社号 | 森神社 |
読み | もり |
通称 | |
旧呼称 | |
鎮座地 | 奈良県天理市森本町 |
旧国郡 | 大和国添上郡森本村 |
御祭神 | 天児屋根命 |
社格 | 式内社、旧村社 |
例祭 | 10月13日 |
森神社の概要
奈良県天理市森本町に鎮座する神社で、式内社「太祝詞神社」は当社に比定されています。『延喜式』神名帳には大社に列せられ、古くは有力な神社でした。
現在は森神社と名乗っていますが、当社本殿から発見された寛文五年(1665年)の棟札に「祝太詔戸神社之上棟 祭神亀津姫命」と記載されており、当社が式内社である根拠となっています。
『延喜式』神名帳の京中坐神の左京二條坐神社に「太詔戸命神」が記載され、さらに註として「本社 大和国添上郡・対島国下縣郡 太祝詞神社」と記されています。つまり延喜式の頃に平安京の左京二条に祀られていた「太詔戸命神」(現在は廃絶)は当社および対馬の「太祝詞神社」を元としていることを示しています。
これは同時に当社は対馬の「太祝詞神社」から勧請して創建されたことも推測させます。
対馬では非常に古くから亀卜(キボク/亀の甲羅を用いた占い。甲羅を焼いて生じたヒビを見て占う)が行われ、この際に奏上される祝詞を神格化して祀ったのが「太祝詞神社」であると考えられています。
対馬で行われた亀卜に従事した人々は「卜部(うらべ)」と称して朝廷でも重んじられ、律令制では神祇官の管理下に置かれました。これに伴い祭祀氏族であり朝廷の政治に大きな影響力を持つ中臣氏に組み込まれていきました。
現在の当社の御祭神を「天児屋根命」とするのも卜部が中臣氏の配下にあったことによるとも考えられます。
しかし一方で上述の寛文五年の棟札に「祭神亀津姫命」と記載されていることから江戸時代初期には「亀津姫命」なる神が御祭神と見なされていたことがわかります。
亀津姫とはその神名から推して亀卜の姫、すなわち亀卜に奉仕した巫女を神格化したものと考えられます。
ただ『延喜式』神名帳およびそれより古い『新抄格勅符抄』(大同元年(806年))などには「太詔戸命神」と記載され、本来の御祭神はこの神だったはずです。
これについては日神に奉仕する巫女が神格化して天照大神になったのと同様で、亀卜における祝詞の神「太詔戸命神」も亀卜に奉仕した巫女「亀津姫命」も本質的には同じ神だとする説もあります。
当社も平安京における左京二条の「太詔戸命神」と同様、奈良時代に平城京内において祀られたものと思われ、現在地は当初からの社地でないとするのが有力です。
本来の所在地は詳らかでありませんが、一説に近鉄奈良駅の北方、奈良市東新在家町(現在は奈良女子大学の敷地)にあったと言われ、その地は江戸時代にはただ一株の御神木のみがある状態だったと言われています。
いつ頃、どのような経緯があって当地に遷座したのかは不明ですが、平城京から離れた当社は大きなケヤキの巨樹などに囲まれた鬱蒼とした地に鎮座しており、祝詞の神であることも忘れられて、一種の遁世者のようにひっそりと郊外で佇んでいるように感じられます。
境内の様子
当社境内を北側から見た様子。境内一帯がこんもりとした森になっており、まさしく「森神社」の社名の通りです。
この森の東側に境内入口があり、鳥居が東向きに建っています。鳥居手前に聳える大きな木はケヤキ。
もし当社が奈良から遷座したのが事実だったら、遷座当時から当社と共に寄り添ってきた木ということになるのでしょう。
鳥居をくぐってすぐ右側(北側)に手水鉢が配置されています。
鳥居をくぐって右(北)を向くと正面に大きな基壇があり、その上に本殿等が建っています。当社に拝殿はありません。
基壇前に配置されている狛犬。砂岩製で古めかしさの感じられるものです。
石段を上ると正面に銅板葺・一間社春日造の本殿が南向きに建っています。
この本殿は珍しいことに、何故か床下に岩石が配置されています。構造的に重しというわけでなく、何らかの信仰的な意味があって置かれているものと思われます。
果たして磐座なのか依代なのか何かを埋めた記念碑的なものなのか、何のための岩石であるのかは全くの不明です。
本社本殿の左側(西側)に「八王子神社」が南向きに鎮座。社殿は銅板葺の春日見世棚造で朱の施されたもの。
境内の西側に社務所を兼ねたと思われる公民館が建てられています。
当社を初めて訪れたときは境内で地元の方たちによるゲートボール大会が開催されていました。この建物に置かれている椅子はそのための便宜を図ってのものでしょう。
境内からやや外れて、当社の森の北側を少し入り込んだところに「恵比須神社」が南向きに鎮座しています。
社殿は銅板葺の三間社流見世棚造で朱の施されたもの。
恵比須神社の脇に謎の岩石と縄の飾りが置かれていました。何らかの信仰の対象でしょうか。
地図