社号 | 川上鹿塩神社 |
読み | かわかみかしお |
通称 | |
旧呼称 | 五社明神、大蔵明神、大倉明神 等 |
鎮座地 | 奈良県吉野郡吉野町樫尾 |
旧国郡 | 大和国吉野郡樫尾村 |
御祭神 | 天照皇大神、忍穗耳命、瓊瓊杵命 |
社格 | 式内社 |
例祭 | 11月22日 |
川上鹿塩神社の概要
奈良県吉野郡吉野町樫尾に鎮座する神社です。南国栖に鎮座する「大蔵神社」と共に式内社「川上鹿鹽神社」の論社となっています。
当社の創建・由緒は詳らかでありません。
記紀の応神天皇の段に、吉野に住んでいた国栖と呼ばれる人々が「白檮上(かしのふ)」に横長の臼を作り、それを用いて酒を造り応神天皇に振る舞い歌ったことが記されており、一説にこの「白檮上」とは当地であるとされています。
近隣の南国栖に鎮座する「浄見原神社」では国栖の人々が伝えたという歌舞「国栖奏」が行われているなど、この辺り一帯が国栖と呼ばれた人々の拠点だったことは間違いないでしょう。そして当地は臼を作れるような大きな樹木が生い茂り、また酒を造るのに良い水が得られたのかもしれません。
当社は樫尾地区と川上村西河地区とを短絡する「五社峠」に位置しており、当社は峠の神として道を往来する人々を守護するサイノカミ的な神格として信仰されていたのかもしれません。
一方で当社の御祭神は「天照皇大神」「忍穗耳命」「瓊瓊杵命」です。アマテラス直系の天孫の神々を祀っており、およそサイノカミとは思えないような面々です。
近世以前は「大蔵(倉)明神」と称した他、峠にも名付けられているように「五社明神」とも称していました。その名が示すように元々は五神を祀っていたと考えられ、その内の二神は南国栖に鎮座する「大蔵神社」へと遷されたとも伝えられています。
明治三十五年(1902年)には北麓の樫尾地区の「十二社神社」に遷座され、昭和十五年(1940年)まで続いていましたが、それ以降は旧社地である現在地に再び遷されています。
かつて当社の社殿は21年毎に式年遷宮が行われてきたといい、遷座の前年の明治三十四年(1901年)に行われたのが最後の遷宮となっています。
かつては吉野郡内のかなり広い地域を氏子としていたと伝えられますが、後には大滝・西河・樫尾の三ヶ村のみとなり、さらに後に社有林を分割し現在は樫尾地区のみを氏子としています。
さらに現在は樫尾地区と川上村西河地区を結ぶ五社トンネルが開通しており、五社峠はその機能を失い特に南方の道は荒れるに任せる状態となってしまっています。
峠の機能が失われた今となっては参拝する人も大幅に減ったことが想像され、今後も祭祀が継続されることを祈るほかありません。
境内の様子
当社は五社峠に鎮座しています。五社トンネルが開通した現在は五社峠は峠道としての機能を失っており、通行する人も殆どいません。
五社峠への道はわかりにくいですが、北麓の樫尾地区に鎮座する「十二社神社」の左側の道から山道を登って行くと辿り着くことができます。
五社峠への道は杉林に覆われています。
最初の分岐で右へ、次の分岐で左へと曲がる必要があり、やや迷いやすいので国土地理院発行の地図などを参照して進むことを強くオススメします。(Googleマップでは表示されないので注意)
道を進んでいくと最高所にあたる「五社峠」の地点に当社が鎮座しています。
道の左側、石垣上に当社の拝殿が西向きに建っています。トタン屋根の平入切妻造で、右側三間が拝所、左側二間が社務所(?)になっています。
拝殿の右側(南側)へ回ると拝殿後方を登って行く道が伸びており、その傍らに社号標が建っています。
そして拝殿の後方には神明鳥居が建っています。
拝殿後方の道を登っていくと、石垣の上に覆屋に納められた本殿が西向きに建っています。本殿は天津神を祀る神社らしく茅葺の神明造で明治三十四年(1901年)のもの。かつては21年毎に式年遷宮が行われていたと伝えられています。
拝殿からかなり登ったところに本殿が建っており、拝殿は遥拝所と呼ぶ方が実態に合っているかもしれません。
覆屋内、本社本殿の右側(南側)に「愛宕社」が鎮座しています。
社殿は春日見世棚造。
なお、国土地理院の地図には五社峠を越えて南側にも道が続いているように描かれていますが、現在は完全に荒れ果てており、よほどの上級者でなければ五社峠を抜けるのは不可能と見るべきでしょう。
やはり北側の十二社神社からのアクセスが無難です。
由緒
案内板
式内川上鹿塩神社の由来
地図
関係する寺社等
大蔵神社 (奈良県吉野郡吉野町南国栖)
社号 大蔵神社 読み おおくら 通称 旧呼称 鎮座地 奈良県吉野郡吉野町南国栖 旧国郡 大和国吉野郡南国栖村 御祭神 鹿葦津比売命、大倉姫命、石穗押別命 社格 式内社 例祭 9月1日 式内社 大和國吉 ...
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