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保久良神社 (兵庫県神戸市東灘区本山町北畑)

社号 保久良神社
読み ほくら
通称
旧呼称 牛頭天王 等
鎮座地 兵庫県神戸市東灘区本山町北畑
旧国郡 摂津国菟原郡北畑村
御祭神 須佐之男命、大国主命、大歳御祖命、椎根津彦命
社格 式内社、旧村社
例祭 5月4日、5日

 

保久良神社の概要

兵庫県神戸市東灘区本山町北畑に鎮座する式内社です。

社伝によれば、当社は大阪湾を拠点とする海人族、椎根津彦命の子孫である倭氏が当地に居住して祖神を祀ったとしています。椎根津彦命について『古事記』の神武東征の段に次のような記事があります。

『古事記』(大意)

イワレヒコ(後の神武天皇)が吉備の高島宮から東へ上ったとき、亀の甲羅に乗って釣りをしていた人と速吸門で出会った。呼び寄せて「お前は誰だ」と問うと「私は国津神です」と答えた。「お前は海路を知っているか」と問うと「よく知っている」と答えた。また「従ってお仕えしないか」と問うと「お仕えします」と答えた。そこで棹をさし渡し船に引き入れて、「槁根津日子(サオネツヒコ)」の名を授けた。これは倭国造の祖である。

この「槁根津日子」が「椎根津彦」であり、後の神武天皇となるイワレヒコの先導役として瀬戸内海を案内することになります。『日本書紀』では「珍彦(ウヅヒコ)」の名で登場し「椎根津彦」に名を改めさせています。

イワレヒコが椎根津彦と出会った「速吸門」は、『日本書紀』では豊予海峡を指すと考えられ、現在も速吸瀬戸と呼ばれると共に、大分県大分市佐賀関には式内社の「早吸日女神社」が、またその近隣には「椎根津彦神社」が鎮座しています。

一方で『古事記』では上記のように吉備国よりも東にあり、児島湾とする説や明石海峡とする説があります。いずれにせよ「速吸門」とは潮の流れの速い海峡を意味したと考えられ、椎根津彦は海路の要衝である瀬戸内海の海峡を支配した在来の海人族の首長を神格化し記紀に組み込んだものと思われます。

当地の伝承では椎根津彦命は青亀に乗っていたとされ、当社の南方の浜に上陸したと言われています。その地を「青木(おうぎ)」と言い、「青亀」が転訛してそう呼ばれるようになったと言われています。

 

椎根津彦命の子孫・倭氏

『新撰姓氏録』などには椎根津彦命は「神知津彦命」と記されており、その子孫として次の氏族を登載しています。

  1. 右京神別「倭太」(神知津彦命の後)
  2. 大和国神別「大和宿祢」(神知津彦命を出自とする)
  3. 摂津国神別「大和連」(神知津彦命の十一世孫、御物足尼の後)

このように椎根津彦命の子孫は「倭氏」「大和氏」を名乗っています。関連して『続日本紀』神護景雲三年(769年)六月条に摂津国菟原郡の人、正八位下倉人水守ら十八人に大和連の姓を授けたことが見えています。この摂津国菟原郡の大和連が『新撰姓氏録』の3.の氏族であり、当社を奉斎した人々だったことが考えられます。

余談ながら2.の大和国の大和宿祢は奈良県天理市新泉町に鎮座の式内社「大和神社」を奉斎した人々と考えられ、『日本書紀』にも様々な経緯の末に夢告によって椎根津彦命の子孫である市磯長尾市に大和大国魂神を祀らせることになったと記されています。

このように、椎根津彦命の子孫である倭氏は朝廷の祭祀に深く関わっていたことが窺えます。古くから瀬戸内海を掌握し、イワレヒコの東征にも貢献した彼らは朝廷による支配に不可欠な存在だったのかもしれません。

 

