社号 | 久米御縣神社 |
読み | くめのみあがた |
通称 | |
旧呼称 | 天神社、天満宮 等 |
鎮座地 | 奈良県橿原市久米町 |
旧国郡 | 大和国高市郡久米村 |
御祭神 | 高皇産霊命、大来目命、天櫛根命 |
社格 | 式内社、旧村社 |
例祭 | 10月第2日曜日 |
久米御縣神社の概要
奈良県橿原市久米町に鎮座する式内社です。
当社の創建・由緒は詳らかでありませんが、「久米氏」もしくは彼らの率いた「久米部」が祖を祀ったのが当社と考えられます。
久米氏は大伴氏と並ぶ古代の軍事氏族で、かなり古くから朝廷に仕えていたと見られ、記紀の天孫降臨の段では久米氏の祖(『古事記』では「天津久米命」、『日本書紀』では「天槵津大来目(アメクシツノオホクメ)」)がニニギの前に立って仕えたことを記しています。
また記紀の神武東征においては久米氏の祖「大久米命(大来目)」や「久米部」らが多くの場面で活躍しており、神武天皇即位後の『日本書紀』神武天皇二年二月の条で神武東征に功のあった者を賞した際、大来目を畝傍山の西の川辺の地に住まわせ、そこを「来目邑」と名付けたと記しています。
この「来目邑」こそが当地であり、ここに居住した久米氏もしくは久米部の子孫が祖を祀ったのが当社と考えられます(ただし後述のように疑問とする説あり)。
関係する氏族として『新撰姓氏録』に次の氏族が登載されています。
- 左京神別「久米直」(高御魂命の八世孫、味耳命の後)
- 右京神別「久米直」(神魂命の八世孫、味日命の後)
この両氏族は微妙に出自が異なっており、「“高御”魂命」と「“神”魂命」、そしてそれぞれその八世孫であるという「味“耳”命」と「味“日”命」という、誤植なのではないかと思われるような絶妙な違いとなっています。
これについては記紀に天津久米命(天槵津大来目)の出自が記されていないこともあり、本当に単なる誤植なのか、それとも偶然の別系統なのか、はっきりしません。
一方、当社の社名に「御縣(ミアガタ)」とあるのはやや不審です。
御県とは朝廷の直轄地のことあり、『延喜式』祝詞には「倭の六県」が見え、蔬菜類を栽培し献上するための農園のような地だったことがわかります。
そしてこの「倭の六県」とは高市県、葛木県、十市県、志貴県、山辺県、曽布県の六県であり、久米県は含まれていません。
また「倭の六県」には全てその御県の守護神として式内社があり、いずれも名神大社もしくは大社であるのに対し、当社は小社に留まっています。
さらに「倭の六県」はいずれも後にその御県の名を負う郡が成立していますが、久米郡なる郡は大和国にはなく、当地は高市郡に属しています。
国史などの史料を見てもそもそも「久米県」なる御県は確認できず、そのような御県があったとしても殆ど重視されなかったものでしょう。
記紀において久米氏・久米部の活躍した場面を見ると、『古事記』においては大伴氏と対等の立場であるのに対し、『日本書紀』においては大伴氏に従う格下の立場として描かれており、久米氏の地位が低下し勢いの衰えた様子が『日本書紀』の各場面に遡って反映されているとする説もあります。
来目邑の後身と思しき久米県も久米氏の地位低下に伴い形骸化し、近隣の高市県に吸収されたことも考えられるかもしれません。
翻って、室町時代の文書『和州五郡神社神名帳大略注解』(通称『五郡神社記』)には式内社「久米御縣神社」について次のように記しています。
- 久米郷久米村川辺にある。
- 社家の久米直の曰く、三座の御祭神の第一は「神皇産霊尊」、第二は「天槵津大来目命」、第三は「大来目頭槌剣」である。
- 神武天皇の御代に大久目の「武部(モノノベ)」に畝傍山の西の川辺の地に住まわせその地を来目郷と名付けたが、綏靖天皇の御代に子の味耳命に勅使て来目県主と定め、このときに味耳命は幣倉を造り祖神を祀り、「武部」の帯するところの頭槌剣をも祀った。
上述のように『新撰姓氏録』には誤植かどうか定かでないながら「高御魂命の八世孫、味耳命の後」と「神魂命の八世孫、味日命の後」の二系統の久米氏が記されていますが、『五郡神社記』はこの二系統を混ぜて後者の「神皇産霊尊」を祖としつつ、その子孫は前者の「味耳命」としています。
そして祭神の中に「大来目頭槌剣」がありますが、これは記紀の天孫降臨の段において「天津久米命(天槵津大来目)」が備えていた武器の一つです。
