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耳成山口神社 (奈良県橿原市木原町)

社号耳成山口神社
読みみみなしやまぐち
通称
旧呼称天神社、耳成山天神宮 等
鎮座地奈良県橿原市木原町
旧国郡大和國十市郡木原村
御祭神大山祇命、高皇産霊神
社格式内社、旧郷社
例祭10月13日

 

耳成山口神社の概要

奈良県橿原市木原町に鎮座する神社です。式内社「耳成山口神社」は当社とされている他、太田市町の「天満神社」、山之坊町の「山之坊山口神社」と共に式内社「目原坐高御魂神社」の論社ともなっています。

いずれの式内社であっても『延喜式』神名帳には大社に列せられ、古くは有力な神社だったようです。

 

『延喜式』神名帳の大和国・山城国には「○○山口(坐)神社」と称する神社が15社記載されており、その中の一つが式内社「耳成山口神社」です。

他の「○○山口(坐)神社」と同様、水源となる山間の地に山の神を祀り国家的に管理・祭祀したものと考えられます。

「○○山口(坐)神社」は全て『延喜式』臨時祭の祈雨神祭八十五座に加えられており、このことからも「○○山口(坐)神社」が水を司る神として朝廷から重視されたことが窺えます。

『延喜式』祝詞の祈年祭に飛鳥、石村、忍坂、長谷、畝火、耳無の各山口神社はその山の木材を伐り出し宮殿とした旨が記されており、「○○山口(坐)神社」は用材の産地として樹木を守護する神でもあったことが考えられます。

特に式内社「耳成山口神社」は耳成山を水源の地、また用材の産地としてその守護神たる山の神を祀ったものでしょう。

天平二年(730年)の『大和国正税帳』にも当社が記載され、「耳梨山口 神戸 稲48束6把 租4束7把 合53束3把 4束祭神に用う 残り49束3把」と記されています。

 

室町時代の文書『和州五郡神社神名帳大略注解』(通称『五郡神社記』)によれば、式内社「耳成山口神社」について「河辺郷南裏村にあり(俗に天神宮という)」と記しています。

南裏なる地名は江戸時代には廃れていたと思われますが、現在は式内社「耳成山口神社」は耳成山の山頂近くにある当社とされています。

しかし一般に「○○山口(坐)神社」は山の麓に鎮座しているため、山頂近くに鎮座する当社への式内社比定に疑問を呈する説も多く、大正三年(1914年)に刊行された『大和志料』は元々は耳成山の南麓にありその地が南裏村だったのであろうと推測しています。

さらに『大和志料』は江戸時代に成立した文書『本朝神社牒』を引き、これによれば耳成山には「天神社」と「耳成山天神宮」の二社があり、前者に「旧名耳成山口神社」との註があります。

これを受けて『大和志料』は単に「天神社」と称していたものが式内社「耳成山口神社」で、「耳成山天神宮」と称していたものが山上にある神社(つまり当社)ではないかとしています。

「天神社」と「耳成山天神宮」が耳成山のどの位置に所在していたかが不明な以上何とも言えないところですが、「天神社」が麓に鎮座しておりそれが式内社であろうとするのは、一つの推測としては成り立つところでしょう。

一方で大谷町に鎮座する「畝火山口神社」は昭和十五年(1940年)までは山頂に鎮座しており、これはいつの頃か麓に鎮座していたのが山頂に遷座したものだとも伝えられています。このことから、現在山頂に鎮座するからといって「○○山口(坐)神社」ではないと決めつけるのも尚早でしょう。

 

またこれに対し式内社「目原坐高御魂神社」を当社に比定する説もあり、これは式内社「目原坐高御魂神社」を上記の『本朝神社牒』のいう「耳成山天神宮」とするものです。

現在の当社の御祭神が「大山祇命」と共に「高皇産霊神」をも祀っているのはこれを示しているとも考えられ、旧称の「天神」も菅原道真公に由来するのでなく天津神の意であるとも考えられます。

 

一方、享保年間にあった境界訴訟の結果、耳成山は木原村領とされたため、山之坊村の宮司は耳成山の神霊を奉じてその子孫の宅に奉斎したといい、これが現在の山之坊町の「山之坊山口神社」であるとしています。

山之坊に遷座した神が式内社「目原坐高御魂神社」にあたるとしてその論社となっていますが、その仔細ははっきりしません。

具体的にいずれの神であるかの記録は無いようで、或いは「目原坐高御魂神社」でなく「耳成山口神社」の方の遷座・勧請だった可能性も否定できません。

『本朝神社牒』のいう「天神社」と「耳成山天神宮」の二社が現在どのようになっているのかは詳らかでなく、或いは当社に合祀されてそれぞれの二柱が祀られているのか、それとも現在の当社と「山之坊山口神社」に分かれてしまっているのか、はっきりしません。