灘の一つ火

当社は近世には「牛頭天王」と呼ばれ、専ら牛頭天王を祀っていたようです。厄除けに験のある牛頭天王の信仰が強まり、新たに勧請されて本来の御祭神が忘れられたものと思われます。

しかしそれでも当社と海との関係は非常に深く、その象徴として「灘の一つ火」と呼ばれる社前の灯籠があります。中世から油で火を灯し続け、大阪湾を行き交う船の目印とされてきました。六甲山の中腹に鎮座する当社の灯籠は海を生活の基盤とする多くの人々を守ってきたと言えます。

 

「ホクラ」の語源

一方、当社の社名「ホクラ」の語源は様々な説がありますが、一説に「秀座」の意で神の鎮座すべき神聖な地を指したとするものがあります。当社の境内や周辺には数多くの巨大な岩石があり、非常に古くから磐座として祭祀の対象とされてきたことが考えられています。

同時に境内の内外に石器時代の石斧・石剣・石包丁などや、弥生時代の銅戈(国指定重要文化財)・土器・勾玉などが出土しています。これらは儀礼的なものが多いことが指摘されており、この地が古くからの祭祀場だったことが考古学的にも考証されています。

椎根津彦命の伝承を踏まえれば、大阪湾周辺の海域を掌握した海人族が当地を拠点とし、眼前の海をよく見渡せる六甲山の中腹に「秀座」と言うべき神域を見出し、神を祀ったものと言えるかもしれません。その神とは必ずしも祖神ではなく、大阪湾を守護する海の神だったことも考えられそうです。

 

境内の様子

当社は六甲山地にある金鳥山の中腹に鎮座しており、麓の南方から六甲山を見上げると当社の鳥居が見えます。

 

麓に道標が立っており、ここからひたすら山登りとなります。とはいえ舗装された道なので軽装で大丈夫です。

なお自動車の通行は禁止されているので徒歩で参拝しましょう。

 

当社への道は桜並木となっており、桜の花の咲く頃は眼下の海と相まって非常に美しい景色を楽しむことができます。

 

さらにつづら折りの道を上っていくと当社の境内入口へ辿り着きます。標高およそ180m。入口には南向きの鳥居が建っています。

 

鳥居の左側(西側)には亀に乗った「椎根津彦命」の銅像が建っています。

椎根津彦命は瀬戸内海で神武天皇を先導した人物で、伝承では当地の浜に上陸し、子孫が当社を奉斎したと伝えられています。

 

鳥居をくぐった様子。一直線に石畳の参道が続き、左右に玉垣が設けられています。

 

参道を進むと左側(西側)に手水舎があります。

 

保久良神社と桜

保久良神社と桜

参道の先、石段を上ると正面に南向きの社殿が建っています。

拝殿は銅板葺・平入入母屋造に千鳥破風と唐破風付きの向拝の付いたもの。本殿は塀と柵に囲われていてよく見えませんが銅板葺の流造のようです。

当社は社殿前の左右に桜の木があり、春には花が咲き誇って非常に美しい姿を見せてくれます。これほど神社を綺麗に飾ってくれる桜もそうそう無いことでしょう。是非とも桜の時期に参拝したい神社です。

 

拝殿前の狛犬。花崗岩製で顔の整った狛犬です。

 

 

社殿前の右側(東側)に境内社の「祓御神社」が西向きに鎮座。御祭神は「天照皇大神」「春日大神」。

 

祓御神社の狛犬。花崗岩製で、こちらはこちらは体つきに対して顔のやや大きい造形で独特の貫禄があります。

 

祓御神社の右側(南側)に遥拝所があります。伊勢神宮への遥拝所でしょうか。

 

石段を下りて参道を挟んで手水舎の向かい(東側)に「八代龍王」の石碑が安置されています。

雨乞いの神として信仰されてきたのか、或いは六甲山の修験の神としてなのか、気になるところです。

当社の本来の神が海神だったなら、このように隅に追いやられて八代龍王として祀られてる可能性もあるかもしれません。

 

