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岡太神社 (兵庫県西宮市小松南町)

社号 岡太神社
読み おかた
通称
旧呼称 岡司宮、押照宮 等
鎮座地 兵庫県西宮市小松南町2丁目
旧国郡 摂津国武庫郡小松村
御祭神 天御中主大神
社格 式内社、旧県社
例祭 10月11日

 

岡太神社の概要

兵庫県西宮市小松南町2丁目に鎮座する神社です。岡田山地区に鎮座する「岡田神社」と共に式内社「岡太神社」の論社となっています。

社伝によれば、宇多天皇の御代の寛平五年(893年)、武庫郡広田村(現在の西宮市広田町付近)の岡司新五という人物が、当地を開発しようとするも沖から潮が上がったために成功せず、一度故郷に戻ったところ廣田神社の神から夢告を受け、再度当地で祈祷して開発したところ五穀豊穣を得たので、延喜元年(901年)に神を祀って当社を創建したと言われています。

当社の御祭神は「天御中主大神」。造化三神の一柱で、宇宙を作ったという極めて抽象的な神であり、この神を祀る神社は神仏分離の影響を受けた妙見宮や水天宮などを除いて殆どありません。

その中でも当社や岡田山地区の「岡田神社」、河内国茨田郡(大阪府守口市)の「高瀬神社」などは妙見宮や水天宮だった記録が無いのに何故か天御中主神を祀る式内社として謎に包まれています。

なお、当社はかつて大梵天王を祀っていたことが棟札にも記されており、社伝では当初天御中主大神を祀っていたのをいつの頃からか大梵天王が代わって祀られたので再び天御中主大神に戻したとしているようです。

 

当社は近世には「岡司宮」「押照宮」(読みはいずれもヲカシノミヤ)と呼ばれていました。これは上記の当地を開発した人物「岡司新五」に因むとする伝承がある一方、当社の例祭である「一時上臈」に因むとする伝承もあります。

一時上臈とは、社頭に供物を供える男性が、その年に小松村へ嫁いだ女性の衣装を着用して奉仕するもので、その姿がおかしいので「おかしの宮」と呼ばれたと言われています。

その一時上臈は後に省略化され、南北の講がそれぞれ紅白の紙を飾った御幣を18本作って神前に供えるものとなっています。これもかつては盛大な行列が行われていましたが、阪神大震災の打撃が大きく、現在行列はなくなっているようです。

一方、当社は縁切りの神とされて結婚式は行われず、嫁入り道具を運ぶ車も北側の旧国道を避けて通り、かつて嫁入り行列が出ていた時も鳥居の前は通らず、もし通る場合は尻まくりしたと言われています。その姿がおかしいので「おかしの宮」と称するようになったとの伝承もあります。

 

また、万治元年(1658年)に当社から神輿が流れて神戸の和田岬に漂着して神異を顕したので、和田岬に天御中主大神を主祭神として社殿を造営し、現在の神戸市兵庫区和田宮に鎮座する「和田神社」となったと言われています。その際、神輿に白蛇がいたとされ、和田神社は白蛇が神使となっています。

ただし神輿が元々あった当社では特に蛇に関する伝承は無いようです。後述のように当社では蛇でなく猪が神使となっています。

 

式内社「岡太神社」は近世には所在不明となっており、江戸時代中期に地理学者の並河誠所が当社に比定しました。その根拠は不明ながら、「をかし」が「岡太」に通じるからと思われます。一方で『摂津名所図会』など並河誠所の説を否定する資料も多く、岡田山に鎮座する「岡田神社」こそがそうだとする説も有力です。

『延喜式』神名帳は『貞観式』の神名帳を元にしていると考えられ、その時代に既に有力な神社として知られていた神社が所載されているはずなので、延喜元年(901年)に創建されたとする当社の伝承が正しければ式内社としては不当と言わざるを得ません。

しかしながら上述のように当社は珍しい神が祀られていることに加えて様々な伝承も伝わっており、武庫川河口の歴史ある神社として興味のそそられる神社です。

 

境内の様子

当社の境内。阪神武庫川駅の北方を東西に貫く旧国道に面して立地しています。入口は境内の北東端に北向きにあり、注連柱が建てられています。

 

入口をくぐった様子。参道は石畳となっています。周りは宅地化されていますが境内は非常に鬱蒼とした森になっています。

 