いずれにせよかつて耳成山に「天神」と称する二社の神社があり、大和三山の一つに相応しく古くからの信仰の山であることは確かでしょう。

 

境内の様子

当社の鎮座する耳成山を南側から見た様子。側に近鉄大阪線の線路が通っており、電車の車内からもその美しい円錐形の山容はよく見えます。

 

当社への参道(登山道)はいくつかの経路があり、当記事では南側からの参道を紹介します。

南側の耳成山公園のすぐ側の麓に南西向きの鳥居が建っており、ここから登っていくことになります。

 

鳥居をくぐると山道となっており、右側に灯籠がずらっと並んでいます。

 

さらに登っていくと石段があり、その上に注連柱と玉垣が設けられており、ここが境内入口となります。

 

注連柱をくぐった様子。広い空間になっており、左側(西側)に石段が続いています。

社叢は深い森で、参拝時は朝だったとはいえかなり暗い境内となっています。

 

この空間の北東端に手水舎が建っています。

 

社殿へ至る石段の様子。

日の長い時期の朝は順光とはいえ、写真のコントラストがきつく黒潰れしてしまっています。このような神社は曇りの日の方が良いのかもしれません。

 

石段下の左右に配置されている狛犬。砂岩製です。

 

石段上に社殿が東向きに並んでいます。

拝殿は桟瓦葺の平入切妻造の割拝殿。案内板によれば寛延元年(1748年)の建立のようです。

 

割拝殿の左右の部屋。正面側は欄干、背後側は低い壁となっており開放的な構造で、長床のようなものとなっています。

 

割拝殿の天井裏には絵馬がびっしりと掲げられています。中には嘉永七年(1854年)奉納の算額も。

 

割拝殿の通路をくぐると正面に鳥居、そしてその奥の石垣上に拝所と玉垣が設けられています。

この奥に幣殿と本殿が並んでいます。

 

幣殿は銅板葺の妻入の建物で、手前側は入母屋造、奥側は切妻造の構造。

そしてその背後に建つ本殿は銅板葺の一間社春日造で朱が施されています。

案内板によれば本殿も拝殿と同じく寛延元年(1748年)の建立。

 

本社本殿手前の左側(南側)に「金毘羅神社」が東向きに鎮座。

妻入切妻造の覆屋の中に板葺の一間社春日造の社殿が納められています。

 

本社本殿手前の右側(北側)に東向きの三社の境内社が一つの覆屋に納められています。

覆屋は妻入切妻造で正面に庇が付いたもの。その手前側には朱鳥居が建っています。

社殿はいずれも檜皮葺の一間社流造で、左側(南側)のものだけ軒唐破風と千鳥破風が付いています。

これらの社名・祭神は不明ですが、覆屋内に狛狐が配置されていることから稲荷系の神社と思われます。

 

これら三社の境内社の手前側(東側)に「稲荷大神」と刻まれた石碑が建っています。

こちらは南向きであることから三社の境内社の社号標というわけでなく祭祀の対象ではないかと想像します。

 

「稲荷大神」の石碑の右側(東側)に「白龍大神」が南向きに鎮座。

銅板葺・平入切妻造の覆屋の中に板葺・一間社春日造の社殿が納められています。

 

耳成山

当社社殿の左奥(南西側)から耳成山の山頂へ至る道が伸びています。

耳成山の標高は139.6m。その頂上には三角点が建っていますが、厳密には最高地点よりやや低いところになるようです。頂上付近は笹の生い茂る何も無い空間。

 

頂上のやや下方はなだらかな空間で、ベンチなどの設置された憩いの場となっています。

ここからは南方の景色が開け、天香久山はじめ南方の山々を望むことができます。

 

藤原宮跡から眺めた耳成山。藤原宮の真北にあたる位置であり、当時の都における重要なランドマークだったことでしょう。

 

タマヨリ姫
耳成山って正直大和三山の中で一番地味だよね。
円錐形の美しい山で私は好きよ。ここも古くから信仰の場だったはずだわ。
トヨタマ姫

 

由緒

案内板

耳成山 山口神社由緒

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はじめに

本日は ようこそ 御参拝なされました。この神社は 耳成山の八合目にあります。耳成山は 大和三山の一つで 天香久山 畝火山と同じく 大和の名山であります。

分けてこの山は 二上山 若草山と同じく神代の噴火山でしたが やがてその活動を終え その後盆地の陥落などにより 元はもっと高かった その頭部がこのような笠形の端麗な山姿を見せ 古代から天神山と呼ばれ 仰がれて来ました。

