社号 | 枚岡神社 |
読み | ひらおか |
通称 | 枚岡大社 等 |
旧呼称 | 平岡社 等 |
鎮座地 | 大阪府東大阪市出雲井町 |
旧国郡 | 河内国河内郡出雲井村 |
御祭神 | 天児屋根命、比売御神、経津主命、武甕槌命 |
社格 | 式内社、河内国一宮、旧官幣大社、別表神社 |
例祭 | 2月1日、10月15日 |
枚岡神社の概要
生駒山の西麓、大阪府東大阪市出雲井町に鎮座する神社です。式内社・名神大社であることに加え、河内国一宮でもあり、大阪府では有数の社格を持つ神社です。
社伝によれば、神武天皇の東征に際して「天種子命」なる人物(中臣氏の祖の一人とされる。一説にアメノコヤネの孫)が中臣氏の祖神「天児屋根命」および「比売神」を生駒山の中腹にある「神津嶽(カミツダケ)」に祀ったのが始まりであり、その後白雉元年(650年)に麓である現在地に遷され社殿が築かれたと伝えられています。
元々は生駒山の中腹に鎮座していたことから当社の祭祀の原初は素朴な山岳信仰の神社だったと考えられ、現在も旧地には石祠が建ち「神津嶽本宮」として祀られています。
当社の祭祀を担ったのは、古代の祭祀氏族である「中臣氏」、中でもその一族である「平岡氏」でした。
この地を含む中河内地方は物部氏の本拠であり、周辺の神社や史跡も物部氏に関するところが多い一方、中臣氏もまた中河内に拠点を置き、祖神を祀る地として重要視したことが当社を通して垣間見ることができます。
『新撰姓氏録』には河内国神別に非常に多くの中臣氏関連氏族が登載されています。その中に津速魂命の十四世孫、鯛身臣の後裔であるという「平岡連」が登載されており、この氏族が当社を奉斎したのでしょう。
中臣氏の本貫は山城国宇治郡山階(現在の京都市山科区西野山中臣町付近)とされる一方、中臣氏の拠点は他の地にも散在しています。その重要なものの一つが当地で、山階に並ぶ本貫の一つとすら言えるものだったと考えられます。
山階には特に中臣氏に関係する式内社が存在しない一方で、後述のように当社から中臣氏の祖神が春日大社へ勧請されたことから、当社が中臣氏の精神的支柱たる氏神として、そして当地が中臣氏の一大拠点として非常に重視されたことが窺えます。
奈良時代の神護景雲二年(758年)に奈良に「春日大社」を創建する際、「武甕槌命」が「鹿島神宮」から、「経津主命」が「香取神宮」から分霊を遷されましたが、中臣氏および藤原氏の祖神たる「天児屋根命」と「比売神」は当社から勧請されたと伝えられています。
このために当社は「元春日」と呼ばれ、その後の宝亀九年(778年)に当社も「春日大社」から「武甕槌命」と「経津主命」が勧請されたと伝えられています。
中臣氏から出た藤原氏も春日大社と並んで当社を重視したと思われ、中臣氏・藤原氏の祖神を祀っていることは勿論、加えて平城京と難波を結ぶ暗峠の麓という立地も重要だったことが想像されます。
また都が平城京から平安京へ遷った後も、『三代実録』貞観元年(859年)正月二十七日条に当社に祀られる天児屋根命が正一位に叙せられるなど、藤原氏が権勢を誇るようになるに従い隆盛を極めたことが史料から知ることができます。
中世には平岡氏の後裔である「水走氏」が奉仕するようになり、当社も河内国を代表する一宮として不動の地位を築くようになっていきました。
近世以降も庶民から厚い崇敬を受け、隆盛が続いたようです。
初めは恐らく素朴な山岳信仰だったろう当社も、徐々に有力な氏族として頭角を現し始めた中臣氏、そしてやがて絶大な権力者として上り詰めた藤原氏の保護を受けつつ、時代と共に整備されていったことでしょう。
緑豊かな生駒山を仰ぎながら当社に参拝すれば、その悠久の歴史を感じずにおられません。
境内の様子
一の鳥居は境内の西方800mほど、鳥居町に西向きに建っています。
ここから神社へ行くには生駒山を仰ぎ見つつ坂を上っていくことになります。
当社は生駒山の裾野をやや登っていったところにあるため麓から歩いていくとやや大変ではあるものの、近鉄奈良線を利用すると枚岡駅を降りてすぐなので便利です。
駅を降りると嘉永六年(1853年)の「元春日平岡大社」と刻まれた立派な社号標が出迎えてくれます。江戸時代以前の社号標は珍しいもの。
