社号 | 久我神社 |
読み | くがじんじゃ |
通称 | |
旧呼称 | 氏神社、大宮 等 |
鎮座地 | 京都府京都市北区紫竹下竹殿町 |
旧国郡 | 山城国愛宕郡大宮村 |
御祭神 | 賀茂建角身命 |
社格 | 式内社、賀茂別雷神社摂社 |
例祭 | 4月1日、11月1日 |
式内社
久我神社の概要
京都府京都市北区紫竹下竹殿町に鎮座する式内社で、賀茂別雷神社(上賀茂神社)の境外摂社です。
当社の創建・由緒は詳らかでありませんが、江戸時代以前は「氏神社」「大宮」と称していました。一説には賀茂別雷神社が朝廷の崇敬を受け国家的な神社としての性格を帯びるようになったため、賀茂氏が別に祖神を祀って一族の私的な祭祀の社として創建したのではないかとも言われています。
『山城国風土記』逸文には、賀茂建角身命は大和の葛城山から山城国の岡田(現在の京都府木津川市加茂町/「岡田鴨神社」が鎮座する)を経由し、木津川を遡って桂川と鴨川の合流地を経て「久我国の北の山基」に鎮まったとあります。この「久我国の北の山基」とは賀茂別雷神社付近の地を指すと思われますが、そこを中心に広く「久我」と称した可能性もあります。
また、桂川と鴨川の合流地には当社とは別に式内社の「久我神社」が鎮座しています。そちらの久我神社の由緒は諸説ありますが、賀茂氏が創建したとする説もあります。
どのような経緯があったのかは不明ですが、いずれにしても「久我」なる地名は京都盆地における賀茂氏の定着の原点とも言えそうです。
ただし、当社を式内社「久我神社」とする確証はなく、『山城名勝志』はじめいくつかの資料では賀茂御祖神社(下鴨神社)の北に鎮座するとしています。かつて賀茂御祖神社に久我社なる境内社があったようですが詳細は不明です。
なお、当社の側を南北に通る「大宮通」は、かつて大内裏に接していたことに因むとするのが一般的ですが、先述のように当社はかつて「大宮」と呼ばれており、これに因んで名づけられたとする説もあります。
境内の様子
境内入口は境内の東側と西側の二ヶ所にあります。当サイトでは西側から。こちらには西向きの朱鳥居が建っています。
鳥居をくぐると森に包まれるように社殿が建っているのが見えます。社殿は南向きなので、西側の鳥居をくぐったところから見ると社殿は横向きとなり、参拝順路は右側へ回り込む形になります。
手水舎は社殿の前(南側)にあります。賀茂社の象徴であるフタバアオイの鉢が置かれています。
拝殿は妻入切妻造の舞殿風拝殿ですが、屋根の左右に庇が付いており、それぞれ一間分の土間が拡幅されています。これは非常に珍しい形式であると思われます。どのような理由でこのような構造になっているのでしょう。拝殿の両側に参集する神事でもあるのでしょうか。
特に文化財に指定されていませんが寛永五年(1628年)年の建立です。
拝殿内にはいくつかの古い絵馬が掲げられています。
拝殿の後方には一間社流造の本殿が建っています。こちらも寛永五年(1628年)の建立。
反対側へ回ってこちらは東側にある境内入口。こちらにも朱鳥居が建っており、建物に挟まれた路地のような参道が社殿のある空間まで続いています。
当社と直接関係あるわけでありませんが、近隣にあるのでこちらにて紹介。当社から南東へ100mほど離れた緑町公園には賀茂別雷神社の末社「小森社」が鎮座しています。御祭神は「水分神」。創建・由緒等は詳らかでありません。


由緒
案内板
賀茂別雷神社第八摂社 久我神社
案内板
京都指定史跡
久我神社境内
地図
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