当社境内や境内周辺には数多くの岩石があり、これらは磐座として非常に古い時代から祭祀されてきたと言われています。いくつかの岩石は名前が付けられています。

社殿の前にあるこちらの岩は「立岩」と呼ばれています。

 

境内の西側にある「神生岩(かみなりいわ)」。当社周辺の岩石群の中でも特に大きなものです。

 

境内の東側にも多くの岩石があります。この中に「三交岩(さんごいわ)」と呼ばれる岩石があるようですが、どれがそれなのかよくわかりません。

 

当社の社前の崖上に文政八年(1825年)に建立された灯籠があり、これは「灘の一つ火」と呼ばれています。

古くからこの地に灯籠が設けられ、欠かさず油で火を灯し続け、灯台として船で海上を往来する人々の目印としての役目を果たして来ました。現在でも電気で点灯を続けています。

当社と海との関わりの深さが偲べるものと言えそうです。

石碑「灘の一ツ火」

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灘の一ツ火

この石灯籠は 文政八年(一八二五年)のものですが 往古は ”かがり火”を燃やし 中世の昔より”油”で千古不滅の御神火を点しつづけ 最初の灯台として 「灘の一ツ火」と海上の船人の目じるしにされました

古くから ふもとの北畑村の天王講の人々が 海上平安を願う「祖神」の遺志を継承し 交替で点灯を守りつづけてきたものです

 

「灘の一つ火」から南方を眺めた様子。目の前に海が広がり、大阪湾の対岸に聳える和泉山脈の山々まで見渡せます。

 

鳥居越しに「灘の一つ火」を見た様子。

時代を経て眼前の様子も浜から工業地帯へと変わり、近代的な設備によって「灘の一つ火」の重要性も低下しましたが、鳥居越しに灯台と海が見える景色はいつまでも当社の象徴であり続けることでしょう。

 

翻ってこちらは当社の南方、「青木(おうぎ)」の海岸の様子。青木は椎根津彦命が上陸した地と伝えられ、青木の地名も椎根津彦命が乗っていた「青亀」が転訛したものと言われています。実際、この地が埋め立てられるまではウミガメが上陸していたようです。

地図などで青木の海岸線を見るとギザギザになっていますが、これはかつて四国や九州とを結ぶ一大フェリーターミナル「東神戸フェリーセンター」だったからです。

現在では神戸のフェリーターミナルとしての機能は三宮南方のポートターミナルに移転しましたが、当地がつい近年まで海上交通の一大拠点だったことは、海人族の祖であろう椎根津彦命の伝承が近代以降も生き続けたかのようにも感じられます。

 

タマヨリ姫
すごい桜が綺麗!しかも神社から海が眺められて最高!ほんとに景色のいい神社だね!
是非とも桜の咲く時期に訪れたい神社ね。そして目の前の海との深い関わりも感じながら参拝したいわね。
トヨタマ姫

 

御朱印

 

由緒

案内板「保久良神社 御由緒」

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保久良神社 御由緒

所在地

神戸市東灘区本山町北畑六八〇番地

御祭神

須佐之男命
大歳御祖命
大国主命
椎根津彦命

由緒

創立年暦不詳なれども境内外地は上代祖神の御霊が鎮座せる磐座磐境の古代祭祀遺跡地にして其れらより発見されつゝある石器時代の石斧、石剣、石包丁、石鏃類、青銅器時代の銅戈(重美)弥生式土器が前期中期後期に亘り多数出土せり。

西暦紀元前二、三世紀頃より西暦紀元三世紀頃のものにしてそのいずれもが儀礼的なものたることの考證せられてあるを見ればその頃にはもはやこの霊地に祭祀せられたる證拠なり。また当社は始めに椎根津彦命の子孫たる大和連倉人水守(西暦七六九)等が祭祀したるとも、神功皇后(西暦一〇一)三韓の役の戦利武器を此の社地に収蔵し秦りしより起因するとも、又社名の火倉、火の山、烽火場の地より起こりしとも称せられる。尚祝部土器、玻璃玉の発見せられてあり平安時代の延喜式(西暦九二七)には社格・社名を載せ奉りてあり。

