社号 | 葛城一言主神社 |
読み | かつらぎひとことぬし |
通称 | いちごんさん 等 |
旧呼称 | |
鎮座地 | 奈良県御所市森脇 |
旧国郡 | 大和国葛上郡森脇村 |
御祭神 | 葛城之一言主大神、幼武尊 |
社格 | 式内社、旧県社 |
例祭 | 4月5日、9月15日 |
葛城一言主神社の概要
奈良県御所市森脇に鎮座する式内社です。『延喜式』神名帳に名神大社に列せられ、古くから非常に有力な神社でした。
当社の御祭神は「葛城之一言主大神」「幼武尊(雄略天皇)」の二柱です。『延喜式』神名帳には二座と記されていないため本来は前者のみを祀っていたと考えられます。
当社の神「一言主神」は記紀には系譜が記されていませんが物部系の史書である『先代旧事本紀』には素戔嗚尊の子であると記しています。これは恐らく後世に組み込まれたものと思われ、本来は葛城地方の土着の神、特に金剛山や葛城山といった葛城地方の山に降臨する神と考えられます。
また「一言主」の神名から託宣の神であるとも考えられます。
この神の事蹟は記紀の雄略天皇の記事に記されています。両者の間で若干の違いがあるので、まずは『古事記』の方を見てみましょう。
『古事記』(大意)
雄略天皇が百官を従えて葛城山を訪れたとき、天皇らと同じ衣装をした人がいた。天皇が「この倭国において私の他に王はいないのに、今同じ格好をしているのは何者か」と問うと、同じ答えが返ってきた。天皇は大いに怒り百官ともども矢をつがえると、相手もみな矢をつがえた。ここで天皇が「まずはそちらの名を告げよ。お互いに名を告げてから矢を放とう」と問うと、相手は「吾は悪事(まがごと)も一言、善事(よごと)も一言で言い放つ神、葛城の一言主大神である」と答えた。天皇は恐れ畏み、「畏れ多いことです。ウツシミ(現身)をお持ちだとは思いませんでした」と言い、刀と弓矢をはじめ百官の衣装を脱がせ献上し拝献した。一言主大神は手を打ってその捧げものを受け取り、天皇の還幸の際は大神は長谷の山口まで見送った。
一方の『日本書紀』雄略天皇四年春二月の条には次のように記されています。
『日本書紀』(大意)
雄略天皇が葛城山で狩猟をしているとき、長身の人と出会った。その人は姿が天皇とよく似ていた。天皇はこれを神であると知ったが、あえて「あなたはどちらですか」と問うと、その人は「現人神である。先にそなたが名乗れば私も名乗ろう」と答えた。天皇は「私は幼武尊である」と答えるとその人は「私は一事主神である」と答えた。二人は共に狩猟を楽しみ、神は来目水(久米川)まで見送った。
両者も似たような記事ですが、読み比べてみると『古事記』では神が優位にあり天皇は畏まって武器や衣服を献上しているのに対し、『日本書紀』では神と天皇は対等の関係で描かれていることがわかります。
これは神を上位の存在として見る『古事記』の方が原初的なもので、次第にこれが零落し対等の存在になったのが『日本書紀』の記述であると考えられます。
当初は当地を拠点としていた葛城氏が皇室の外戚氏族として権勢をふるい、葛城の土着の神である一言主神を畏怖すべき存在として『古事記』に反映された一方、葛城氏は次第に権力が衰えたため一言主神も神威を落とした様子が『日本書紀』に反映された、とする見方もあります。
さらに時代が下って鎌倉時代末期の日本書紀の注釈書である『釈日本紀』の一言主神の記事に、天皇と神が獲物を競いあった際に神に不遜の言葉があったため天皇が大いに怒り、神を土佐に流し、天平宝字八年(764年)に賀茂朝臣田守等が葛城山東麓の高宮岡に迎え、和魂は土佐国に留まって今も祭祀しているとあります。
『続日本紀』天平宝字八年十一月七日の条でこの件について触れられていますが、ここでは土佐に流された神は当社の神でなく「高鴨神」(鴨神地区に鎮座する「高鴨神社」の神)とあります。
一方、この神の流された先とされる高知県高知市一宮に鎮座する「土佐神社」では高鴨神社の御祭神である「味鋤高彦根神」と当社の御祭神である「一言主神」の両方を祀っています。
また『土佐国風土記』逸文は土佐の高賀茂の大社(土佐神社)の神の名をヒトコトヌシといい、また一説にアジスキタカヒコネというともあります。
この件については当社の神なのか高鴨神社の神なのか非常に錯綜しており、『風土記』逸文のように同一の神とする資料もありますが、記紀の雄略天皇の記事を前提とすれば一言主神がさらに零落し天皇よりも遥かに劣位の存在にまで落ちぶれてしまったことが窺えます。
また金剛山・葛城山は役小角によって修験道の舞台となっていくにあたり、当社の神も必然的に修験道と深く関わることになるのですが、そこではさらに零落しきってしまった神として描かれています。
