社号 | 東大谷日女命神社 |
読み | やまとおおたにひめみこと / ひがしおおたにひめみこと |
通称 | |
旧呼称 | 八幡宮 等 |
鎮座地 | 奈良県桜井市山田 |
旧国郡 | 大和国十市郡山田村 |
御祭神 | 東大谷姫命 |
社格 | 式内社、旧郷社 |
例祭 | 9月24日 |
東大谷日女命神社の概要
奈良県桜井市山田に鎮座する神社です。橿原市畝傍町に鎮座する同名の「東大谷日女命神社」と共に式内社「東大谷日女命神社」の論社となっています。
式内社「東大谷日女命神社」について、室町時代の文書『和州五郡神社神名帳大略注解』(通称『五郡神社記』)によれば次のように記しています。
- 当時の社号は「東姫神社」。
- 久米郷今井村宮森にある。
- 忌部氏の記録によれば、祭神は「朝日豊明姫命」であり、大倭盛次は稚日女尊の隠号であるという。
ここにいう久米郷今井村とは現在の橿原市今井町と考えられ、どういうわけか現在の論社二社とも全く異なる地となっています。
現在今井町の集落の南西に「春日神社」が鎮座していますが、これを式内社「東大谷日女命神社」とする説は現在のところありません。
また忌部氏の記録(いかなる資料かは不明)によれば祭神は「朝日豊明姫命」であるといい、この神は『三代実録』貞観十一年(869年)九月二十八日の条に見える国史現在社の神で、現在は天理市新泉町に鎮座する「大和神社」の境内社となっています。上記に見える「大倭盛次」は不明ですが、恐らく大和神社の神官ではないかと思われます。
一方、式内社「東大谷日女命神社」の祭神は「東大谷日女命」なる神であったことは社名から確実ですが、この神は記紀に登場せず詳細不明です。
「東」とはヤマトと読み、方角ではないとする説が有力です。単純に大和国における谷に鎮座する女神の意とも取れる一方、阿知使主を祖とする渡来系氏族「東漢氏」が奉斎したものとする説もあります。
現在の当社の御祭神も「東大谷姫命」としており、これは当社では「稚姫命」のこととしています。
式内社「東大谷日女命神社」を初めて当社に比定したのは江戸時代中期の地誌『大和志』と思われ、当時は「八幡」と呼ばれていました。『大和志』の比定以降、多くの地誌が当社を式内社としています。
『延喜式』神名帳には高市郡に記されている一方、江戸時代以前は当地は十市郡でした。当地は高市郡との境界に近く、郡境の変更があった可能性も考えられるものの、わざわざ十市郡の神社に比定するくらいなら相応の根拠がありそうなものです。
しかし当社が式内社とされた根拠は全く不明で、少なくとも現状は残念ながら当社が式内社であることを証するものを見出すことはできません。
とはいえ当社はその立地から蘇我倉山田石川麻呂を開基とする山田寺の鎮守社だったことが考えられ、古い神社である可能性は考えられるかもしれません。
境内の様子
山田地区の集落の南西、少し小高くなった森に当社は鎮座しています。
入口はわかりにくいため注意が必要。山田寺跡の西方端の小径をジグザグに進んでいくと、森の端に当社の灯籠と鳥居が東向きに建っています。
灯籠には当社の旧称である「八幡宮」と刻まれています。当社境内には同様に「八幡宮」と刻まれた灯籠が多数建っています。
鳥居をくぐった様子。鬱蒼とした森の中に石段があり、その上に社殿が建っているのが見えます。
石段を上るとやや広い空間となっており、正面奥に社殿が東向きに並んでいます。
拝殿は桟瓦葺・妻入入母屋造で、奈良盆地南部では珍しい形式(一般的には割拝殿が多い)。梁行(正面)三間、桁行(奥行)二間の建築で、京都に多い舞殿風拝殿に壁と扉が設けられたものといった印象です。
拝殿前に配置されている狛犬。砂岩製です。
拝殿後方、石垣上の玉垣奥に本殿と境内社が建っています。
本殿は銅板葺の三間社流造。
本社本殿の左側(南側)には「八阪神社」が東向きに鎮座。御祭神は「武速素戔嗚命」。
社殿は銅板葺の春日見世棚造。
本社本殿の右側(北側)に「厳島神社」が東向きに鎮座。御祭神は「市杵島姫命」。
社殿は同じく銅板葺の春日見世棚造。
本社拝殿の右側(北側)に古いながらも美しい灯籠が覆屋に納められています。
行長と名乗る石工の作で、黒滝村にある鳳閣寺の石造宝塔の作者と同一人物と思われ、伊派のほぼ最後の石工であると考えられます。
竿は摩耗して判読が難しいものの永和元年(1375年)の銘があるといい、貴重な作例として国指定重要文化財となっています。
案内板
東大谷日女神社石造燈籠
山田寺跡
当社の東方に隣接して古代寺院「山田寺」の跡があります。
山田寺は蘇我倉山田石川麻呂による開基で、この人物は蘇我氏の一族でありながら蘇我氏本家と対立し、乙巳の変で中大兄皇子らに加担したものの、その10年後に讒言により造営途中だったこの山田寺で自害することになります。
その後、天武天皇の御代に完成したと見られ、石川麻呂の死後も造営が続けられたのは天武天皇の后である菟野皇女(持統天皇)が石川麻呂の孫にあたることによるとも言われています。
中世以降は興福寺の介入により大きく荒廃し、江戸時代には辛うじて法灯を継いでいる状態だったとされていますが、明治の廃仏毀釈により廃寺となってしまいます。
廃寺後すぐの明治二十五年(1892年)には法相宗の寺院として再興されたものの、現在は本瓦葺・平入入母屋造の小さな観音堂が建つのみとなっています。
地図
関係する寺社等
東大谷日女命神社 (奈良県橿原市畝傍町)
社号 東大谷日女命神社 読み ひがしおおたにひめみこと 通称 旧呼称 熊野権現 等 鎮座地 奈良県橿原市畝傍町 旧国郡 大和国高市郡畝傍村 御祭神 姫蹈鞴五十鈴姫命 社格 式内社 例祭 10月8日 式 ...
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