そうね、これはなかなか言い表すのが難しいわ。順を追って解説していきましょう。
神社における「神」と「祭祀」
神社って何するところ?
誰が存在を否定しようとも、その人の中には「神様」は存在するもの。
「いる」ということにして、共同体や組織でその神様の存在を認めて、それを祀ってきたのが神社と言えるわね。
「神」って一体どんな存在?
そもそも「神様」ってのがよくわからないんだよね。
これについては、江戸時代の国学者である「本居宣長」が『古事記伝』で次のように述べてるわ。
本居宣長『古事記伝』より
凡て迦微(かみ)とは古御典等(いにしえのみふみども)に見えたる天地の諸の神たちを始めて、其を祀れる社に坐す御霊をも申し、又人はさらにも云はず、鳥獣木草のたぐひ海山など、其余何にまれ、尋常(よのつね)ならずすぐれたる徳のありて、可畏き物を迦微とは云なり。
すぐれたるとは、尊きこと、善きこと、功(いさお)しきことなどの、優れたるのみを云に非ず、悪きもの、奇しきものなども、よにすぐれて可畏きをば神と云なり。
福をもたらすような良いものだけでなく、災いや厄といった悪いものも、これまた「カミ(神)」であるというわけね。
となると、神様は「存在する」ものというよりは「感じる」ものって感じなのかな?
「神を祀る」ことの始め
だから、人々は何とかして神様を「感じ」、交流することで意思を伺ったりお願いを聞いてもらったりしてきたのよ。
今でも沖縄のユタとか東北地方のイタコなどがやってるのが有名よ。
これらを通して神様を感じ取って、神様の世界との交流を図ったのよ。
また臨時に設けられる祭壇のことを神籬(ひもろぎ)と言うけれど、これも元々は依代となる樹木のことを指していたと言われてるのよ。
そしてここが大事。こうした自然物の依代に臨時に神様を祀ったことが神社の始めだったの。
ん?あれ、神社って最初から社殿があったわけじゃなかったの?
元々は必要に応じて、依代となる然るべきものに都度神様を依りつかせて祀っていたの。
神社というものはこのアニミズムが元になっているということをよく覚えておいてちょうだいね。
弥生時代から稲作が導入され、米をはじめとする農作物が食糧として重要になってくると、農作物を作るために神様を祀るということが盛んに行われるようになるの。
逆に雨が降りすぎても水害が発生して困るから、良い感じの天気にしてねって。
その年の収穫が豊作か凶作かってのがその神様に委ねられてたの。
春に山からやってきて、稲作の折り目折り目に儀式が行われて、収穫が終わると役目が終わったってことで山へ帰っちゃうの。
他にも、漁業の神、製鉄の神、戦の神など、社会が複雑になっていくにつれて信仰も多様化していったわ。
こういった信仰が神社の基礎となっているの。
「神社」の成立
でもそれがいつのことなのか、どのような形態だったのかってのは資料が無くてまるっきりわからないの。
装飾的な建物、狛犬、灯籠、神像など洗練されたものが造られるようになって、徐々に今日見られるような神社の設備が整えられていったと考えられるの。
本殿に神像や石、鏡などの御神体が安置されて、これを依代として24時間365日いつでも神様の世界と交流できるようになっていったのよ。
大神神社 (奈良県桜井市三輪)
社号 大神神社 読み おおみわ 通称 旧呼称 三輪明神 等 鎮座地 奈良県桜井市三輪 旧国郡 大和国式上郡三輪村 御祭神 大物主大神 社格 式内社、二十二社、大和国一宮、旧官幣大社 例祭 4月9日 式 ...
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普通の神社は拝殿の後ろに御神体を安置する本殿という建物があるんだけど、大神神社はこれが無いの。
神体山って言って、この山自体が神様の宿る依代だとされているの。
或いはこの山にある磐座が依代だともされているわ。
それがだんだん麓で社殿が整備されていって、参拝するのに便利な形態になっていったの。
元々は生駒山中腹の神津嶽という聖域で祀られていたけれど、飛鳥時代に麓に遷されて社殿を造ったと伝えられているわ。
枚岡神社 (大阪府東大阪市出雲井町)
社号 枚岡神社 読み ひらおか 通称 枚岡大社 等 旧呼称 平岡社 等 鎮座地 大阪府東大阪市出雲井町 旧国郡 河内国河内郡出雲井村 御祭神 天児屋根命、比売御神、経津主命、武甕槌命 社格 式内社、河 ...
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まとめ
神社がどのような人達に崇敬されてきたのかとか、共同体を維持するにあたって神社はどのような役割を果たしているのかとか、まだまだ伝えきれない部分がとても多いのよ。
まずは近所の神社から、気軽な気持ちで参拝してみたらどうかしら。神社を知るには、まずその一歩が大事よ。