社号 | 殖栗神社 |
読み | えぐり |
通称 | |
旧呼称 | 三十八社 等 |
鎮座地 | 奈良県桜井市上之庄 |
旧国郡 | 大和国式上郡上ノ庄村 |
御祭神 | 殖栗王、天児屋根命 |
社格 | 式内社 |
例祭 | 10月1日 |
式内社
殖栗神社の概要
奈良県桜井市上之庄に鎮座する式内社です。
当社の創建・由緒は詳らかでありません。当社は近世以前に「三十八社」と称しましたが、どのような神を祀っていたのかもはっきりしません。
一方、当社は「十之森(トヲノモリ)」と呼ばれる小字に鎮座していた「春日神社」を明治四十年(1907年)(大正八年(1919年)との説も)に遷座しており、その近くに「江繰(エクリ)」と呼ばれる小字があることから式内社「殖栗神社」は当社であるとされたようです。(「江繰」の具体的な場所は不明)
ただし、「三十八社」と呼ばれていた当社が式内社とされたのか、十之森に鎮座していた「春日神社」が式内社とされたのかははっきりしません。
十之森の近くにあるという江繰が式内論社の論拠であるなら十之森の「春日神社」が式内社と思われそうですが、『桜井市史』によれば何故か春日神社を遷座する前の明治二十四年(1891年)の記録に三十八社と呼ばれていた当社が「殖栗神社」とある旨が記されています。
現在の当社の御祭神は「殖栗王」「天児屋根命」の二柱です。殖栗王は用明天皇の第五皇子で、『新撰姓氏録』によれば左京皇別の「蜷淵真人」が殖栗王を出自とすることが記されています。
一方、『新撰姓氏録』左京神別に大中臣同祖であるという「殖栗連」が登載されており、この中臣系氏族の「殖栗氏」が当地に居住し祖神を祀ったことも考えられます。
当社の御祭神の一柱「天児屋根命」が十之森の「春日神社」の祭神だったのか(境内社となっているので可能性は低い)、元々三十八社に祀られていたのか、それとも式内社とされて以降に新たに祀られるようになったのかは不明ですが、どういう経緯であれ(直接の関係は無いとしても)現在は中臣系氏族の殖栗氏の祖神も祀られていることになっています。
さらにこれに対して、『続日本紀』和銅二年(709年)六月二十八日の条に従七位下の「殖栗物部名代」なる人物が「殖栗連」の姓を賜ったことが記されており、物部氏の中にも殖栗を名乗る人々がいたことが知られています。
以上から、当社の奉斎氏族については
- 蜷淵真人
- 中臣系の殖栗連
- 物部系の殖栗連
の三氏族を候補に挙げることができます。ただしこの内のいずれであるかを示す手掛かりは無く、これ以上は想像の域を出るものではないでしょう。
なお、当社に遷座されている十之森の「春日神社」の旧地とされる地には現在「十之森神社」が鎮座しています。神社とはいえ社殿は無く、枯れた古木を祀っているものです。
石碑によれば、十之森の大樹は霊木であったため、合祀後の昭和十八年(1943年)に再び十之森に遷座し、その後中和幹線が十之森を横断することとなったため当地に遷座したとあります。
石碑の記述を見れば、合祀後も十之森には霊木とされるほどの樹木のある森が存続していたようで、現在祭祀されている古木はその森にあったものでしょう。
現在は周囲に森は見えず、消滅してしまっているようです。1975年頃の航空写真を見るとコメリハード&グリーン桜井店の駐車場となっている辺りに小さな森らしきものが見え、恐らくそこが十之森だったのでしょう。
また、石碑には再び十之森に遷座したとあるものの、現在も当社境内に十之森の「春日神社」が境内社として鎮座しているため、実際には遷座でなく勧請だったと思われます。
境内の様子
当社は上之庄地区の西側、上之庄の古くからの集落の南方に鎮座しています。
入口から西へ参道が伸び、左右に灯籠が配されています。
参道を進むと鳥居が東向きに建っています。
鳥居前に配置されている灯籠には江戸時代以前の当社の呼称である「三十八社」と刻まれています。この他にも境内にあるいくつかの灯籠に「三十八社」の銘を見ることができます。
鳥居をくぐってすぐ左側(南側)に配置されている岩石。窪みが穿たれているので手水鉢なのでしょう。ただし導水施設はありません。
鳥居をくぐった先は広い空間となっており、右側(北側)に社殿が南向きに並んでいます。
拝殿は銅板葺・平入切妻造。
拝殿後方の石垣上に中門、玉垣、塀が廻らされ、その中に本殿が建っています。
本殿は銅板葺の一間社春日造。朱などの彩色が施されており、壁や脇障子にも絵が描かれた華やかなものです。
本社社殿の右側(東側)に中門、玉垣、塀で囲われた空間があり、その中に二社の境内社が南向きに鎮座しています。
左側(西側)が「二ツ神」という小字から遷座した「稲荷神社」、そして右側(東側)が「十之森」から遷座した「春日神社」です。
概要にも述べた通り、はっきりとは分からないもののこの春日神社こそが式内社である可能性があります。
なお、社殿はいずれもトタン葺の一間社春日造です。
十之森神社
殖栗神社の北東550mほどの地、中和幹線沿いのコメリハード&グリーン桜井店の東側に隣接して「十之森神社」が鎮座しています。
十之森の「春日神社」が殖栗神社へ遷座した後、昭和十八年(1943年)に旧地の十之森へ遷座(実際は勧請だったと思われる)したもので、中和幹線の整備に伴い現在地に遷ったとされています。
境内は生垣で囲われた一画になっており、石畳が設けられ鳥居も南向きに建っています。
当社に社殿はなく、石畳の先には銅板葺・平入切妻造の覆屋が建ち、その中に枯れた古木が安置されています。
恐らく十之森にあった神木をここに遷したのでしょう。
現在地への遷座前にどのように祀られていたのかは不明で、社殿が建っていたのか、それともこの神木を神籬としていたのかはっきりしません。
石碑
由緒略記
地図
十之森神社