社号 | 厳島神社 |
読み | いつくしま |
通称 | |
旧呼称 | 粟穂弁財天社 等 |
鎮座地 | 京都府京都市左京区静市市原町 |
旧国郡 | 山城国愛宕郡市原村 |
御祭神 | 市杵嶋姫命 |
社格 | 旧村社、式内論社 |
例祭 | 11月3日 |
式内社
厳島神社の概要
京都府京都市左京区静市市原町に鎮座する神社です。式内社「鴨岡太神社」を当社に比定する説があります。
当社については江戸時代中期の地誌『山州名跡志』に詳述されており、それによれば次のように記されています。
- 社号は「粟穂弁財天社」。
- 野中村内の路傍西に鎮座している。
- 拝殿・本殿は東向きである。
- 空海の作であるという女像を祀る。
- 伝承によれば、一人の老人の夢にお告げがあり、美女が枕元に現れて言うには「我はこの川上に住む弁財天である。家は西方にあって心は東南に通う。鞍馬寺の毘沙門天と誓約があり、多聞天の近隣に居を定め王城を鎮護したいと思う。この地はそれに良い地であり、我はここに住みたいと思うので来たのである。我を留めるならば福を成すであろう」と。目が覚めて奇妙に思い夜明けに川辺へ出てみると六寸の白蛇が粟の穂の上に坐していた。村中で相談してまず仮殿に移し、その後社殿を造営した。よって客人は「粟穂御前」と呼んだ。これは永享二年九月九日の夜のことである。
このように弁財天のお告げにより永享二年(1430年)に創建したのが当社であるとしています。
ただ、市原村でなく野中村とあるのは、これ以降に遷座したのか、それとも何かの手違いなのかはっきりしません。
また『山州名跡志』には東向きとあるものの現在は南向きであり、少なくとも現在は当時とは異なる形で祭祀が行われているようです。
上述のように式内社「鴨岡太神社」を当社に比定する説がありますが、これは当地をかつて「岡本郷」と呼んだらしいことに基づくものです。
当社の東方100mほど、同じく市原地区に鎮座する「大神宮社」も同じ理由で式内論社となっています。
ただ、当社は『山州名跡志』に従う限りでは『延喜式』の編纂からかなり後の時代の創建となり、式内社としては相応しくないと言わざるを得ません。
とはいえ本来は式内社だったのが後に勧請された弁財天を本社としたとも考えられ、可能性は全く無いわけではありません。
しかしやはり現状では当社を式内社とする積極的な根拠は無いのが正直なところでしょう。
境内の様子
当社は市原地区のほぼ中心、叡山電鉄市原駅の西方に鎮座しています。
道路に面して境内入口となる朱鳥居が東向きに建っています。
鳥居をくぐって右側(北側)に手水舎が建っています。
鳥居から石畳に沿って進み、右側(北側)へ曲がると社殿が南向きに建っています。
社殿は銅板葺の流造状の建物が一棟あるのみ。
前方は床張りで左右に壁が設けられた部屋(外陣?)となっており、奥部に神を祀る部屋(内陣?)があります。拝殿と本殿が一体化したものと言えるかもしれません。
『山州名跡志』には空海作であると伝える女像を祀るとあるものの、現在もそうなのかは不明。
この建物の前方の部屋には多数の絵馬が掲げられています。
同じく市原地区に鎮座する「大神宮社」の一の鳥居から西方を見た様子。
叡山電鉄の線路越しに当社の鳥居が見え、両社の参道は向かい合っていることがわかります。
地図
関係する寺社等
大神宮社 (京都府京都市左京区静市市原町)
社号 大神宮社 読み だいじんぐう 通称 旧呼称 神明宮 等 鎮座地 京都府京都市左京区静市市原町 旧国郡 山城国愛宕郡市原村 御祭神 天照皇大神 社格 式内論社 例祭 11月3日 式内社 山城國愛宕 ...
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