としています。こちらの御祭神も本社と同じ「高龗神」。

拝殿は銅板葺きの妻入入母屋造の舞殿風拝殿。

 

本殿は銅板葺きの一間社流造。新しい建築で、手狭の透塀に囲われています。

案内板「貴船神社 奥宮」

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貴船神社 奥宮

当地は、貴船神社が当初ご鎮座されたところで、当社の祭神も本宮と同じく雨や水をつかさどる神「高龗神」である。

社伝によれば、「反正天皇の時代、(五世紀初頭)に、玉依姫(神武天皇の母)が黄船に乗って浪速(大阪)から、淀川、鴨川、貴船川をさかのぼって当地に上陸し、そこに祠を営んで水神をまつったのが当宮の起こりである。」とのことで、地名及び社名の起源をこの「黄船」にもとめる説もある。

境内の本殿横には、この伝説にまつわる「船形石」があり、これを積み囲んだ小石を持ち帰ると航海安全に御利益があるとされた。

また、本殿下には巨大な龍穴があり、文久年間(一八六一~一八六三)の本殿修理の祭、大工があやまってノミをこの中へ落としたところ、一天にわかにかき曇り、突風が起こり、ノミを空中に吹き上げたという。この他、宇治の橋姫伝説や和泉式部の恋願成就など、当社にまつわる逸話は数多い。

なお、当社境内周辺には、昭和六〇年(一九八五)六月に京都市指定天然記念物に指定されたカツラをはじめ、高木が数多く見られ、自然遺産の宝庫でもある。

京都市

案内板「貴船と「鉄輪」伝説」

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貴船と「鉄輪」伝説

当社は古来より水ノ神として崇敬され祭神として高龗神を祀り、心願成就信仰としての「丑ノ刻詣」で知られている。むかし宇治の橋姫が丑ノ刻(午前二時)詣りをして男に呪いをかけた伝説があり、これをもとにつくられたのが謡曲「鉄輪」で、橋姫が頭にのせた鉄輪を置いた鉄輪掛石が叡山電鉄・貴船口駅の傍らにある。丑ノ刻詣りは祭神が国土豊潤のため、丑年丑月丑日丑刻に降臨されたと伝える古事によるもので、人々のあらゆる心願成就に霊験あらたかな事を示すもので、単にのろいにのみとどめるべきものではない。

謡曲史跡保存会

 

奥宮の社殿の左側(西側)に「御船形石」と呼ばれる大変珍しいものがあります。伝承では神武天皇の母である玉依姫神が「黄船」に乗って浪速より淀川・賀茂川・貴船川を遡って当地に上陸し水神を祀ったと伝えられますが、その「黄船」を、人目を忌みて小石で覆ったのがこれであると言われています。

航海する際はこの石を頂いて携帯すれば安全であるとの信仰があります。

塚状の石積みとしては大規模なもので、全国的に見ても極めて希少な例と言えると思われます。

 

御船形石の手前側(南側)に末社の「吸葛社(すいかずらしゃ)」が鎮座。御祭神は「味耜高彦根命(古伝に百太夫)」。

古くは百太夫だったとされ、一般にこの神は傀儡師や遊女らの信仰した芸能の神です。しかし百太夫が味耜高彦根命になった経緯は謎です。

 

奥宮社殿の左側(西側)に末社の「鈴市社」が鎮座。御祭神は「姫蹈鞴五十鈴媛命」。

 

境内入口から一の鳥居

道を戻り、境内入口(二の鳥居)から貴船川沿いを下って一の鳥居へ向かいます。秋にはところどころで美しい紅葉が見られます。

 

途中に鎮座するのは末社の「梅宮社」。御祭神は「木花開耶姫命」。上述の牛一社と同じ神です。梅宮大社とは無関係なのでしょうか。

 

貴船川の向こうにある巨岩、「烏帽子岩」。

昔、大宮人が烏帽子を下ろしてこの石の上に置いて身を清めたと言われています。

 

道沿いにあるこの巨岩は「蛍岩」。和泉式部が貴船川で蛍を見て歌を詠んだことに因んで名付けられたようで、現在もこの付近一帯で蛍の乱舞が見られるそうです。

案内板「蛍岩(蛍の名所)」

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蛍岩(蛍の名所)

もの思へば 沢の蛍も わが身より あくがれ出づる 魂かとぞ見る

木船川 山もと影の夕ぐれに 玉ちる波は 蛍なりけり

平安時代の女流歌人・和泉式部が貴船神社に参詣し、蛍の歌を詠みました。それから千年後の現在も、六月中ごろからこの付近一帯で、蛍の乱舞が見られます。

 

叡山電鉄の貴船口駅を過ぎると、貴船川と合流した鞍馬川の向こうに一の鳥居が見えてきます。

 

貴船神社一の鳥居と紅葉

こちらが当社の一の鳥居。京都バスの「貴船口」停留所にもなっています。多くの参拝客は叡山電鉄の貴船口駅から下ってくることはないため、この一の鳥居の存在はあまり知られていません。しかしご覧のように見事な紅葉が見られるため、特に秋は足を伸ばしてみる価値があるところです。

