1.京都府 2.山城国

久我神社 (京都府京都市伏見区久我森の宮町)

更新日:

社号 久我神社
読み こが
通称
旧呼称 森大明神 等
鎮座地 京都府京都市伏見区久我森の宮町
旧国郡 山城国乙訓郡久我村
御祭神 建角身命、玉依比売命、別雷神
社格 式内社、旧村社
例祭 4月第1日曜日

 

久我神社の概要

京都府京都市伏見区久我森の宮町に鎮座する式内社です。久我と書いて「コガ」と読みます。

当社の創建については以下のようにいくつかの説があります。

  1. 桓武天皇により長岡京に遷都した際に王城の艮の守護神として鎮座した。
  2. 当地を拠点とした氏族である久我氏(村上源氏の久我家とは別)が祖神である「興我萬代継神」を祀って創建した。
  3. 賀茂氏が大和から木津川を経て当地「久我国」に祖神を祀ったのが当社で、後に鴨川を北上して今の「賀茂御祖神社」「賀茂別雷神社」を創建した。

この内2.について、「興我萬代継神」なる神については『三代実録』貞観八年および貞観十六年に見える神で、一説にこれが当社を指すとも未知の国史現在社とも言われています。ただしこの神が久我氏の祖神であるとする資料は見当たりません。

一方、『先代旧事本紀』には饒速日尊の降臨の際に随伴した神々の中に「天神立命山代久我直等の祖。天背男命とも)」と「天世平命久我直等の祖)」がいたことが記されています。両者は別系統のようですが、当社の境内社の「歯神社」に「天神立命」が祀られていることから、当社を創建したという久我氏は前者である可能性が考えられそうです。

また3.については『山城国風土記』逸文における賀茂社の鎮座伝承を前提としています。

『山城国風土記』逸文(大意)

日向の曽の峯に天下った賀茂建角身命は神日本磐余彦の御前に立ち、大和の葛城山の峯に宿り、そこから遷って山城国の岡田の賀茂に至り、木津川の沿って下り、桂川と鴨川の合流するところに至って鴨川を見まわして言うには「小さいが石川の清川(スミカワ)である」と。これによって「石川の瀬見の小川」と名付けられた。

その川から上って久我国の北の山基に鎮まり、その時から賀茂と名付けられた。

葛城山に天下った賀茂建角身命は木津川と鴨川を経由して現在の賀茂御祖神社・賀茂別雷神社に鎮まったことが記されています。その途中、桂川と鴨川の合流するところ、即ち当地付近に至ったことが記されており、これに関連して当社が創建されたことは考えられるかもしれません。その前に至った「山城国の岡田の賀茂」についてはこの伝承を前提とする木津川市加茂町北に式内社「岡田鴨神社」が鎮座しており、一方の当地でも同様に神社が創建されたことは考えられることでしょう。

事実、現在の御祭神は「建角身命」「玉依比売命」「別雷神」であり、賀茂系の神社として祀られています。

ただし『山城国風土記』の記述を素直に読めば、「久我国の北の山基」は鴨川を遡ったところで、賀茂社の鎮座する地を指すと理解するのが自然です。また賀茂別雷神社の境外摂社に同名の式内社「久我神社」があり、『山城国風土記』に見える「久我国」がどの範囲を指していたのか疑問があります。

このようにいくつかの説が考えられますが、例えば久我氏が祖神を祀っていたところ、当地を重要な拠点とした賀茂氏が新たに祖神を祀って、久我氏の祖神である天神立命は境内の隅へ追いやられ、さらに後に長岡京遷都の際に王城鎮護の神として崇敬を受けるようになった、などと複合的な歴史を考えることもできるでしょう。(現在の案内板はこのような筋書きで書かれている)

いずれにせよ京都近辺でも有数の古い歴史がありそうです。

 

境内の様子

境内入口。鮮やかな朱の鳥居がよく映えます。

 

鳥居の手前左側(西側)には境内社の「歯神社」が鎮座しています。御祭神は「天神立命」。山代久我直の祖神であり、当社の本来の祭神だった可能性があります。

 

鳥居をくぐった様子。当社の森は「久我の杜」と呼ばれ、和歌にも詠まれる名所でしたが、2018年の台風21号の被害のためか参道左側(西側)は悉く伐採されており痛々しい状態になっています。

 

参考までに、2011年に訪れたときの様子。この時はこのように非常に鬱蒼とした森が参道を覆っていました。貴重な森が失われ非常に残念です。当社がかつて「森大明神」と呼ばれたのはこの社叢あってのことだったのではないでしょうか。

 

参道を進んでいくと参道を横切るように小さな川が流れています。この川を「大井手川」、そこに架かる石橋を「森乃そり橋」と呼ぶようです。

 

橋の先の空間の左側(西側)に手水舎があります。竹簾が載せられており今は使われていなさそうです。

 

正面の石段上に南向きの社殿が建っています。拝殿は平入切妻造の割拝殿。割拝殿は摂津以西に多く山城では少ないのですが、乙訓郡では例外的によく見られ、この地が摂津的な要素の入り混じる土地柄であることが偲ばれます。

