社号 | 伊勢部柿本神社 |
読み | いせべかきもと |
通称 | |
旧呼称 | 里神社、妙見高里神社 等 |
鎮座地 | 和歌山県海南市日方 |
旧国郡 | 紀伊国名草郡日方浦 |
御祭神 | 天照皇大神 |
社格 | |
例祭 | 10月11日 |
伊勢部柿本神社の概要
和歌山県海南市日方に鎮座する神社です。
紀伊国の国内神名帳『紀伊国神名帳』の名草郡地祇に見える「従四位上 伊勢部柿本神」は当社とされていますが、後述のように比定の根拠ははっきりしません。
当社は「元伊勢」の一つであると伝えられており、江戸時代以降の複数の文献でもこれを支持しています。
元伊勢とは、「伊勢神宮」が現在地に鎮座する以前に一時的に「天照大神」を祀っていたとされる地のことです。
崇神天皇の御代、天皇が宮中に天照大神を祀るのを畏れたために天照大神の鎮まるべき地を豊鍬入姫(トヨスキイリヒメ)命に求めさせ、途中倭姫(ヤマトヒメ)命が代わって探し求め、各地を転々としつつ最終的に現在の伊勢神宮の地に落ち着くことになります。
その様子は『日本書紀』に簡単に記され、『皇太神宮儀式帳』『倭姫命世記』といった後世の史料に詳細に記されています。
鎌倉時代に著された『倭姫命世記』によれば、豊鍬入姫命が七番目に天照大神を祀った地を吉備の「名方浜宮」といい、ここに四年間留まったことが記されています。
ここにいう「吉備」とは「吉備国」つまり現在の岡山県や広島県東部を指すと考えるのが一般的ですが、江戸時代後期の地誌『紀伊続風土記』『紀伊国名所図会』や伴信友の著した『倭姫命世記考』などは「吉備」とは吉備国でなく紀伊国にある地名であるとし、当社を「名方浜宮」であるとしています。
『倭名類聚抄』には紀伊国有田郡に「吉備郷」が見え、これは概ね有田川市の旧・吉備町(吉備町自体は昭和三十年(1955年)の発足で古い地名でない)にあたると考えられます。
『紀伊続風土記』によればこの「吉備」と呼ばれる範囲は古くはより広かったとし、有田郡でなく名草郡だった当地も「吉備」に含まれていたと推測しています。
そして『倭姫命世記』では「名方浜宮」の前に天照大神を祀ったのが紀伊国の「奈久佐浜宮」で、これが現在の和歌山市毛見に鎮座する「浜宮」(当社の西方約2.5km)とされていることから、巡幸の経路を見ても「名方浜宮」を吉備国でなく紀伊国に求めるのが妥当であろうとしています。
当社の旧地は南に隣接する名高地区にあった「藺引ノ森(イビキノモリ)」と呼ばれる海浜の地だったと伝えられています。
「名高(ナタカ)」は古くは「中方」などと表記されて「ナカタ」と呼ばれていたようで、これが「名方浜宮」を当地に求める論拠の一つとなっています。
『紀伊続風土記』によれば天照大神の神霊が「名方浜宮」から遷った後にもその地に祠を建てて神を祀ったものの、その地は海浜故に津波等の被害があったために山の中腹にあたる現在地に遷座したと推測しています。
「藺引ノ森」の地名は藺草が生えていたことによるもので、この藺草を採って「日前神宮・國懸神宮」(和歌山市秋月に鎮座)の神事で用いる筵が織られるなど同神宮と関係が深かったようです。
上記の和歌山市毛見の「浜宮」でも元伊勢としての天照大神が「日前神宮・國懸神宮」の神と共に祀られたと伝えられ、また同神宮の神が天照大神と同体であり、伊勢神宮「内宮」の御神体「八咫鏡」を鋳造する前に鋳造した鏡を御神体としていることから、「日前神宮・國懸神宮」が王権祭祀に関わる神社で伊勢神宮とも関係が深かったことが考えられます。
このため、「日前神宮・國懸神宮」と関係のある「藺引ノ森」およびその祭祀を継承する当社が元伊勢であるとすることも一定の説得力を伴うものとなっています。
ただ、「吉備」の範囲を拡張することにやや無理があること、『倭姫命世記』自体が伊勢神道の影響下で成立したものであり作為性が認められることなどから、積極的に当社を「元伊勢」であると断定できないのも現状でしょう。
一方、上記の通り当社は『紀伊国神名帳』に見える「伊勢部柿本神」とされています。
ただ当社は江戸時代には「里神社」「妙見高里神社」などと呼ばれ、『紀伊続風土記』『紀伊国名所図会』などの地誌には「伊勢部柿本神」への言及がなく、当社が比定された経緯は不明です。