 

一の鳥居の傍らには末社の「梶取社」が鞍馬川を背にして鎮座。御祭神は「宇賀魂命」。

玉依姫命が黄船に乗って遡っていたときに梶を操った神が祀られていると伝えられています。

 

タマヨリ姫
紅葉がすごく綺麗なところだね!ここは水の神様が祀られる神社として有名なんだって!
和泉式部の伝説でも知られるように、縁結びの神様としても有名よ。山奥にありながらも、今は若者の間でもとても人気のある神社なのよ。
トヨタマ姫

 

御朱印

 

由緒

案内板「貴船神社」

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貴船神社

水徳神高龗神を祀る旧官幣中社で、社名は古くは木船、貴布祢とも書かれたが、明治四年(一八七一)以降「貴船」と改められた。

平安時代延喜の制には、名神大社という最も高い格式に列し、日照りや長雨が続いたとき、また国家有事の際には必ず勅使が差し向けられ、祈念がこめられた。弘仁九年(八一八)以来の歴朝の奉幣、祈願では、もっぱら祈雨、止雨の神として崇められ、祈雨には黒馬、祈晴には白馬又は赤馬が献ぜられるのが例であった。平安時代末期には賀茂別雷神社(上賀茂神社)の摂社とされたが、明治以降独立した。

かつて社殿は貴船川に沿って上がった所にある現在の奥宮の地にあったが、天喜三年(一〇五五)、現在地に移転された。本殿、拝殿、権殿から成り、本殿は文久三年(一八六三)及び平成十七年(二〇〇五)に改修された。また、境内には祈雨の行事を行った雨乞の滝、奥宮本殿の西には船形石と呼ばれる船の形に積んだ石塁がある。和泉式部がお詣りし、不和となっていた夫と願いがかなって復縁した話はよく知られている。

京都市

案内板「由緒」

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由緒

御祭神は高龗神。水の供給を司る神。

創建年代は明らかでないが、第十八代反正天皇の御世に奥宮の水の湧き出すところに社殿を建てたという御鎮座伝説がある古社。対岸鞍馬山の鞍馬寺は、平安初期の延暦十五年(七九六)藤原伊勢人が貴船明神の夢のお告げで建立したと諸書に出ているので、その当時すでに貴船の神は大きな力を具えていたことがうかがえる。永承元年(一〇四六)七月の水害で奥宮が被災、天喜三年(一〇五五)四月この地に本社を移築した。

京都に都が開かれて当社は国の重要な神社となり、事ある毎に勅使(天皇のお遣い)が差し向けられた。特に当社には、日照りの時には黒馬を、長雨の時には白馬を献じて「雨乞い」「雨止み」の祈願がこめられた。「その数数百度に及ぶ」とある。平安時代の勅願社二十二社の一社で、延喜式名神大社。庶民の崇敬も篤く全国に二千社を数える分社がある。

古くは「貴布禰」と記したが「黄船」「木船」「木生嶺」「氣生根」などの表記も見られる。明治四年官幣中社となり、以降「貴船」の表記で統一された。

例祭六月一日

『都名所図会』

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貴布祢社は水神罔象女の神なり。夫伊弉諾尊軻遇突智をきりて三段とし其ひとつを高龗とぞ申ける。この垂迩はやまとの丹生社と同体なり。皆龍徳の降迹にして今も雨を請雨を止ることを祈るにはこの二神なり。

社司どもきぶねに参りて雨ごひせしついでによめる
『新古今』おほ御田のうるはふばかりせきかけて井ぜきにおつる河上の神 加茂幸平
『千載』貴舩川玉ちる瀬々の岩波に氷をくだく秋の夜の月 俊成
『夫木』秋風の吹夕ぐれは木舩山聲をはにあげて鹿ぞ鳴なる 成助

梶取杜は二瀬の里の北に貴舩の一の鳥居あり。其かたはらにしづめます。神代のむかし萬の神木舩にのられしときかぢをとりし神とぞ。

足洒石は木舩川の中にあり。宇治の橋姫貴舩へまうで、この石に休ひ足を洗しなり。

螢石は木舩くらまの落合川より南にして、やまのくににあり。

和泉式部夫の保昌とかれ〱になりける頃この杜にまうでて蛍の飛を見て

『後拾遺』物思へば沢邊の蛍わが身よりあくがれ出る玉かとぞ見る 和泉式部

とぞ詠ければ御との〱中より男子の聲にて

『後拾遺』奥山にたきりて落つる瀧津瀬の玉散るばかり物なおもひそ 貴舩明神

式部その〱ち巫をかたらひまつりさせけるに保昌ほのかにき〱社の木陰に立かくれ見侍りしに巫となふるにた〱あらぬわざしたまへといへば式部かほうち赤めて

千早振神の見るめもはづかしや身を思ふとて身をやすつべき 和泉式部

とよみ侍りければ保昌き〱もあへず其ここちの優にいとやさしくおぼえて則式部をぐしてかへりなを浅からぬむすびしけるとなり。

 

地図

京都府京都市左京区鞍馬貴船町

 

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