鎌倉中期の青銅製懸仏の発見されており摂津志には建長二年(西暦一二五〇)重修の棟札の所持せる事を記載する等上代より祭祀の存続せる事実を実證する資料となれり。

古来より天王宮とも称せられ中古本荘の庄の総氏神にして工業商業者はもとより多くの崇敬の中心となる 当神社の位置は古成層天王山(海抜一八五米)の山頂にあり背後に六甲の翠巒を負い、前には茅渟の海を一望に見渡す最景勝地にして社頭に古石燈燈明台ありて毎夜北畑天王講の人々交替して御神火を点じ、近海を渡る船舶の航路安全を祈る「灘の一つ火」として崇拝せられ、古来より航海者等の一針路となる。

これは祖神の代表的事蹟たる海路嚮導の行為とを考え合わすとき氏子人の祖神の御遺徳を追慕する行事にして上代より現在に到るまでに長年月の間、一日として絶やすことなく奉仕し居れり。

主たる祭日

一月一日 歳旦祭
一月二十五日 大俵祭
五月四日 例祭
五日 神幸式
七月十四日 名越祭

末社

祓御神社

御祭神

天照皇太神
春日大神

案内板「御祭神「椎根津彦命」の御事蹟」

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御祭神「椎根津彦命」の御事蹟

摂津国菟原郡(夙川西岸から生田川東岸までの間)の統治を委任された「命」は、多くの村里が良く見渡せる場と、海から昇る日輪(太陽)が遥拝できる場を兼ね合せた処を、会場から眺め探し求められ、最適な場所として、「ほくら山」を見つけられ、青亀を麓の真下の海岸に着けられました。

【この由緒から、青亀(あおき)が着いた岸辺・青木(おおぎ)の地名が起こる】

早速、青木→南田邊→北畑を経て山を目指して登られました。山頂から、眼下に広がる海・対岸の山々・東西に広がる村里を眺められ「命」の心に適合した場所であり、祭祀する場として清めた後、東から昇る日輪を遥拝し、大岩を並べ「磐座」とされ、「祖先神」(須佐之男命・大歳御祖命・大国主命)を祭祀して「農業生産・諸行繁栄・村里安全」を一族の人々と共に祈願されました。

【社名由来の一=「ホ」は「ヒ」(神霊)を集めた場(倉)から】

そして一族の人々共に、生活改善向上の策として、日々・常時「火種」の供給の場を起こし定められ、多くの人々に「火力」の普及保持を勧め、土器生産を通じ農業発展を奨励する一方、海上交通の安全を図る為、社頭に「かがり火」を焚き、航行安穏を祈ると同時に、文物の流通の道を開拓されました。

【社名由来の二=「火種を保持する庫・倉」=「火倉(ほくら)」となる】

【「灘の一つ火」の起源=社頭のかがり火が始まり】

「火力」の補給を通じ、「農業」を促進、海上交通安全から文物流通等、活気溢るる村里の繁栄に尽くされました。

丁度その頃、天っ神の御子(神武天皇)が東・大和に向かうことを聞かれ、青亀に乗り、和田の浦にて釣りをしながら、速吸の門(明石海峡)にて待機、「私は国っ神、名は珍彦」と名乗り、「皇船の先導者とならん」と申され、椎槁を通して船中に入り、神武天皇と対面、「椎根津彦」の称号を賜り、海導者として浪花に上陸、河内・大和等転戦、苦労の中に献策を立てられました。後、大和建国の第一の功労者として、神武天皇即位二年「汝、皇船に迎え、導きて、績(いさをし)を香久山の巓(いただき)に表せり。因りて、倭国造を賜る」(日本書紀・旧事本紀)