平安時代初期の説話集『日本霊異記』や平安時代末期の説話集『今昔物語』では、役行者が鬼神を集めて葛城山と金峰山の間にの間に橋を架けさせようとしたところ、これを見かねた一言主神がある人に憑依して「役行者が天皇を滅ぼそうとしている」と讒言したため、一言主神は役行者に呪縛されてしまったことが記されています。
金剛山・葛城山を拠点とする新たな山岳信仰である修験道の隆盛に伴い、当地の在来の神である一言主神は修験道の祖である役行者に呪縛されてしまうほどに神威が失墜してしまったことを示す説話です。
当社の神は古代において当地を拠点とした葛城氏の信仰した威厳ある神だったはずですが、その後は見てきたように零落と失墜の歴史だったと言わざるを得ません。
しかし当社は人々に「いちごんさん」として親しまれ、現在は「一言の願いであれば何でも叶えてくれる」とも言われ、近隣の風光明媚な景色も相まって遠方から参拝する人々が絶えません。
零落してもなお信仰が途絶えることなく、現在も葛城地方における代表的な神の一柱として親しまれているのは、むしろ喜ばしいことと言えるかもしれません。
境内の様子
当社の一の鳥居は境内の約450mほど東方、森脇の集落の西端に東向きに建っています。
一の鳥居から西へまっすぐ進むと杉などの木の並ぶ道となり、その途中に二の鳥居が東向きに建っています。
二の鳥居から境内へはさらに150mほどあり、参道が山際まで長く続いています。
さらに進むとこんもりとした森があり、社号標が建っています。ここが境内入口。
境内入口を進んだ様子。正面に石段が伸び、葛城山の山裾のやや小高いところに鎮座していることがわかります。
参道途中の左側(南側)に手水鉢が配置されています。
参道途中の右側(北側)に「祓戸社」が南向きに鎮座。社殿は銅板葺の春日見世棚造。
多く奈良県の大規模な神社では参道途中などに祓戸社が鎮座し、本社参拝前に参拝することで穢れを祓い身を清める風習があります。
石段を上って正面にも手水舎があります。
石段上は南北に長い空間となっており、石段を上って左側(南側)に社殿が東向きに並んでいます。
拝殿は桟瓦葺・平入入母屋造で、銅板葺の非常に大きな唐破風の向拝が付いています。
拝殿後方の石垣上に本殿が建っていますが、瑞垣や木々に囲われており殆ど見えません。資料によれば銅板葺の一間社流造のようです。
本社拝殿の左側(南側)に、どういうわけか参道上のものとは別にこちらにも「祓戸社」が東向きに鎮座しています。
社殿は銅板葺の春日見世棚造で朱の施されたもの。
境内の北西側の一画に数多くの境内社が鎮座しています。
この区画の南側に多くの朱鳥居が並んでおり、その奥に「一言稲荷神社」が東向きに鎮座。
社殿は銅板葺の春日見世棚造。
一言稲荷神社の右側(北側)に四社の境内社が東向きに並んでいます。
これらの境内社は左側(南側)から次の通り。
- 「市杵島社」
- 「天満社」
- 「住吉社」
- 「八幡社」と「神功皇后社」の相殿社
この内、相殿社のみが銅板葺の二間社流見世棚造で、他は同規格の銅板葺・春日見世棚造です。
本社拝殿前には非常に大きなイチョウの御神木が聳えており、樹齢1200年とも言われています。
幹には気根がよく発達しており、これが乳に見えることから「乳銀杏」とも呼ばれ、子宝を授かる、乳がよく出るようになるなどの霊験があると信仰されています。
このイチョウには白い蛇が住み着いているとも言われています。
案内板
御神木(乳銀杏)
案内板
保護樹木(イチョウ)
境内には「葛木の其津彦真弓 荒木にも 憑めや君がわが名告りけむ」の万葉歌碑が建てられています。
当地を拠点にした葛城氏は葛城襲津彦を祖としており、この人物は対朝鮮外交で活躍し、強弓の使い手とされた伝説的な武将として知られていました。この歌碑はそれを踏まえて詠まれた万葉集の歌を刻んだものです。
石碑
歌碑
本社拝殿の右側(北側)には二人の老人(?)の像が安置されており、「至福の像」と名付けられています。
彫刻家の石田光男氏の製作であり、この像をなでるとボケ除けになるともされているようです。
境内の東側の崖沿いに「亀石」なるものがあります。亀状の石があり、上部の樋から水が垂れています。
滝行場のようなものでしょうか。詳細不明。
当社周辺は棚田があり、また秋の彼岸の前後には真っ赤な彼岸花があちこちで咲き誇ります。
葛城山を前にしての金色の稲穂と深紅の彼岸花の対比は非常に美しく、関西有数の彼岸花の名所としてもよく知られています。時期を狙って訪れてみると良いでしょう。
御朱印
由緒
案内板
葛城一言主神社
案内板
一言主神社
案内板
一言主神社
地図