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御形神社 (兵庫県宍粟市一宮町森添)

社号御形神社
読みみかた
通称
旧呼称高見大明神 等
鎮座地兵庫県宍粟市一宮町森添
旧国郡播磨国宍粟郡森添村
御祭神葦原志許男神、高皇産靈神、素戔嗚神、月夜見神、天日槍神
社格式内社、旧県社
例祭10月10日

 

御形神社の概要

兵庫県宍粟市一宮町森添に鎮座する式内社です。

当社の創建年代は詳らかでないものの、かつては南東2kmほどの地に聳える高峰山に鎮座していたといい、宝亀三年(772年)二月一日に現在地へ遷ったと伝えられています。

遷座の際、御形の山麓の地に三本の杉の木が一夜にして生え、村人らが皆同じ夢を見たことから、これを神の遷座の意思を示す奇瑞と捉えて森を開き、杉の木を中心に社殿を造営したと伝えられています。この杉の一本が現在も本殿後方に残っており「夜の間杉」と呼ばれています。

また当社の神の降臨の際、そこに生えていた三本の柚の木の棘で目を傷めたのでこの地では柚の木を植えないとも言われています。

 

一方、『播磨国風土記』に記載されている「御方里」は当地とされており、その記事は次のように記しています。

『播磨国風土記』(大意)

御方里。御形と名付けたのは次の通りである。

葦原志許乎命が天日槍命と黒土志爾嵩(クロツチノシニタケ)に至り、ここでそれぞれ黒葛(つづら)を三條(みかた)足につけて投げた。このとき葦原志許乎命の黒葛の一條は但馬国気多郡に、一條は夜夫郡(=養父郡)に、そして一條はこの村に落ちた。この故に三條と名付けた。天日槍命の黒葛は全て但馬国に落ちたので但馬国の伊都志(=出石)に鎮座した。

また一説に、大神が形見として杖をこの村に植えたので御形という。

『播磨国風土記』の西部地域、特に揖保川流域では、在地の神である「葦原志許乎(醜男)命」もしくは「伊和大神」と外来の神である「天日槍命」が国占めを行い激しく争ったことが随所に見えます。

上記の御方里の記事はその決着となる名場面で、葦原志許乎命が勝利し天日槍命を但馬国へ追いやることに成功したことを描いています。

その際に黒葛を三條(みかた)足につけて投げて勝負したことからこの地をミカタと称するようになったといい、これが行われた黒土志爾嵩とは諸説あるものの当社の旧地である高峰山に比定する説もあります。

なお、『日本書紀』では天日槍命が但馬国に至った経緯について、当初は播磨国の宍粟邑にいたところ、新羅の王子である天日槍命は日本へ帰属したいと朝廷に願い出て八つの宝物を献上し、宍粟邑と淡路島出浅邑の居住を許されたものの、更なる適地を求めて近江国、若狭国を経て但馬国へ至ったことが記されています。

当地を含む播磨国宍粟郡は但馬国に落ち着くまでの天日槍命の重要な拠点だったと思われ、それに伴う土着の勢力との軋轢が神話の記憶として『播磨国風土記』に採録されたものと推測されます。

天日槍命は高度な製鉄の技術を持っていたことが指摘されており、播磨国宍粟郡に拠点を置いていたのも宍粟郡内の鉄資源を確保する狙いがあったのではと推測されるところでしょう。

なお、中国地方一帯で金属神として信仰されている「金屋子神」は最初に播磨国宍粟郡の岩鍋(現在の千種町岩野邊に比定)に天下ったと伝えられており、本邦において宍粟郡が製鉄史上重要な地だったことを示唆しています。

当社についても播磨国において極めて辺鄙な地でありながら式内社が所在することはこうした鉄資源の存在があったのかもしれません。

 

現在の当社は中殿に「葦原志許男神」を、左殿に「高皇産靈神」「素戔嗚神」を、右殿に「月夜見神」「天日槍神」を祀っています。

江戸時代以前は「高見大明神」と称して高皇産靈神を主祭神とする神社だったといい、現在の御祭神となったのは江戸時代末期以降に広く知られるようになった『播磨国風土記』の記事を受けて整理した結果かもしれません。

当社本殿は大永七年(1527年)に建立された優美かつ貴重なもので、国指定重要文化財となっています。

また当社に伝わる江戸時代の絵馬や羽子板が宍粟市指定有形文化財となっており、山間の僻地にありながらも高水準の文化のあったことが窺われます。

 

境内の様子

当社は揖保川上流部の支流・公文川に沿った山麓に鎮座しており、まさに播磨国の最果てに近い山間の地です。

境内の西方400mほど、公文川を渡ったところに社号標を兼ねた注連柱が建っています。(なおGoogleマップには「御形神社一の鳥居」とある)

