社号 | 荒木神社 |
読み | あらき |
通称 | |
旧呼称 | 天神 等 |
鎮座地 | 奈良県五條市今井町 |
旧国郡 | 大和国宇智郡今井村 |
御祭神 | 荒木神 |
社格 | 式内社 |
例祭 | 10月22日、23日 |
式内社
荒木神社の概要
奈良県五條市今井町に鎮座する式内社です。
当社の創建・由緒は詳らかでありません。
当社の御祭神は「荒木神」ですが、これは記紀などの史料に登場する神でなく社名をそのまま神名としたものであり、当社の神格がどのようなものであったかは全くの不明です。
『新撰姓氏録』摂津国神別に津速魂命の三世孫、天児屋根命の後裔であるという「荒城朝臣」が登載されており、この中臣系の氏族が当地にも居住し祖神を祀ったとする説もあります。
一方、『万葉集』に詠まれた「浮田の杜」とは当社の社叢のことであるとする説が契沖によって唱えられて以来、これが通説となっています。
『万葉集』
かくしてや なほや守らむ 大荒木の 浮田の杜の 標ならなくに
(意味:こうしてやはり見守っているだけだろうか。大荒木の浮田の杜の注連縄でもないというのに)
注連縄に寄せて女性への思いを綴った歌ですが、この歌からは「浮田の杜」なるところには注連縄が張られ神の地として禁足地となっていたことがわかります。そしてその「浮田の杜」は「大荒木」、つまり当地にあったとするのが通説です。
当社の北西に「荒坂」と呼ばれる坂があり、また当社の裏山に「荒木山」の小字があるようで、当地が荒木と呼ばれていたことはほぼ確実と見て良いでしょう。
とはいえ現在の社叢は疎林といった趣であり、また背後の山はゴルフコースになっているため、禁足地といった雰囲気はありません。ただ、古くは極めて厳しく立入を制限していたものが時代と共に緩和されていった可能性はあります。
当地付近は藤原武智麻呂により創建された真言宗豊山派の古刹「学晶山栄山寺」や奈良時代にまで遡る金石文である「宇智川磨崖碑」があり、極めて古くから仏教文化が栄えたところです。
奈良時代の貴族らにとって当地付近はまさしく聖地と認識されたことを示すものであり、神道的な視点からも当地が注連縄を張らねばならぬほど厳かな神域だったことは十分に考えられることでしょう。
境内の様子
当社境内の200mほど南方に狛犬と灯籠が配置されている空間があり、ここが当社への参拝口であることを示しています。
ここに配置されている狛犬は花崗岩製でやや古めかしいもの。
狛犬・灯籠の配置されている空間から道を北へ進むと、丘の下に鎮座する当社の境内が見えてきます。朱に塗られた一の鳥居が目印。
一の鳥居は境内入口に南向きに建ち、鮮やかな朱塗りが施された両部鳥居となっています。
鳥居をくぐった様子。まっすぐ進んだ石段の上に社殿が建っているのが見えます。
石段の途中、踊り場になっているところに二の鳥居が南向きに建っています。
鳥居をくぐってすぐ左側(西側)に手水舎が建っています。
手水鉢は中央構造線の外帯に接する三波川変成帯に多く分布する結晶片岩を石材としています。まさしく中央構造線にある当地の地質をよく表したものでしょう。
二の鳥居の奥の石段途中に拝殿が建っており、桟瓦葺・平入切妻造(?)の割拝殿で、通路部分が石段となっています。
当社のように通路部分が石段となっている割拝殿は和歌山県で比較的よく見かけるものです。
通路は扉で閉ざされており、拝殿の背後の空間へは立ち入れませんので、背後の様子は扉の格子から覗き見ることしかできません。
拝殿後方には舞殿状の建築が建っており、「祝詞殿」との看板が添えられています。祝詞殿は近隣ではすぐ南方に鎮座する「宇智神社」にもあります。
祝詞殿の後方に石段があり、その上に本殿が建っているようですが全く見えません。手持ちの資料によれば一間社春日造のようです。
当社の社叢は『万葉集』に詠まれた「浮田の杜」とされ、古くからの禁足地だったと考えられますが、現在の当社の社叢は見える範囲では若い針葉樹ばかりの疎林となっており、全く禁足地の雰囲気はありません。
ただ案内板にはシイ、クロバイなどの常緑広葉樹林もあると記されており、特に社殿背後は比較的まとまった暖帯森となっているようです。
由緒
案内板
式内社『荒木神社』
案内板
浮田の杜傳承地
案内板
史跡 浮田杜伝承地
地図