この場面には他にも多くの武器が登場するものの、この剣のみが祀られた理由は不明。邪推するならば、偶々それのみが後世に伝えられていたのかもしれません。
一方、当社は江戸時代には「天神社」「天満宮」と呼ばれ、菅原道真公を祀る天神信仰の神社でした。
また隣接する真言宗御室派の寺院「霊禅山久米寺」の鎮守社としても祭祀されていました。
久米寺は伝承では聖徳太子の弟の来目皇子による開基とも、また『扶桑略記』や『今昔物語集』といった説話においては久米仙人による開基ともされている一方で、久米氏・久米部の氏寺として創建された可能性も考えられます。
少なくとも、境内から出土する瓦の様式から白鳳時代に遡る古代寺院であることが推定されます。
式内社「久米御縣神社」を当社に比定したのは江戸時代中期の『大和志』で、現在もこれを元に当社が式内社とされています。
ただ『五郡神社記』には川辺に鎮座していたとある(加えて、畝傍山の西とも言い難い)ことから、大正三年(1914年)に刊行された『大和志料』など当社への比定を疑う説もあります。
現在の御祭神は「高皇産霊命」「大来目命」「天櫛根命」の三柱となっています。
『五郡神社記』と異なり「神皇産霊尊」でなく「高皇産霊命」の方を久米氏の根本の祖とした上で、さらに「天櫛根命」なる神を祀っています。
天櫛根命については詳らかでありませんが、『日本書紀』に登場する天槵津大来目が誤って天櫛根命と大来目命の二柱に分割されてしまったものとする説があります。
上記のように当社への式内社の比定を疑う説もあるものの、神社衰退後に久米寺鎮守として当地へ遷座・再建した可能性もあり、現在は久米氏の氏神として広く認められています。
境内の様子
当社は久米町のほぼ中心、畝傍山や橿原神宮の南方にある久米寺の南に鎮座しています。
久米寺の仁王門から南へ伸びる道の東側に玉垣で囲われた当社境内があり、西向きの鳥居が建っています。
鳥居をくぐってすぐ右側(南側)に手水舎が建っています。導水設備はありません。
鳥居をくぐって正面奥に社殿が西向きに並んでいます。
拝殿は本瓦葺の平入切妻造に妻入切妻造の庇の付いたもの。
拝殿前に配置されている狛犬。砂岩製です。
拝殿後方に本殿が建っていますが、塀が高く殆ど見えません。
辛うじて銅板葺の一間社春日造(?)の真新しい本殿が見えます。
本殿の左右にも境内社が西向きに鎮座しており、案内板によれば左側(北側)の境内社には「誉田別命」「天児屋根命」「大日霊貴命」を、右側(南側)の境内社には「熊野神社」として「伊弉冉命」を祀っています。
当社背後の社叢は鬱蒼としています。
案内板によれば、社叢の中に「臥龍石」なる岩石があり、旱魃の際にこれを揺らせば降雨があると伝えられているようです。
当社境内の傍らに配置されている灯籠。
当社の旧称である「天神社」「天満宮」などと刻まれています。
久米寺
当社の北方に真言宗御室派の寺院「霊禅山久米寺」があります。本尊は薬師如来。
伝承では聖徳太子の弟の来目皇子による開基とも、また『扶桑略記』や『今昔物語集』などには久米仙人による開基ともされている一方で、久米氏・久米部の氏寺として創建された可能性も考えられます。
当寺の創建は古く、境内からは古い瓦などが出土しており、その様式から七世紀の白鳳時代には遡ることが推定されます。
本堂は本瓦葺の平入入母屋造で、寛文三年(1663年)に建立されたもの。
当寺の境内にある多宝塔は万治二年(1659年)に仁和寺より移築されたもので、桃山様式を残す貴重な建築として国指定重要文化財となっています。
当寺は「久米仙人」と呼ばれる伝説的な仙人にまつわる次のような話で知られています。
久米仙人は吉野の龍門寺にいた空を飛べる仙人だったが、ある日空を飛んでいると、川で洗濯している女のふくらはぎに見惚れ、それにより生じた煩悩で神通力を失い地上に落ちてしまった。久米仙人はその女を妻とし普通の俗人として暮らすようになったが、聖武天皇が平城京への遷都を行うにあたり久米仙人は人夫として雇われた。ある日「仙人なら神通力で材木を一気に運んだらどうだ」とからかわれ、一念発起した久米仙人は七日七晩祈り続けて神通力を回復し、材木を神通力で一気に運んでしまった。天皇はこれを喜び、久米仙人に土地を与え、これによって建てられたのが久米寺である。
この伝説は『扶桑略記』『今昔物語集』など平安時代以降の多くの説話集に取り上げられており、広く知られたものとなっています。
由緒
案内板
久米御縣神社
地図