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羽束師坐高御産日神社 (京都府京都市伏見区羽束師志水町)

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社号 羽束師坐高御産日神社
読み はづかしにますたかみむすび
通称 羽束師神社 等
旧呼称
鎮座地 京都府京都市伏見区羽束師志水町
旧国郡 山城国乙訓郡志水村
御祭神 高皇産霊神、神皇産霊神
社格 式内社、旧郷社
例祭 5月第一日曜日

 

羽束師坐高御産日神社の概要

京都府京都市伏見区羽束師志水町に鎮座する式内社です。『延喜式神名帳』には山城国の最初に記載され、大社にも列せられていることから古くは大変有力な神社だったようです。『倭名類聚抄』山城国乙訓郡に「羽束(ハツカシ)郷」が記載されており、当社の社名はこの古い地名に因むと考えられます。

当社は雄略天皇二十一年(477年)に創建されたと伝えられています。社伝によれば欽明天皇二十八年(567年)に桂川の洪水に際し天皇より封戸を賜り、また天智天皇四年(665年)に中臣鎌足が勅を受けて再建したと伝えられています。

『続日本紀』には大宝元年(701年)四月三日の記事に「勅して山背国葛野郡の月読神・樺井神・木嶋神・波都賀志神等の神稲は自今以後中臣氏に給へ」とあり、これが正史における当社の初見です。これはつまり、月読神社、樺井月神社(ただし葛野郡でなく綴喜郡)、木嶋坐天照御魂神社と共に当社にあった神田の稲を祭祀氏族である中臣氏に奉り、毎年の新嘗祭に用いられたことが示唆されています。

その後も祈雨の際に奉幣される神社の中に当社が含まれるなど、宮中において当社の信仰が厚かったことが伺えます。

さて、羽束師(ハツカシ)という名称の淵源をたどってみると、『日本書紀』垂仁天皇三十九年十月の記事に、五十瓊敷命が菟砥川上宮で剣千口を作らせたとき、十の品部を賜ったと記載されていますが、その十の品部の一つに「泊橿部」というのが見えます。

また、『新撰姓氏録』には摂津国皇別に「羽束首」(天足彦国押人命の子、彦姥津命の後)が、また摂津国神別に「羽束」(天佐鬼利命の三世孫、斯鬼乃命の後)が登載されています。摂津国では兵庫県宝塚市の北部に「波豆(ハズ)」という地名が、また波豆地区と兵庫県三田市との境界に「羽束川」が、羽束川を挟んで波豆地区の向かいに「羽束山」があり、恐らくこの辺りを拠点にした氏族であると思われます。

皇別氏族の羽束首と神別氏族の羽束は別系統となっていますが、いずれか或いは両方が泊橿部と関係のある氏族なのかもしれません。

また『令集解』(養老令の注釈書)の職員令には宮内省土工司に属する「泥部(ぬりべ)」は古くは「波都加此乃友造(ハツカシノトモノミヤツコ)」と言ったとあります。建築に関する資材の中でも土を扱うもの(石灰や瓦など)を専門に扱っていた集団を泥部と呼んだと考えられますが、ハツカシの人々はこうした職掌を持っていたことが伺えます。

このようなハツカシの人々は当地に居住し、当社も元々は彼らの祖神を祀っていたのでしょう。しかし『延喜式』神名帳に見える通り高御産日神を祀っていますが、この神はハツカシの人々と結びつくものではありません。上述の大宝元年の記事に見えるように当社は次第に中臣氏の影響下に置かれるようになったことが考えられ、いつしか国家的な神である高御産日神が祀られるようになったのかもしれません。

 

境内の様子

当社の一の鳥居は境内から100mほど南に南向きに建っています。高さ制限のゲートがありますが、鳥居の貫が異様に新しいことから過去に衝突事故があったのかもしれません。

 

一の鳥居から進んでいくと二の鳥居があり、ここが境内への入口となります。二の鳥居は住吉大社にある鳥居のように柱に角柱を用いており、珍しいものです。

また、境内の鬱蒼とした森は古来「羽束師の杜」と呼ばれ、古くから有名だったようです。

 