推測するならば、「伊勢部」が伊勢神宮に通じることから元伊勢伝承のある当社とされたことが一つの理由だったのかもしれません。ただ、同様に「伊勢部」を名乗る神社として奈良県橿原市和田町に鎮座する「馬立伊勢部田中神社」があるものの、伊勢神宮との関係ははっきりしません。
また、当社の近隣の大野中地区に和珥氏の後裔「春日氏」が奉斎した「春日神社」があり、さらに同社に合祀されている神社に和珥氏の一族「粟田氏」が奉斎した「粟田神社」があったことも理由の一つと思われます。
和珥氏は孝昭天皇の皇子「天押帯日子命」を祖とする氏族です。後に春日氏・大宅氏・粟田氏・小野氏・壱比韋氏など16氏族に分かれた一大氏族で、柿本氏もその一つです。
「春日神社」や「粟田神社」の存在が示すように当地付近に和珥氏の一族が居住していたらしいことから、「伊勢部柿本神」もまた和珥氏の一族である柿本氏が奉斎した神社として、この一帯に所在する当社に比定されたのかもしれません。
ただ、そうすると『紀伊国神名帳』に「春日大神」が天神とあるのに対し「伊勢部柿本神」が地祇とあるのは不審です。共に和珥氏が祖を奉斎したものだったとすれば天神と地祇に分かれるはずはありません。
また元伊勢として天照大神を祀るとしても、地祇つまり国津神とあるのも大いに疑問となるところです。
このように当社の歴史は不明な点もあるものの、近世以降は廻船業など海運の盛んだった日方浦の鎮守として大いに信仰され、航海安全と商売繁盛の神として大いに信仰されました。
彼ら廻船業者が奉納した絵馬や灯籠などが現在も残っており、これらは当地の信仰や産業を知ることが出来る貴重な資料として和歌山県指定文化財となっています。
日方や名高の海浜は戦後には臨海工業基地となり景色や産業構造が様変わりしたものの、現在も往時の信仰を受け継いで交通安全の神として崇敬を集めています。
境内の様子
当社は日方地区の集落の北側、城ヶ峰から南に伸びる尾根の南西中腹に鎮座しています。
JR紀勢本線の高架をくぐったところに境内入口があり、鳥居が西向きに建っています。
鳥居をくぐってすぐの空間は広い駐車場となっています。
この駐車場の奥に丘の中腹へ上る石段が伸びています。やや長い石段なので石段下に賽銭箱が設置されており、足腰の弱い方でも遥拝できるようになっています。
また、記録を失念しましたが、石段下の左側(北側)に手水舎があります。
石段手前に配置されている狛犬。花崗岩製です。
石段を上っていくと途中に享和三年(1803年)に奉納された灯籠が配置されています。
この灯籠は日方浦の廻船業者が奉納したもので、四艘の船名と取引先が刻まれており、当地の信仰と産業の様子を伝える貴重なものとして和歌山県指定文化財となっています。
案内板
さらに上っていくと、石段上の狭い空間に社殿が西向きに並んでいます。
拝殿は瓦葺の平入入母屋造に大きな唐破風の向拝の付いたもの。その狭さ故に全体像を記録するのは不可能です。
また拝殿後方に建つ本殿も見ることができません。和歌山県神社庁HPによれば銅板葺の流造のようです。
本社拝殿の左側(北西側)に道が伸びており、これに沿って境内社が鎮座しています。
この道を進むと、まず右側(北東側)に五社の境内社が南西向きに鎮座しています。
これらの内、最も手前側(南東側)に独立した桟瓦葺の妻入切妻造の覆屋があり、ここに「若宮八幡宮」が鎮座してます。
その左側(北西側)には桟瓦葺の平入切妻造の覆屋に四社の神社が納められており、手前側(南東側)から順に次の神社が鎮座しています。
- 「妙見神社」
- 「金刀比羅神社」
- 「秋葉神社」
- 「住吉神社」
さらに道を進むと右側(北東側)に桟瓦葺の平入切妻造の覆屋が南西向きに建ち、ここに「稲荷神社」(右側)と「山王神社」(左側)の二社が納められています。
さらに道を進むと最奥部に「蛭子神社」が南向きに鎮座。
社殿は桟瓦葺の妻入入母屋造に向拝の付いたもので、仏教建築のような趣が感じられます。
蛭子神社から下段へ下られるようになっており、参道の石段途中へと戻って来られる構造になっています。
この道に沿って桟瓦葺の入母屋造の神楽殿が建っており、桁三間、奥行き二間の神楽殿としては大規模な建物となっています。
参拝時には浦島太郎の大きな張り子が展示してありました。
地図
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