1.京都府 2.山城国

大酒神社 (京都府京都市右京区太秦蜂岡町)

投稿日:

社号 大酒神社
読み おおさけ
通称 太秦明神 等
旧呼称
鎮座地 京都府京都市右京区太秦蜂岡町
旧国郡 山城国葛野郡門前村
御祭神 秦始皇帝、弓月王、秦酒公
社格 式内社、旧村社
例祭

 

大酒神社の概要

京都府京都市右京区太秦蜂岡町に鎮座する式内社です。

京都盆地一帯を開発した渡来系氏族「秦氏」が、彼らの祖である秦の始皇帝を祀ったのが創建とされています。元は秦氏の氏寺、「太秦広隆寺」にある桂宮院の後方に鎮守として鎮座していました。明治年間の神仏分離により太秦広隆寺から切り離され、現在地に移転しました。

『新撰姓氏録』には大変多くの秦系の氏族が登載されており、秦氏の系譜や太秦(ウヅマサ)の由来なども記されています。それによれば次のようになっています。

『新撰姓氏録』(大意)

(始皇帝の子孫の)功満王が仲哀天皇の御代に来朝。子の融通王(弓月君)は応神天皇の御代、27県の百姓を率いて帰化し、金銀玉帛などを献上した。仁徳天皇の御代、(中略)彼の献上する織物が肌触りが軟らかく暖かかったので「波多」の姓を賜った。次の登呂志公は秦酒公と称し、雄略天皇の御代、織物を山のように積んだ。天皇はこれを喜び「禹都万佐(ウヅマサ)」の号を賜った。

秦氏がどこから来たのかは諸説あり、秦の始皇帝の末裔だとする記録も本当にそうなのかは不明です。少なくとも優れた土木技術や養蚕・機織等の技術を持っており、朝鮮半島から渡来して帰化したのは確かです。一方で『新撰姓氏録』には細分は「漢」となっており、朝鮮系とは異なる出自を持つと根強く伝承していたようです。

『日本書紀』には、秦氏の人々は各地に分散して各臣・連の元で仕えていたが、天皇の詔により秦酒公の元へ再び集められた旨が記されています。来朝して帰化した「弓月公」と共に、秦氏の勢力を盛り立てた「秦酒公」は秦氏の祖とされ、当社でも秦の始皇帝と共に御祭神として祀られています。

当社がいつ創建されたのかは不明です。この太秦の地に秦氏が居住を始めたのと同時とも考えられますが、それもいつの頃なのかは詳らかでありません。当社は太秦広隆寺の境内にありましたが、太秦広隆寺にしても当初からここにあったわけでなく、元は現在の「平野神社」の辺りにあったとされています。

『日本書紀』によれば、推古天皇十一年(603年)に秦河勝が聖徳太子から仏像を譲り受けて「蜂岡寺」が創建されたと記載され、これが太秦広隆寺の元であるとされています。一方、寺伝では推古天皇三十年(622年)に死去した聖徳太子を弔うために建立したとされ、若干の年代や事情の差があるもののこの頃に広隆寺の元となった寺院が創建されたようです。後に現在地に移転したようですが、記録が無いためその事情は不明。当社も同時に遷座されたのか最初からこの地に鎮座していたのか、それとも太秦広隆寺の移転後に創建されたのか、様々なパターンが考えられますがやはり不明としか言いようがありません。ただ、秦氏の祖神を祀る当社と秦氏の氏寺である太秦広隆寺が一体的な信仰の場となっていたのは古くからのことでしょう。

さて当社の御神体は「大石」であったとも言われています。当社は『延喜式』神名帳に「元名大辟神」とあるように、サケ=境の神であったことが考えられます。境界の地に悪霊や災厄を防ぐために置いた大石が当社であると考えることもでき、そうすると、単なる「秦氏の神」に留まらず、より多面的な神格を持っていたと言うことが出来るかもしれません。

なお、「大石」は残念ながら現在地の移転の際に所在不明になってしまったようです。

 

境内の様子

境内入口。鳥居は東向きに建っています。境内は傍目には鬱蒼としていますが、そう広くはありません。

 