二の鳥居をくぐりちょっとした石段を進むと左側(西側)に手水舎があります。井戸の上にある小さな祠は恐らく水神を祀っているのでしょう。

 

参道の正面に南向きの社殿が建っています。拝殿は平入の入母屋造の割拝殿で嘉永三年(1850年)の建立。割拝殿は摂津・大和以西に多く見られる形式で、基本的に山城ではそう多くありませんが、当地を含め旧・山城国乙訓郡は摂津との緩衝地帯といった地域性があるようで、しばしば割拝殿を見かけます。

 

拝殿前の狛犬。真新しい花崗岩製です。

 

拝殿の通路から本殿を見た様子。拝殿と本殿の間は屋根と壁が設けられています。

 

本殿は銅板葺の建築で、神明造に似た形式です。拝殿と同じく嘉永三年(1850年)の建立。多くの文献でこれを神明造と分類していますが、屋根にやや反りがあり、棟持柱が無く、床が低く、内陣・外陣に分かれている等、神明造と異なる特徴が多く見られ、かなり独特な本殿であると言えます。千木が内削ぎである点も注目すべきでしょうか。

 

本殿前の狛犬。こちらも花崗岩製ですが年季が感じられます。

 

本殿の後ろには鳥居と小さな祠があります。詳細は不明ですがいわゆる「後戸の神」的なものでしょうか。

 

本殿の左右に多くの境内社が祀られており、これらは大同三年(808年)に斎部広成が勧請したと伝えられています。こちらは本殿の左側(西側)の境内社群。左から順に「貴布祢大神」、「えびす大神」、「稲荷大神」、「嚴嶋大神」、「愛宕大神」、「若一王子大神」が祀られています。

 

こちらは本殿の右側(東側)の境内社群。左から順に「天照皇大神」、「八幡大神」、「春日大神」、「大三輪大神」、「籠勝手明神」が祀られています。

 

さらに右側の境内社群の奥に「稲荷大神」が祀られています。

 

拝殿前へ戻ります。拝殿前の左側(西側)にも境内社がありますが社名・祭神は不明です。祠に石が置かれているのが気になるところ。

 

境内の西側に「治水頌功之碑」と共に境内社がありますが、こちらも社名・祭神は不明。その脇にはワケありげな石に注連縄が掛けられています。

 

境内の南西側には「羽束師大神」と書かれた扁額のある祠がありますが、そこに安置されているのは石仏です。石仏が「神」として祀られているのでしょうか。だとしたら珍しい事例と言えるかもしれません。

 

当社一の鳥居の東方に「北向見返天満宮」が鎮座しています。菅原道真が左遷されたとき、羽束師神社に参拝した際に「君臣縁の切れしを再び結び給へ」と祈願し「捨てられて 思ふおもひの しげるをや 身をはづかしの 森といふらむ」と歌を詠み、北方の都を見返りつつ後にしたと伝えられています。後にこれに因み土地の人が道真公を偲んで北向きに建立したのが当社であるといわれています。

案内板「北向見返天満宮」

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北向見返天満宮

この地は平安時代前期の延喜元年(九〇一)、時の権力者の謀略により、都落ちを余儀なくされた、時の右大臣菅原道真公が筑紫太宰府に下向の折、先祖代々縁り深き羽束師神社に参詣の際、立ち寄られたところであると伝えられている。その際、「君臣縁の切れしを再び結び給へ」と御祈念の上、「捨てられて 思ふおもひの しげるをや 身をはづかしの 森といふらむ」の歌を詠進せられ、北方の禁裏を見返りつつ、名残惜しき都への切実な想いを詠まれた由緒あるところでもある。

後年、菅原道真公の威徳を称える人々により、神霊が奉祀され、都の行く末を案じ守護するかの如く、北向に奉斎され、現在まで北向見返天満宮として幅広い崇敬を戴いている。

平成二十七年(二〇一五)には大々的に境内整備が実施され、現状に一新された。

京都市

 