また、倭宿祢として天皇の近くにあり、大和建国・安寧に貢献されました。

その後、信濃・越後の国の開発に尽力される等の後、倭国造の要職を子孫に譲り、「命」は故郷「菟原の郷」に帰り、弟猾(おとうかし)と共に郷土の育成に尽くされました。

今も昔も変わること無く、毎朝太陽の日の出を拝み、「磐座」に神々の神恩を感謝し祈りを捧げつつ、代々の祖先から継承されてきたこの聖地を護持し、敬神愛山の道を育てて行きたいものです。

案内板「保久良神社の歴史」

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保久良神社の歴史

保久良神社は本山町北畑の山麓に鎮座し、祭神は須佐之男命(すさのおのみこと)、大年御祖命(おおとしみおやのみこと)、大国主命(おおくにぬしのみこと)、椎根津彦命(しいねつひこのみこと)である。旧本庄九ヵ村の鎮座であったが、明治五年(一八七二)に森、深江、青木の三ヵ村に分れ、明治二十二年(一八八九)には、三条、津知は精道村(後の芦屋市)に属するようになったため次第に離れ、残る北畑、田辺、小路、中野の四ヵ村の鎮守となった。創建は不詳であるが、『延喜式』に載る古社で、付近からは弥生時代の土器や石器、銅戈が出土している。また社殿周辺の神生岩、三交岩など巨石が本殿を中心として、環状に人為的に配置がされていることから、磐座信仰がうかがえる。祭神もはじめは、椎根津彦命を祀っていた。伝説では、神武天皇東征のおり、瀬戸内海の実権を握っていた一族の漁夫が、九州からこの付近の海路を案内し、その功によってシイの木で作ったカジと椎根津彦の名を賜ったといわれる。『続日本紀』によると、椎根津彦命の子孫といわれる菟原郡倉人水守等十八人に姓として大和連を賜ったとある。この椎根津彦命の子孫が、先祖を追幕(※原文ママ)し、祖神として賜ったのが創祀ともいわれる。その後祇園信仰が盛んになり、天王さんと呼ばれることもある。『摂津志』に載っている棟札には、建長二年(一二五〇)に改築されたことが記されている。

近世には、本庄九ヵ村の氏神として多くの崇敬を受け、元禄五年(一六九二)の寺社改めによれば、境内は六九間半(約一二六・四メートル)、七〇間(約一二七・三メートル)。本社は妻四尺七寸(一・四メートル)、面五尺(約一・五メートル)の杮葺き。末社として天照大神(あまてらすおおみかみ)、春日大明神(かすがだいみょうじん)があった。明和二年(一七六五)六月、本殿と末社春日神社が焼失、翌三年に同じ規模で大江深江村善兵衛によって再建された。この時、雨覆の新設を願っている。届を受けた大坂町奉行所では与力衆が検分をして新設を認めた。弘化二年(一八四五)にも社殿造営が行なわれ慶応二年(一八六六)にも社殿が修復された。明治五年(一八七二)十一月、郷社に列せられた。境内の末社として、天照大神と春日大明神を祀る秡御神社がある。

日本武尊(やまとたけるのみこと)は古代日本の皇族(王族)。第12第景行天皇皇子で、第14第仲哀天皇の父にあたる。熊襲征討・東国征討を行ったとされる日本古代史上の伝説的英雄である。日本武尊が帯びた剣は、草薙剣といわれる。出雲で須佐之男命がヤマタノオロチを倒した際にその尾から出てきたものてきたもの(※原文ママ)で、天照大神に献上され、天孫降臨に伴い三種の神器の一つとして、再び地上に戻ってきたものである。

社前にある常夜灯は、古来から「灘の一つ灯」として、沖をいく船の夜の目印とされてきた。伝説では、日本武尊(やまとたけるのみこと)が熊襲(九州)遠征から帰る途中、大阪湾で夜になって航路がわからなくなり神に祈ったところ、北の山上に一つの灯が見えた。それを頼りに船を進めたところ、無事に難波へ帰ることができたという。「灘の一つ灯」として、航海する人の標識となってきたことがこうした伝承を生んだのだろう。現在は、文政八年(一八二五)六月に建立された石灯籠が立っている。昔は北畑の天王講の人々が毎晩一晩分の油を注ぎ点火してきたが、現在は電気で点灯している。

