社号 | 軽樹村坐神社 |
読み | かるこむらにます |
通称 | |
旧呼称 | 八幡宮 等 |
鎮座地 | 奈良県橿原市西池尻町 |
旧国郡 | 大和国高市郡池尻村 |
御祭神 | 誉田別命 |
社格 | 式内社、旧村社 |
例祭 | 10月14日 |
軽樹村坐神社の概要
奈良県橿原市西池尻町に鎮座する式内社です。『延喜式』神名帳には大社に列せられ、古くは有力な神社だったようです。
室町時代の文書である『和州五郡神社神名帳大略注解』(通称『五郡神社記』)によれば、当社について次のようなことが記されています。
- 御祭神は「彦坐命」と「白髪王」である。
- 川俣公の祖である彦坐命四世孫の白髪王が数代にわたって「川俣神社」に奉仕して功があり、成務天皇の御代に白髪王が軽地三千代を賜って軽我孫公となり、この氏族が軽樹村に社を建てて奉斎した。
- 創建年代は不明。
名に「軽」の付く氏族や人物は数多くいますが、その中でも当社を奉斎した氏族は「軽我孫(カルアビコ)氏」であるとしています。
軽我孫氏については『新撰姓氏録』に次の氏族が登載されています。
- 左京皇別「軽我孫」(治田連同氏 / 彦坐命の後 / 四世孫の白髪王に初めて阿比古の姓を賜う。成務天皇の御代に軽地三千代を賜う。これが軽我孫の姓を負う理由である)
- 山城国皇別「軽我孫公」(治田連同祖 / 彦今簀命の後)
大和国には登載が無く、登載が漏れているものと思われます。
また「川俣氏」も同じく彦坐命の後裔であることが『新撰姓氏録』に見えており、上の『五郡神社記』では軽我孫氏は川俣氏から出たことを示しています。
『五郡神社記』に記されるように軽我孫氏が当地に居住し当社を奉斎したのであれば、当社の御祭神を軽我孫氏の祖である「彦坐命」「白髪王」の二柱とすることは妥当でしょう。
また『万葉集』巻11-2656に、
「天(あま)飛ぶや 軽の社の 斎(いは)ひ槻(つき) 幾代まであらむ 隠(こも)り妻ぞも」
(意訳:軽の社にある御神木の槻の木のように、いつまでこうして籠り妻でいるのであろうか)
の歌があり、『万葉集』の編纂された頃(八世紀後半か)には名の知れた神社だったことが窺われます。
しかし時代が下ると当社は廃絶したようで、江戸時代中期の地誌『大和志』には池尻に属する軽子邑にあるとしつつ、今は廃絶しているとも記しています。当社の鎮座していた「軽樹村」もこの頃には衰微して池尻村の枝村となっていたようです。
その後にこの池尻村の軽子に八幡神が勧請され、この神社が式内社「軽樹村坐神社」として復興され明治以降に社号も「軽樹村坐神社」としたとされています。
現在も勧請された八幡神を継承して御祭神は「誉田別命」となっています。一説に八幡神(誉田別命=応神天皇)が勧請されたのは、同じく軽我孫と関係あるとされる橿原市大軽町(当社の東方2kmほど)に応神天皇の皇居「大軽豊明宮」があったとされているからとも言われています。
しかし八幡神は大和国はもちろん全国各地に普遍的に祀られる神であり、大それた理由は特に無かったのかもしれません。
いずれにせよ一度は断絶したものの、祭神を変えて復興したのが当社であることになります。
境内の様子
当社の鎮座する旧・高市郡池尻村は現在は橿原市西池尻町となっています。十市郡にも同名の池尻村があり、いずれも橿原市に編入されたことから、現在は前者を西池尻町、後者を東池尻町と区別しています。
この旧・高市郡池尻村に枝村として軽子村があったようで、恐らく当社の鎮座する高取川左岸側がそうだったのでしょう。
この高取川左岸側の集落の北西側に当社が立地しており、境内入口には南向きの鳥居が建っています。
鳥居をくぐって左側(西側)に小さな手水鉢が配置されています。
少し離れて蛇口が設置されているため、手水として使う場合はそこからホースで水を引くのでしょう。
鳥居をくぐって正面奥に社殿が南向きに並んでいます。
拝殿は銅板葺の平入切妻造で、妻入切妻造の向拝の付いたものですが、向拝部分は壁が設けられて部屋になっており、上から見ると「凸」の字形の建物となっています。
一般に凸型拝殿は後方に部屋を作り幣殿もしくは本殿を兼ねることが多いのですが、前方に部屋を作り拝所とする例は珍しいと思われます。
またこの拝殿の左側(西側)に庇が設けられ、一間分が拡張されています。
拝殿前に配置されている狛犬。砂岩製です。
拝殿後方の石垣上に玉垣に囲まれて銅板葺・一間社春日造の本殿が建っています。
地図