タマヨリ姫
羽束師でハツカシって読むんだ!変わった名前だね!
でも古くからある地名なのよ。ハツカシと呼ばれた人々の集団がいたみたいで、元々は彼らがここに居住して神を祀ったと考えられるわ。
トヨタマ姫

 

由緒

案内板「羽束師坐高御産日神社」

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羽束師坐高御産日神社

御祭神

高皇産霊神〔タカミムスヒノカミ)
神皇産霊神(カミムスヒノカミ)

御鎮座

当神社は雄略天皇二十一年(四七七)に創祀され生成霊力の御神徳をおもちの皇産霊神二柱を奉斉しています。皇産霊を「ミムスヒ」と言い「ムス」はものの生成を意味し、成長するカを「ヒ=霊力」と言います。又、高皇産霊神は高木神とも申し、神の依ります神体木(神籬)に縁の深い御名で明らかに田の神の降臨をあおぐ祭に関わりのある農耕神の信仰をになう天つ神であります。隋って五穀豊穣を祈る人々の間に稲霊を崇めるムスピ信仰が育まれ、特に収穫時に新穀を神と共に新嘗(ニイナメ)する農耕行事は最も重要な祭儀として、高皇産霊神、神皇産霊神が祀られてきた。この行事は弥生時代から現在まで時代の変遷を超え種々の文化要素を習合しつつ新嘗祭となり勤労感謝の日となって今猶生活の中に伝承されています。続日本紀大宝元年(七〇一)四月三日の条に「勅して山背国波都賀志の神等の神稲は自今以後中臣氏に給へ」とあるのは当社に属する斎田から抜穂して奉祭し祭人中臣氏が新嘗祭を行ったことを示唆する資料といえます。

十一社

本殿の左右に天照皇大神を始め十一神が祀られています。大同三年(八〇八)に斎部廣成公が諸国騒擾の多き様を憂い安穏を祈願する為、平城天皇の奏聞を得て勧請造営された神社です。

廷喜の制では(九六七)大社に列格され四時祭には官幣に預り臨時祭は祈雨神に座して天下豊年の御加護を垂れ給いました。

北向見返天満宮

廷喜元年(九〇一)右大臣菅原道真公、筑紫へ左遷の砌当社に参詣「君臣再び縁を結び給へ」とご祈念の上

捨てられて 思ふおもひの しげるおや 身をはづかしの 杜といふらん

の歌をご詠進になり下向されました。菅公の御徳を慕い一の鳥居の東縁の地に社を営み北向見返天満宮が奉斎されました。

羽束師の杜

境内は古来羽束師の杜と称せられ古歌謡曲等に詠われてきました。山城国中、名だたる社叢の一つとして四季折々の風情を今に伝え京都市の史跡に指定されています。

羽束師祭

毎年五月第一日曜日の御出に始まり同第二日曜の還幸祭には氏子区内古川町、菱川町、志水町、樋爪町を大神輿が青年会の人等によって担がれ巡幸します。併せて子供神輿も境内を練り歩き大変賑わいます。

案内板「京都市史跡 羽束師坐高御産日神社境内」

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京都市史跡 羽束師坐高御産日神社境内

本神社は、高御産日神と神御産日神の二神を祭神とし、桂川右岸の旧乙訓郡に所在する古社で、平野部にあって島状の微高地に位置している。社地は「羽束師の杜」とも呼ばれ、もとは大きな森であったと思われる。神明造の本殿と、入母屋造の拝殿は嘉永三年(一八五〇)の再建になる。『続日本紀』大宝元年(七〇一)にその名がみえることから、大宝元年以前には奉斎されていたことがわかり、『延喜式』では大社に列している。本殿の左右には大同三年(八〇八)に勧請したと伝わる末社十一社が祀られている。

本神社は、市内でも最古級の神社として、また桂川流域の歴史を考えるうえで重要である。近年急速な都市化により激変している周辺環境にあって、本神社とその森は貴重であることから、平成八年(一九九六)四月一日付けで京都市史跡に指定されている。

京都市

 

地図

京都府京都市伏見区羽束師志水町

 


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