参道の正面に「岡太社」と刻まれた石碑があります。

この石碑は当時所在がわからなくなっていた式内社を江戸時代中期の地理学者・並河誠所が研究し、比定された神社に記念として建てられたもの。

摂津国でよく見かけるものです。

案内板「岡太社の石標」

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岡太神社の石標

この碑は、江戸中期の碩儒 並河誠所が有志と、社殿の廃滅や祭神の由緒などの誤り伝えられていた延喜式所載の摂津国の古社二十社につき踏査考定して、正しい社名を明らかにするため、時の寺社奉行大岡越前守忠相に上申し元文元年(皇紀二、三九六 西暦一、七三六)から翌年にかけて建立した碑石の一つです。

表面に神名帳に記載の社名 側面に村名、裏面台石に同志菅広房(山口屋伊兵衛)の名が刻されています。

 

岡太社の石碑の手前で参道は右側(西側)へ。

 

参道の左側(南側)に手水舎があります。

 

参道の正面に鳥居が東向きに建っています。建立年代は不明ですが花崗岩製の古めかしいもので、阪神大震災の被害が大きかった当地においては貴重なものかもしれません。

 

鳥居の前には狛犬でなく「狛猪」が配置されています。

案内板の内容がイマイチはっきりしませんが、どうも西宮神社のエビス神は最初鳴尾で祀られていたと言われ、エビス神が毎年正月九日に当社の高潮や洪水などの被害を「静止(防止)」して五穀豊穣をもたらす神事をするとされ、この神事の妨げにならないように居籠りする風習があったようです。

この静止(しし)を猪(しし)にかけて、猪が当社の神使となっているようで、語呂合わせにしても非常に珍しい例と言えます。

案内板「恵美須大神と静止(シシ)像」

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恵美須大神と静止(シシ)像

西宮神社に御鎮座の恵美須大神は武庫の沖から御来臨になり最初、鳴尾でお祀りしていたとの口碑があります。小松では、その大神が毎年正月九日の夕に押照営(岡太神社)で高潮や洪水等の災害を未然に静止(防止)して五穀豊穣をもたらす猪(静止)打神事をされると伝えられこの神事の妨げにならぬよう斎籠をする風習がありました。これは静止を猪にかけたもので、猪は大神の使わしめと云われています。

当社では摂社に大神をお祀りし昔語を後世に伝えるよすがとして彫刻家柏木秀峰作の静止像(亥)を設置しています。

 

鳥居をくぐると正面に東向きに社殿が建っています。

神社建築としては非常に変わったもので、二階建てのRC造で屋根は船のような妻入切妻造となっています。階段を上った先の二階が拝所となっています。

 

社殿の内部構造がよくわかりませんが、後方に本殿らしき建物は無く、恐らく拝殿と本殿が一体化した建物なのでしょう。或いは覆屋のように本殿が奥に納まっているのかもしれません。

阪神大震災により被害を受けたので今の社殿が造営されたようです。

 

社殿前の狛犬。花崗岩製の比較的新しいものです。

 

社殿の左側(南側)の空間に「恵美須宮」が北向きに鎮座。上述の狛猪の由緒に因み当社の摂社としてエビス神を祀っているようです。

 

恵美須宮の前に配置されている狛犬。こちらは砂岩製でやや古めかしいものです。本社社殿の前代の狛犬だったのかもしれません。

 

参道を戻り、境内の南東隅に「白山宮」が北向きに鎮座しています。

伝承では明智光秀の家臣の四方天但馬守なる人物が戦で歯で刀を咥えて迎え討とうとするも歯が欠けて刀を落とし、「歯の悪い人を治そう」と言い残して討たれたと言われています。

明智光秀の家臣に四王天政孝という者がおり、但馬守と呼ばれていたのは事実ですが、上記のような事跡は記録がありません。

「白山さん」が「はくさ(歯瘡)さん」が転訛したもののようで、「北向きの歯神さん」として信仰されています。

白山神は北陸を中心に全国で祀られていますが、このように歯の神とされるのは珍しい例と言えます。

案内板「白山大神の由緒」

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白山大神の由緒

天正十年(一五八二)反逆者・明智光秀の武将・四方天但馬守は、備中の戦陣より急遽引返した秀吉を三軒家で乱戦して組み敷き、くわえた刀で討とうとしたが不覚にも歯が欠けて刀をとり落し、後を追ってきた加藤清正に誅されました。

但馬守は無念で、これからは歯の悪い人を治してやろうと言い残したとの風説があります。

この話は白山大神と但馬守との付会です。白山大神は、和と結び・穣災の神ですが、当地では白山さん、はくさ(歯瘡)さんと転訛し、北向きの歯神さんとして周知されています。

 

白山宮の右側(西側)に「地主宮」が鎮座しています。しかし石造の祠の中に納められているのはどういうわけか地蔵菩薩と思しき石仏です。石仏が地主神として祀られているのでしょうか。

