社号 | 鳥坂神社 |
読み | とりや |
通称 | |
旧呼称 | 天照太神 等 |
鎮座地 | 奈良県橿原市鳥屋町 |
旧国郡 | 大和国高市郡鳥屋村 |
御祭神 | 豊受比咩命 |
社格 | 式内社、旧村社 |
例祭 | 10月16日 |
鳥坂神社の概要
奈良県橿原市鳥屋町に鎮座する式内社です。
室町時代の文書『和州五郡神社神名帳大略注解』(通称『五郡神社記』)は式内社「鳥坂神社」について次のように記しています。
- 当時は「大伴神社」と称した。
- 久米郷牟佐衝鳥坂にある。
- 社家の大伴連が説いて言うには、築鳥坂(ツキサカ)神社二座は左に高皇産霊尊を、右に天押日命を祀る。神武天皇が道臣命を讃えて宅地を賜い、築坂邑に住み特に寵愛を受けた。このとき道臣命は神殿を築坂に造営して先祖の神を祀り、築坂神社と名付けた。その後、この坂に多くの桃花が生えたので桃花坂というが、旧号を負って「桃花」と書いて「ツキ」と読むのである。
これは『日本書紀』神武天皇二年二月二日の条に、神武天皇が神武東遷で活躍した忠臣に恩賞を与えた際、道臣命が宅地を賜って築坂邑み特に寵愛を受けたとあることを受けたものとなっています。
そしてこれを元に、道臣命が築坂に祖神を祀ったのが当社であるとしています。
道臣命は軍事氏族である大伴氏の祖の一人であり、その子孫たる大伴氏が代々当社を奉斎していたことが考えられます。
築坂(ツキサカ)とは当地周辺を指し、倭彦命の墓「身狭桃花鳥坂墓(ムサノツキサカノハカ)」や宣化天皇陵の「身狭桃花鳥坂上陵(ムサノツキサカノエノミササギ)」に見られるように「桃花鳥坂」とも表記されました。
『五郡神社記』はこの表記についてここに桃花が生えたためとしていますが、大正三年(1914)年に刊行された地誌『大和志料』が指摘するように桃花鳥は朱鷺の意とするのが妥当でしょう。朱鷺は桃花に似た色をしているからその表記が生まれ、またかつては朱鷺をツキと呼んだとものと考えられます。
当社に関しても「桃花鳥坂」だったのがいつの頃か「桃花」が脱落し「鳥坂」になったものと思われます。
一方、当社は江戸時代には「天照太神」と呼ばれ、その名の通り「天照大神」を祀る伊勢系の神社となっていました。
現在はどういうわけか「豊受比咩命」を御祭神としており、内宮と外宮の神が入れ替わった形となっています。この経緯ははっきりしません。
天照大神にしても伊勢信仰が盛んになるに伴いいつの頃か勧請され本社の神とされたものと推測されます。
本来の神は『五郡神社記』の記すように大伴氏の祖である「高皇産霊尊」「天押日命」の二柱だったとするのが妥当でしょう。
境内の様子
当社は鳥屋町の東側、貝吹山から北へ伸びるちょっとした尾根の先端にあたる地に鎮座しています。
道がややわかりにくいものの、入口は境内南側にあり、南向きの鳥居が建っています。
鳥居をくぐって右側(東側)に手水舎があります。
参道を奥(北側)へ進むと左側(西側)に社殿が東向きに並んでいます。
拝殿は桟瓦葺の平入切妻造。
拝殿後方に建つ本殿は木々に覆われており見ることはできません。資料によれば本殿は銅板葺の一間社春日造のようです。
拝殿前に配置されている狛犬。花崗岩製のやや古そうなものです。
拝殿の扉の上には変わった形の注連縄が掲げられていました。
右側が太く左側が細い三束の縄を捩じって左右でまとめ、海老のように大きく反らしています。
何か曰くありげですが詳細不明。
本社社殿の右側(北側)に三基の石碑が建っています。
この内、左側(南側)にある一基が辛うじて「若宮大明神」と刻まれているのが見えることから、当社の境内社であると思われます。
他の二基は文字が摩耗して読めず不明。
境内の北東側には玉垣が設けられ、木が植えられています。
また当社は尾根上に鎮座している上、東側には低い木々しか無いため、境内からは東側の低地を一望することができます。
地図