社号 | 高生神社 |
読み | たかばね |
通称 | |
旧呼称 | |
鎮座地 | 奈良県高市郡高取町清水谷 |
旧国郡 | 大和国高市郡清水谷村 |
御祭神 | 高皇産霊命 |
社格 | 旧村社 |
例祭 |
高生神社の概要
奈良県高市郡高取町清水谷に鎮座する神社です。
当社は式内社でありませんが、『三代実録』貞観九年(867年)四月二十三日条に「大和国正六位上高生神従五位下」と見える「高生神」は当社に比定され、国史現在社です。
当社の創建・由緒は詳らかでありません。
元は高取山の山上に鎮座していたといい、大正三年刊行の地誌『大和志料』によれば天正年間(1573年~1592年)に、境内掲出の貼紙によれば1736年に現在地に遷座したとしています。
東方に聳える高取山から遷座してきたことは疑いないとしても、その時期は錯綜があるようです。ただ貼紙には「兵乱の為」とあるので1736年とあるのは手違いの可能性が高いでしょう。
現在の御祭神は「高皇産霊命」。『大和志料』には祭神不詳とあり、それ以降に社名から祭神が定められたものと思われます。
その他当社についての記録は極めて乏しく、当社の来歴を明らかにするのは困難になっています。
境内の様子
当社への道は目印となるものがなく、かなりわかりにくくなっています。清水谷地区の集落の内、壺阪川右岸側の東端となる辺りにこのような分岐路があり、ここを進んでいきます。
ここを進んでいくと石段があり、当社の社号標が見えてきます。
さらに石段を上っていくと一の鳥居が北西向きに建っています。
一の鳥居の両脇に配置されている狛犬。
一の鳥居をくぐると参道は左側(北東側)へ曲がり、再び石段が続きます。
この石段の上に二の鳥居が南西向きに建っています。二の鳥居の左側に見える建物は休憩所。
二の鳥居をくぐると参道は再び右側(南東側)へ曲がり、さらに石段が続きます。
この石段の途中に三の鳥居が北西向きに建っています。
三の鳥居の左側(北東側)の傍らに手水鉢が置かれていました。その両側には石柱があり、かつては屋根が設けられていたのかもしれません。
この石段を上りきると右側(南西側)に真新しい手水舎が建っています。
かなり長い石段だったこともあり、傍らにはベンチも備え付けられています。
石段上は広く平らな空間となっています。
この空間の奥に二段構成になった石垣があり、その上に本殿や境内社が建っています。
石垣下側の左右に配置されている狛犬。
石垣の一段目の石段左右にも狛犬が配置されています。
石垣上、石段を上ってすぐ奥に本社の本殿が北西向きに建っています。
本社は「高波根神社」とも称し、「高皇産霊命」を祀っています。
本殿は銅板葺の一間社春日造。
本社本殿のすぐ右側(南西側)に隣接して「清水神社」が鎮座。御祭神は「瀬織津姫命」。
社殿は銅板葺の一間社春日造。
明治四十二年(1909年)に神社合祀により遷座したといい、恐らく当地の地名「清水谷」に関する水神として祀られていたのではと思われます。
本社本殿の手前左側(北側)に一つの基壇に二社の境内社が南西向きに鎮座。
これらの内、左側が「宮形神社」(御祭神「倉稲魂神」)、右側が「天満神社」(御祭神「菅原道真公」)です。
社殿は宮形神社が銅板葺の春日見世棚造、天満神社が銅板葺の流見世棚造。
いずれも明治四十二年(1909年)に神社合祀により遷座したもの。
本社本殿の左側(北東側)に杉の木が生えています。 これも神社とされており、「天国三輪神社」と称し、「大物主命」を祀っています。 |
石垣上の本社本殿前から境内を見た様子。広く平らな空間であることがわかります。
わかりにくい場所にある神社ながら、非常によく整備された境内となっています。
本社本殿の建つ石垣に相対するように、この空間の北西端に桟瓦葺の平入入母屋造の建物があり、これは恐らく拝殿でしょう。
奈良県の神社では参拝客の動線から外れた崖の上に拝殿を配置する例が見られ、当社もその一例になります。
手水舎の左側(南東側)に境内社が北東向きに鎮座しています。社名・祭神は不明。
社殿は銅板葺の流見世棚造。社殿前に蝋燭台が置かれているのが特徴。
当社周辺、清水谷地区の集落の様子。古い家屋も比較的よく残っています。
由緒
貼紙
地図