社号 | 赤穂神社 |
読み | あかほ/あこう |
通称 | |
旧呼称 | |
鎮座地 | 奈良県奈良市高畑町 |
旧国郡 | 大和国添上郡高畑村 |
御祭神 | 天児屋根命 |
社格 | 式内社、旧村社 |
例祭 | 9月18日 |
式内社
赤穂神社の概要
奈良県奈良市高畑町に鎮座する式内社です。
当社の創建・由緒は詳らかでありません。
『日本書紀』天武天皇七年(678年)四月十四日条に「十市皇女」(天武天皇の皇女/大友皇子の后)を赤穂に葬ったとあり、また天武天皇十一年(682年)に「氷上夫人」(天武天皇の后)を同じく赤穂に葬ったとあり、この両名を葬った「赤穂」とは諸説ありますが当地であるとする説が有力です。
現在の当社は「天児屋根命」を祀っているものの、当社は「高貴な姫君を祀る」とも伝えられていたようで、女性守護の神として信仰されていると共に、上記の『日本書紀』の記述を思わせるものでもあります。
実際に当社の近隣、新薬師寺の南東隅に「比売塚」と呼ばれる塚があり、これを十市皇女の墳墓として昭和五十五年(1980年)に十市皇女を祀る「比売神社」が創建されています。
かつては社地が広大で近隣には大鳥居があり、桜の名所として知られ「桜田」との地名もあったと伝えられていますが、明治以降は周囲の春日大社の社家町と共に著しく荒廃したと言われています。
その後当社は復興され、天満宮と弁財天を合祀し、昭和五年(1930)年に当地の産土神である「鏡神社」の別社となったと伝えられています。
一方で式内社「赤穂神社」は、平安時代末期の春日若宮神社の記録(春日若宮神主・中臣祐房の註進状)に春日大社の摂社である「紀伊神社」に合祀されていたことを示唆する記述があり、『大和志料』などの資料は当社を式内社に比定することを疑問視しています。
かつては大規模な神社だったという当社も現在は非常に小さな神社になっており、往時の様子を偲ぶことも難しくなっています。これがまた当社の由緒を探ることを難しくしているのでしょう。
廃れ行く社家町の中に細々と祀られる当社はどこか侘しさが感じられる一方、忘れずに後世へ伝えていく力強さも感じられます。
境内の様子
当社境内は高畑地区のほんの一画にあり、うっかりしていると見落としてしまうほど小さな境内となっています。
境内は無機質なブロック塀で道と隔てられ、入口には手動で開閉する扉が設けられています。柵と紛らわしいためか「ご自由にご参拝ください」と書かれた札が掲げられています。
当社に鳥居や手水舎などの設備はありません。
扉をくぐると左側に社殿が西向きに並んでおり、手前側には銅板葺・妻入切妻造の拝殿(というより拝所)が建っています。
その左右には瑞垣が伸び、本殿の建つ空間とを隔てています。
拝殿後方には二棟の銅板葺・一間社春日造の本殿が並んでいます。
右側(南側)が本社本殿で、左側(北側)が「弁財天社」と「自在辻子天満宮」の相殿。
当社周辺はかつて春日大社の神官や禰宜の住む社家町でした。明治政府の政策により神官の世襲が禁じられたため社家町に住む神官や禰宜は離散し甚だしく廃れたと言われています。
今ではたった一軒のみ社家が残っています。


由緒
案内板
式内 赤穂神社の由来
地図