鳥居をくぐり参道を進んでいくと右側(北側)に手水舎があります。ただし手水鉢には導水施設がありません。

 

この先の参道は右へ折れています。

 

この参道を曲がると正面に南向きの社殿が建っています。拝殿等の設備は無く、一間社流造の本殿と両脇に灯籠が建っています。

他に境内社等も無く、非常に簡素な境内であると言えます。

 

当社の西方にある「太秦広隆寺」。秦氏の氏寺です。当社は元はこの太秦広隆寺にある「桂宮院」の後方に鎮守として鎮座していました。

桂宮院は建長三年(1251年)に建立された八角円堂で、非常に貴重な建築として国宝に指定されています。4月、5月、10月、11月の日曜・祝日のみ公開しているようです。

 

タマヨリ姫
めっちゃ古い時代に京都付近を開発した秦氏の祖が祀られてるんだって!でもその割には小さな神社だね。
明治の神仏分離で現在地に遷ってきたのよ。遷座前は秦氏の氏寺である太秦広隆寺の境内にあったの。
トヨタマ姫

 

由緒

案内板「由緒書」

+ 開く

由緒書

宗教法人 大酒神社

祭神

秦始皇帝、弓月王、秦酒公

相殿

兄媛命、弟媛命(呉服女、漢織女)

神階

正一位、治歴四年四月(一〇六八年)

当社は、延喜式神名帳葛野郡二十座の中に大酒神社(元名)大辟神社とあり、大酒明神ともいう。

「大辟」称するは秦始皇帝の神霊を仲哀天皇八年(三五六年)皇帝十四世の孫、功満王が漢土の兵乱を避け、日本朝の淳朴なる国風を尊信し始めて来朝し此地に勧請す。これが故に「災難除け」「悪疫退散」の信仰が生れた。

后の代に至り、功満王の子弓月王、応神天皇十四年(三七二年)百済より百二十七県の民衆一万八千六百七十余人統率して帰化し、金銀玉帛等の宝物を献上す。又、弓月王の孫酒公は、秦氏諸族を率いて蚕を養い、呉服漢織に依って絹綾錦の類を夥しく織出し朝廷に奉る。絹布宮中に満積して山の如く丘の如し、天皇御悦の余り、埋益(うずまさる)と言う意味で酒公に禹豆麻佐の姓を賜う。数多の絹綾を織出したる呉服漢織の神霊を祀りし社を大酒神社の側にありしが明暦年中破壊に及びしを以て、当社に合祭す。

機織のみでなく、大陸及半島の先進文明を我が国に輸入するに努め、農耕、造酒、土木、管絋、工匠等産業発達に大いに功績ありし故に、其二神霊を伴せ祀り三柱となれり。

今大酒の字を用いるは酒公を祀るによって此の字に改む。

広隆寺建立后、寺内、桂宮院(国宝)境内に鎮守の社として祀られていたが、明治初年制令に依り神社仏閣が分離され、現在地に移し祀られる。現在広隆寺で十月十日に行われる、京都三大奇祭の一つである牛祭りは、以前広隆寺の伽藍神であった当社の祭礼である。

尚、六〇三年広隆寺建立者 秦河勝は酒公の六代目の孫。

又、大宝元年(七〇一年)子孫秦忌寸都理が松尾大社を創立。和銅四年(七一三年)秦伊呂具が伏見稲荷大社を建立した。古代の葛野一帯を根拠とし、畿内のみならず全国に文明文化の発展に貢献した。秦氏族の祖神である。

昭和五十九年五月

 

地図

京都府京都市右京区太秦蜂岡町

 

関係する寺社等

松尾大社 (京都府京都市西京区嵐山宮町)

社号 松尾大社 読み まつお 通称 旧呼称 鎮座地 京都府京都市西京区嵐山宮町 旧国郡 山城国葛野郡山田村 御祭神 大山咋神、中津島姫命 社格 式内社、二十二社、旧官幣大社 例祭 4月2日 式内社 山 ...

続きを見る


-1.京都府, 2.山城国
-,

Copyright© 神社巡遊録 , 2019 All Rights Reserved Powered by STINGER.