社号 | 府守神社 |
読み | ふもり |
通称 | 聖天宮 等 |
旧呼称 | 歓喜天社 等 |
鎮座地 | 和歌山県和歌山市府中 |
旧国郡 | 紀伊国名草郡府中村 |
御祭神 | 倭武命 |
社格 | 旧村社、紀伊国総社(?) |
例祭 | 10月5日 |
府守神社の概要
和歌山県和歌山市府中に鎮座する神社です。紀伊国の国内神名帳『紀伊国神名帳』の名草郡地祇に見える「従四位上 府守神」は当社とされています。
江戸時代後期の地誌『紀伊続風土記』は、『三代実録』貞観十七年(875年)十月十日条に見える「府中神」は当社であり国史現在社としています。しかし当該条の「府中神」は紀伊国でなく石見国の神で、現在島根県浜田市下府町に鎮座する「伊甘神社」に合祀されている神社に比定されており、当社ではありません。
当該条では「府中神」の次に「紀伊国(略)三前神」が記されているので『紀伊続風土記』の著者が誤って混同したものでしょう。
当社の創建・由緒は詳らかでありませんが、当社の西方から南方にかけて所在したと推定されている紀伊国府の守護神として祀られたのが当社と考えられます。
同様に国府の守護神として創建されたと思しき神社は、上記の石見国の「府中神」の他、式内社では大阪府和泉市尾井町に鎮座する「旧府神社」もそうであるとする説があります(ただし「旧府神社」は無関係とする説も有力)。
また、国府の近隣に所在したことから当社を紀伊国の総社とする説もあります。ただ、南東の北地区にかつて「総社神社」があり(現在は「大屋都姫神社」(宇田森に鎮座)に合祀)、そちらが総社だったとする説も有力です。
当社は江戸時代には「歓喜天社」と称し、現在も「聖天宮」と称されることがあるように、「歓喜天」を祀る神社とされていました。いつの頃か僧によって祀られたのが主祭神になったものと考えられます。
当社の社号は明治年間に現在のものに改称しました。御祭神も「倭武(ヤマトタケル)命」とされたものの、この神を祀るようになった経緯ははっきりしません。
後世には元来の信仰が忘れられたとはいえ、かつて当地が紀伊国の政治的中心地だったことを示す神社となっています。
境内の様子
当社は府中地区の東端に鎮座しています。
道路に面して境内入口があり、鳥居が南向きに建っています。
鳥居前に配置されている狛犬。花崗岩製です。
鳥居をくぐった様子。まっすぐ伸びた参道に沿って多くの桜の木が植えられています。春頃にはきっと綺麗に咲き乱れることでしょう。
参道の奥に広い空間があります。
参拝時は盆の直後だったため盆踊りの櫓が組まれていました。
この空間の左側(西側)に手水舎が建っています。
この空間の正面奥に社殿が南向きに並んでいます。
拝殿は桟瓦葺の妻入切妻造で、壁や床が無く、後方の中門と一体化した簡素なもの。扁額には「聖天宮」と揮毫されています。
この拝殿の後方、塀に囲まれて本殿が建ってるものの殆ど見ることができません。和歌山県神社庁HPによれば瓦葺の流造のようです。
拝殿の右側(東側)に境内社が南向きに鎮座。和歌山県神社庁HPには境内社として「午神社」が記されており、これが恐らくそうなのでしょう。
社殿はRC造で、鉄板葺の妻入切妻造。
境内の隅には二体の地蔵石仏が安置されていました。
地図