標高は一三九.七メートル ところが山麓で既に六十メートルありますので 比高 凡そ八十メートルの登山です

さぞかし 楽々遊山でお越し頂いたのではと 拝察いたします。でも大変お疲れさまでした。

創建とその経緯

創建の年代は定かではありませんが 古く既に

※正倉院の天平税帳には 天平二年(730年)に時の帝より 神戸(租税を神社に納める農民)および稲を給わった とあり

※平安時代の延喜式神明帳(全国の神社一覧表)にも 大社として記載されていて帝より月次・新嘗の二つの祭典を仰せつかったとされている(岸根一正「奈良を学ぶ」)

※貞観元年(859年)九月 大八洲(日本全国)に大暴風雨があり その時帝よりの遣使が参拝して風雨鎮めの祈願をしたと記されている

※しかし その後何故か荒壊して 一時その所在すら判らなくなったが寛延元年(1748年)八月 耳成の郷中(村の人々)の氏子が 現在の神殿(春日造り)および拝殿の建立をして現在に至っております。

※なお 拝殿には 近世からの絵馬数点と算額も掛かり 信仰の歴史を描き残しています。

(注)算額とは 和算家が自身が発見した数学の問題や解法を神社などに奉納した絵馬のことです

そして境内には 稲荷社 白龍社 金毘羅宮 なども祀られています

ご祭神

ご祭神は 高御産巣日神と大山祗神の二柱です 最初 この世界に現れた神は天之御中主神でその次に現れた神がこの高御産巣日神です この神様は神社本庁に登録の神の数3132座の中で最高位の神で 私ども日本人の元祖です したがって 他の神のような担当神でなく 元の産の親神として 安産 商売の祈願 一切の病気は申すに及ばず 何事も心次第でお聞き届け下さる有難き神様です

大山祗神は 伊邪那岐 伊邪那美の二神が 国産みで生んだ 山の神・おおやまつみ(国つ神)で 山の恵みを司って 豊作豊漁をかなえて下さる神様です 現在この神社は周辺六町(新賀・木原・山之坊・石原田・常盤・葛本)の氏神として祀られています

ご参考

蛭石

神殿の前の榊の根元から 鼠の糞に似た珍しい土塊が出ます これを火であぶると ちょっとした伸縮運動が起こるので 蛭石と呼んでいます 指先で強く押すと ボロボロ細かくなって 昔から安産の妙薬と言われているそうです(金本朝一「大和三山の道」)

耳成池

耳無の 池し恨めし 吾妹子が来つつ潜かば 水は涸れなむ(万葉集)

(耳無の池は恨めしい あの娘がさ迷って来て水に入ったなら)水がかれて死ねないようにしてくれればよかったのに)

…耳無山の麓に住む蔓子という美女が 三人の男性から求婚され悩んだ末 池に投身することにより 男の間の争いを避けたという 残された三人はそれを悲しみ作った歌です

この耳無の池は 現在の耳成公園池ではなく山の西麓にありました(辰巳和余「こころの万葉風景」)

記念碑

明治四十一年に 陸軍特別大演習の時 明治天皇御野立所として山頂が使用され その記念碑が 山頂と南麓に建てられています

またのご参詣をお待ち申し上げますと共にご家族のご繁栄を祈願して

昭和四十八年十月 秋大祭に臨みて 竹村清一 記す

案内板

名勝 大和三山 耳成山

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平成十七年七月十四日 文部科学省指定

奈良盆地の南部に位置する、香具山(一五二・四m)、畝傍山(一九九・二m)、耳成山(一三九・七m)の三つの小高い山を総称し、大和三山と呼びます。香具山は桜井市の多武峰から北西に延びた尾根が浸食により切り離され小丘陵として残存したもので、畝傍山と耳成山は盆地から聳えるいわゆる死火山です。

三つの山は古来、有力氏族の祖神など、この地方に住み着いた神々が鎮まる地として神聖視され、その山中や麓に天香山神社、畝火山口坐神社、耳成山口神社などが祀られてきました。また、皇宮造営の好適地ともされ、特に藤原宮の造営に当たっては、東・西・北の三方にそれぞれ香具山・畝傍山・耳成山が位置する立地が、宮都を営むうえでの重要な条件にされたと考えられています。

大和三山を詠んだ和歌は多く、重要な歌枕として鑑賞上の地位を確立したほか、近世の地誌、案内記、紀行文などでも紹介され、万葉世界を代表する名所として、広く知れわたるようになりました。

耳成山は大和三山の中では最も低い山ですが、円錐状の整った秀麗な山容をしています。畝傍山と同じく瀬戸内火山帯に属する死火山で、浸食や盆地の陥没と堆積によって、現在の姿となりました。万葉集の中で耳成山が単独で詠まれる例はなく、他の二山とともに詠まれました。

耳成山を詠んだ万葉集

香具山は 畝傍ををしと 耳梨と
相あらそひき 神代より
かくにあるらし 古昔も
然にあれこそ うつせみも 嬬を
あらそふらしき

中大兄皇子(巻一の一三)

橿原市教育委員会 奈良森林管理事務所

 

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