須佐之男命(すさのおのみこと)
天照大神の弟神で伊弉諾尊から海原を治めるよう言われるが根の国へ行きたいと断り、伊弉冉尊の怒りをかい追放される。根の国へ向う前に高天原で滞在するが、次々と粗暴を行い、高天原を追放される。出雲の鳥髪山へ降った須佐之男命は、その地を荒らしていた巨大な怪物八岐大蛇(やまたのおろち)への生贄にされそうになっていた少女櫛名田比売(くしなだひめ)と出会う。櫛名田比売の姿形を歯の多い櫛に変えて髪に挿し、八岐大蛇を退治する。そして八岐大蛇の尾から出てきた草那芸之大刀(くさなぎのたち)を天照大神に献上し、それが古代天皇の権威たる三種の神器の一つとなる。その後、櫛から元に戻した櫛那田比売を妻として、出雲の根之堅洲国にある須賀(すが)の地(島根県安来市)へ行き留まった。
大国主命(おおくにぬしのみこと)
国津神の代表的な神だが、天孫降臨で天津神に国土を献上したことから「国譲りの神」とも呼ばれる。すさのおの後にすくなびこなと協力して天下を納め、まじない、医薬などの道を教え、葦原中国の国作りを完成させる。だが、高天原からの使者に国譲りを要請され、幽冥界の主、幽事の主宰者となった。国譲りの際に「富足る天の御巣の如き」大きな宮殿(出雲大社)を建ててほしいと条件を出したことに天津神が約束したことにより、このときの名を杵築大神ともいう。大国主を扱った話として、因幡の白兎の話、根の国訪問の話、ヌナカワヒメへの妻問いの話が『古事記』に、国作り、国譲り等の神話が『古事記』・『日本書紀』に記載されている。
椎根津彦命(しいねつひこのみこと)
神武天皇が東征において速吸門で出会った国津神で、船路の先導者となる。その後、神武天皇に献策し兄磯城を挟み撃ちにより破る。椎根津彦命は保久良神社の南に位置する神戸市東灘区の青木(おうぎ)の浜に青亀(おうぎ)の背にのって浜に漂着したという伝承があり、それが青木(おうぎ)の地名の由来となる。
大歳御祖命(おおとしみおやのかみ)
神大市比売(かむおおいちひめ)は、日本神話に登場する神である。神社の祭神としては大歳御祖神(おおとしみおやのかみ)の神名で祀られることが多い。大山祇神の子で、櫛名田比売の次に須佐之男命の妻となり、大年神と宇迦之御魂神(稲荷神)を産んだ。2柱の御子神はどちらも農耕に関係のある神であり、神大市姫命もまた農耕神・食料神として信仰される。神名の「大市」は大和・伊勢・備中などにある地名に由来するものとみられるが、「神大市」を「神々しい立派な市」と解釈し、市場の守護神としても信仰される。
保久良神社の磐座(ほくらじんじゃのいわくら)
保久良神社を全国的に有名にしている磐座。かつて神の磐座や降臨場所と見なされ、大きな石が複数横たわっている。その昔、里の人が全員、時を定めてこの下に集まり、神を迎えまつり、共に飲食し神の遺志を聞いていた光景を想像させる巨石群。「ほくら」という社名も最上で卓出したものを示す「穂」と、すわる所を意味する「坐」を合成した語でこの巨石にちなむ名前だと考えられる。

『摂津名所図会』

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保久良神社

北畑村にあり。延喜式出。今牛頭天王と称す。本荘九村の産土神とす。毎年六月七日より神輿を社前に飾り十四日に至るまで村民集りて祭祀を行ふ。京師祇園会と同時なり。

 

地図

兵庫県神戸市東灘区本山町北畑

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