 

割拝殿から本殿を見た様子。拝殿と本殿の間に切妻屋根が設けられています。

 

本殿は銅板葺きの三間社流造。天明四年(1784年)に再建されたもので、播磨の大工が関わって建立したことが棟札に記されています。京都市登録有形文化財

案内板「久我神社本殿」

+ 開く

京都市登録有形文化財

久我神社本殿

久我神社は延喜式神名帳の久何神社とみられ、江戸時代には森大明神とも呼ばれていた。祭神は別雷神・建角身神・玉依比売神の三座である。

現在の本殿は天明四年(一七八四)の再建である。棟札によると、大工棟梁は小嶋弥惣太源久清であるが、弥惣太が幼年のため、播磨の宗左衛門と利兵衛が肝煎として造営に携わっている。

建物は三間社流造で、切石積み基壇上に建つ。身舎内部は内陣と外陣に分かれている。妻飾は虹梁大瓶束で、密集した葉を彫刻した笈形が付く。この地域の建物としては、妻飾などの彫刻がやや派手であるが、これは播磨の大工が造営に関与していることによるとみられる。

この本殿は造営棟札の他に普請願書の控えや板製の建地割図など造営に関する史料がよく残っており、建築年代は明らかである。播磨の大工の関与が認められる比較的規模の大きな社殿で、保存状態も良好である。

平成二十年四月一日登録
京都市

 

本殿前に配されている狛犬。砂岩製のように見えます。

 

本殿の左側(西側)に二棟の境内社が覆屋に納められています。手前から「稲荷神社」、「春日神社」です。

 

本殿の右側(東側)には三棟の境内社が覆屋に納められています。手前から「清正公社」、「八幡宮」、「天満宮」です。ブルーシートが被せられているのは2018年の台風21号の影響でしょうか。

 

社殿の右脇(東側)にひときわ高く聳えているクスノキは京都市指定保存樹となっています。「久我の杜」の象徴ともいうべきもので、これが台風の被害を受けなかったのは不幸中の幸いだったと言えるかもしれません。

 

タマヨリ姫
御祭神を見ると賀茂氏の神社って感じだね!賀茂氏が祀ってきた神社なのかな。
色んな説があって、元々は久我氏という古い氏族が当社を創建したという説もあるわ。鳥居の前に鎮座する「歯神社」は久我氏の祖神を祀っていて、いつしか本社から追い出されちゃったのかもしれないわね。
トヨタマ姫

 

由緒

案内板「延喜式内社 久我神社」

+ 開く

延喜式内社 久我神社

当神社は、延喜式の神名帳に載せられた「延喜式内社」であり、京都における最古の神社の一つである。御祭神は建角身命・玉依比賣命・別雷神の三柱で、上賀茂神社・下鴨神社と御同神であり。久我の地では、当地におられた玉依比賣命に西の方から丹塗矢が飛んできて当たり、身ごもられ、この地で別雷神がお生まれになったと伝えられており、賀茂伝説のふるさとの地でもある。また、古来当社の森は「久我の杜」と称され、和歌にも多く詠まれるなど、非常に名高い。

御鎮座は、古代豪族の久我氏(中世貴族の久我家とは別)が自らの祖神を祀ったのが起こりで、その後この地に進出してきた賀茂氏が久我氏に代わって自らの祖先神を祀るようになったのではないかと考えられている。長岡京時代には、都の北東の守護として崇拝された。また、江戸時代初期までは「願王寺」という神宮寺が置かれ、社僧が祭祀を司っていたが、この寺が断絶の後は村の寺が年番を作り守護してきた。このような由来により、今日なお神仏習合時代を彷彿とさせる貴重な神事も残されている。

京都市

案内板「由緒」

+ 開く

由緒

当社は八世紀末平安遷都に先立ち桓武天皇が山背長岡に遷都された頃(七八四年延暦三年)、王城の艮角の守護神として御鎮座になったものと伝えられる由緒深い延喜式内社である。

別雷神・建角身命・玉依比売命の三柱を御祭神とし賀茂両社と同体であり、古来鴨森大明神とも号し久我の郷人をはじめ諸人の平和安全方除け発展を守護する神として御神徳が厚い。

また久我の杜といって久我の渡りと共に歌にもよまれている。

木々にはふ つた紅葉せり 久我の杜 淀のわたりや 時雨しつらむ

例祭 四月上旬

私祭 五月上旬

 

地図

京都府京都市伏見区久我森の宮町

 

関係する寺社等

久我神社 (京都府京都市北区紫竹下竹殿町)

社号 久我神社 読み くがじんじゃ 通称 旧呼称 氏神社、大宮 等 鎮座地 京都府京都市北区紫竹下竹殿町 旧国郡 山城国愛宕郡大宮村 御祭神 賀茂建角身命 社格 式内社、賀茂別雷神社摂社 例祭 4月1 ...

続きを見る


-1.京都府, 2.山城国
-,

Copyright© 神社巡遊録 , 2019 All Rights Reserved Powered by STINGER.