京都市伏見区羽束師志水町の羽束師坐高御産日神社でも同様に石仏が神として祀られている祠があり、これまた珍しい例です。

 

白山宮・地主宮の手前側(北側)に二基の石造九重塔が建っています。これらは小松内府と呼ばれた平重盛の供養塔と伝えられています。

当地は平安時代末期には「小松庄」と呼ばれた平氏の荘園だったと言われ、平重盛の居館があったと言われています。

ただ、小松庄が平氏の荘園だったことは考えられるものの、当地が平重盛と結びつくかは疑問もあるようで、伝説的な付会である可能性が高いようです。

 

当社の境内には石材や瓦などが散在しています。これらは阪神大震災の爪痕でしょうか。

阪神大震災で当社は社殿や祭礼など多くの点で様変わりしたようですが、鬱蒼とした森や鳥居、九重塔などは当時のままと言えそうです。

 

タマヨリ姫
ここは昔は「おかしの宮」って言われてたの?なんだか美味しそうだね!
由来は色々な伝承があるけれど、かつて行われてた行事がおかしかったからなんて言われたりもしてるわね。
トヨタマ姫

 

由緒

案内板「延喜式内 岡太神社 略記」

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延喜式内 岡太神社 略記

祭神

天御中主大神

天の真中に坐して、世の中の宇斯たる神と申す意なり。天の初発の時、高天原に生りませる神にして神道における根本神祇なり。

相殿

高皇産霊神 素盞嗚神 稲田姫神 大己貴神 蘇民將來

由緒

伝に曰く 宇多天皇寛平5年(皇紀一五五三年 西暦八九三年)武庫郡広田の人岡司氏此地を開発して浜村といひ延喜元年天御中主神を主神に広田の大神五柱を末社として共に鎮座せしを起源とし由って岡司宮と称す。

合祀神五柱は、元上の宮と称して本社の北に當る人家の間にありしを明治五年合祀せるなり。

明治六年八月村社に列し、同十二年四月県社となる。

吾妻鏡建久三年の條に武庫御厨小松庄と記せるは此地なるべし。

境内に小松内大臣平重盛卿の供養塔を保存す。

祭日

例祭 十月十一日
夏祭 七月十六日

案内板「西宮市指定重要無形文化財 岡太神社一時上臈」

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西宮市指定重要無形文化財 岡太神社一時上臈

指定年月日 昭和59年3月29日
保存関係者 岡太神社一時上臈保存会

岡太神社の例大祭は、毎年10月11日に行れ、一時上臈と称する御幣が奉納される。

祭祀組織は南・北二つの講から成り、各一戸が任期一年の頭役を輪番によりつとめる。

祭りの前々日に南・北両講の者が社務所に集まり、竹串の先に直径約9cmの輪をつけ、紅白の紙により宝冠状に飾った御幣を18本つくる。北講の幣は女、南講は男であるという。

祭りの当日、餅・柿・柚・柘榴・栗などの供物を入れた唐櫃の上に直径約1mの藁の輪に15本の幣を立て頭屋から神社に運ぶ。

行列は手桶を持って笹で道を払う少年、頭屋の主人、神官、伶人、巫女、幣をのせた唐櫃の順で、北講の後に南講が続く。

供物・幣を神前に供えて祭礼が行われる。

祭りの当日、午後4時頃になって拝殿に南・北両講の頭屋があがり栗・柿・里芋・焼豆腐の汁による直会がある。

かつて氏神の祭礼には村人が順次頭役を勤め後継者となる少年が祭祀の役割を分担し、巫女的な少女か供物を奉斉した。

これが当地では露払い役となり、少女は一時上臈にその名をとどめている。

直会の席はかつての宮座における頭役交替の姿を、藁輪は神聖な頭屋の標識を、供物直会は村人のハレの日の食物を伝えている。私達は現在に残る特殊神事を通じて中近世における宮座を中心とする祭祀組織、伝統的な祭りのあり方を知ることができる。

西宮市教育委員会

『摂津名所図会』

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押照宮

小松村の内街道の南傍にあり。或曰 難波押照宮の旧蹟といふ。其証不詳。押照は難波の枕詞なり。土人はただ押照宮と称してこの地の産土神とす。摂津志にここを式内の岡田神社と書したるは非なり。岡田神社は門戸村にあり。

御供塚 押照祠より二町許西にあり。御供所の古跡なり。土人小松重盛塚といふは大なる謬なり。

 

地図

兵庫県西宮市小松南町2丁目

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