 

注連柱から道を進むとその先に鳥居が西向きに建っており、境内入口となっています。

 

鳥居をくぐって左側(北側)に手水舎が建っています。

 

正面に進むと銅板葺の平入切妻造の随身門が西向きに建っています。

 

随身門の左右の部屋に安置されている随身像は互いを向き合っており対面型となっています。

 

御形神社

随身門をくぐった様子。境内は杉の木が多く鬱蒼とした社叢を成しています。

後方は石垣が積まれて瑞垣が廻らされ、石段上の平らな空間に社殿が西向きに配置されています。

 

御形神社

社殿は石段を上ってすぐのところに建っておりやや狭小な印象。

拝殿は銅板葺の平入入母屋造に唐破風の向拝の付いたもの。朱塗りの施された鮮やかな建築です。

 

拝殿前に配置されている狛犬。

 

御形神社 本殿

拝殿後方には透塀に囲まれて檜皮葺の三間社流造の本殿が建っています。

この朱塗りの施された美しい本殿は大永七年(1527年)に建立された貴重なもので、国指定重要文化財となっています。

山奥の地にこれほど立派な社殿があるのはまさに驚くべきことと言えましょう。

案内板

重要文化財 本殿の説明

 

当社拝殿の左側(北側)に銅板葺の流造状の社殿が南向きに建っており、これはどうやら仮殿のようです。

昭和四十六年(1971年)から行われた解体修理で御神体を安置したものと思われますが、現在も鈴の緒と賽銭箱が設けられており、参拝できるようになっています。

 

本社本殿の左側(北側)に隣接して「佐閉(サヘ)神社」が西向きに鎮座。御祭神は「障ノ神」。

社殿は銅板葺の一間社流造。

 

本社本殿の右側(南側)に隣接して「日吉神社」が西向きに鎮座。

社殿は銅板葺の一間社流造。

 

本社拝殿の右側(南側)に建つ銅板葺の切妻造の建物。これは恐らく神饌所ではないかと思われます。

 

本社本殿の後方のやや小高いところに「夜の間杉」と呼ばれる杉の巨樹が生えています。

高峰山から当地への遷座の際、一夜にして三本の杉が生え、その杉を中心に社殿を造営したといい、その三本の内で唯一現存するのがこの杉だと言われています。

ただこの杉の樹齢は600年であるといい、宝亀三年(772年)の遷座という伝承と比べるとかなり若いものとなっています。

 

石垣下の右側(南側)に「忠魂社」が北向きに鎮座。

銅板葺の平入入母屋造の割拝殿と銅板葺の一間社流造の本殿で構成されています。

 

忠魂社の前から境内を北向きに見た様子。社殿は右側にあり、境内の中央やや南寄りに土俵があります。写真奥、境内の北側に建つ銅板葺の平入入母屋造の建物は儀式殿。そして写真左の建物は舞台となっています。

 

舞台は桟瓦葺の妻入入母屋造。西播磨では多くの神社で舞台を見かけることができますが、妻入なのはやや珍しい例です。

内部の屋根裏には弘化三年(1846年)の作である百人一首の絵馬が掲げられており、宍粟市指定有形文化財となっています。百人の歌仙が全て揃っており全国的にも貴重なもの。

他に江戸時代の絵馬や羽子板も宍粟市指定有形文化財となっており、山奥の地でありながらも文化水準の高いことを示すものと言えます。

案内板

百人一首の絵馬

 

道を戻ります。

参拝時には気付きませんでしたが、参道途中の右側(南側)の田圃の中に土盛と石碑があり、これが当社の神の降臨地とされているようです。伝承ではこの地に生えていた柚の木で神が目を傷めたためこの地では柚の木を植えないとも。

 

当社の旧地であるという高峰山は現在地から南東へ2kmほど地に聳えています。

現在地からすれば谷を一つ隔てており、また社殿の向きとも合わないため当社との関係を推し量りにくいものとなっているものの、かつては祭日に高峰山の旧社地まで社家が騎馬で往復したと言われています。

 

タマ姫
山奥なのに本殿がむっちゃ立派だね!すごい!
他にも江戸時代の絵馬や羽子板等が伝わっているわ。この地の文化水準の高さが窺われるわね。
トヨ姫

 

由緒

石碑

御形神社由緒

案内板

百人一首図絵馬(附・由緒書)

案内板

巴御前勇戦図絵馬

案内板

左義長羽子板

 

地図

兵庫県宍粟市一宮町森添

 

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