駅から石段を上っていくと二の鳥居が西向きに建っており、ここが境内入口となります。
平成・令和の大造営により真新しい鳥居が再建されました。
二の鳥居をくぐった様子。石畳の敷かれた長い参道が伸びています。
緩やかな勾配の参道を進んでいくと開放的な広い空間があります。
この空間の奥に逆鉾を模した柱や注連柱が建っており、そこから再び石段が伸びています。
注連柱の右側(南側)にある手水。春日神を祀る神社なので春日神の神使である鹿の銅像が水を注いでくれています。
注連柱をくぐると石段下の左右に狛鹿が配置されており、やはり春日神の神社といった印象です。
この狛鹿は弘化三年(1846年)に奉納されたもので、「なで鹿」と呼ばれており撫でることで様々の霊験があるとされているようです。
案内板
なで鹿(神鹿)
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御祭神、武甕槌命様が神鹿に乗って旅立たれた故事(春日立)にちなみます
弘化三年(一八四六)名工日下の小平次作で左右の親鹿が仔鹿を優しく育んでいます
健康と家族の平安、子どもの幸せ旅行の安全等を念じて撫でてください
この石段の上に社殿が建っているのが見えます。
社殿は生駒山を背にして西向きに並んでいます。
拝殿は銅板葺・平入入母屋造に向拝の付いたもの。江戸時代中期の地誌『河内名所図会』の挿絵には拝殿が描かれておらず、当時には無い施設だったようです。
拝殿後方に中門と透塀が建ち、その奥の二段ほど高い空間に四棟の本殿が建っています。いずれも檜皮葺の一間社春日造で鮮やかな朱塗りの施されたもの。
これらの本殿は文政九年(1826年)に造営されたもので東大阪市指定文化財となっています。
平成・令和の大造営によりこれら本殿や中門・透塀などはかなり綺麗なものとなりました。
また、以前は本殿の様子が見えにくかったものの、大造営により後述の一言主神社の脇から本殿への遥拝所が新設されてよく見えるようになりました。
なお、現在は塀内には立入できませんが、『河内名所図会』の挿絵では本殿前で参拝してる人が描かれており、江戸時代には自由に入れたようです。
神前の門は「皇天門」と呼ばれたことも『河内名所図会』に記されています。
境内社等
本社本殿の右側(南側)にも通路が伸びており、こちらは境内社の鎮座する空間となっています。
本社本殿の右側(南側)に「一言主神社」が西向きに鎮座。御祭神は「一言主神」。
かつて境内社だった十九社の末社のうち、平成・令和の大造営で二社が再建され、その内の一社がこちらです。
社殿は銅板葺の一間社流造。
案内板
末社 一言主神社
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御祭神
一言主神
例祭日
五月三日
御神徳
一願成就
言葉の力を司る神様。何事も道理をわきまえ善事・悪事を良く聞き分けて幸せを与えてくれます。古来一言願いをすれば叶えて下さる神様として信仰が高い。
一言主神社の右側(南側)に「若宮社」が西向きに鎮座。御祭神は天児屋根命の御子である「天押雲根神」。
この神社は平成・令和の大造営より以前から一貫して鎮座しており、当社の中でも特に重要な境内社だったことが窺えます。
一方で社殿は大造営により一新され、銅板葺の一間社流造に朱塗りの施されたものとなりました。
若宮社の左奥(北東側)に「出雲井」と呼ばれる井戸があります。
当社の創建以来涸れることなく湧き出る清水と言われ、当地の地名「出雲井」の由来となっています。
この出雲井の水は若宮神社の石段下の左側(北側)に導水されています。
この設備も大造営で新設されたもので、以前はひっそりと人知れずあるだけだったのが一気に御神水として親しめるものとなりました。
若宮神社の右側(南側)に池があり、その奥に「飛来天神社」が西向きに鎮座。御祭神は「天之御中主神」。
こちらの神社も平成・令和の大造営で再建された末社の一社。飛来天神社は「春日大社」の境内社にもあり(ただし直接の参拝は不可で遥拝所がある)、やはり同神を祀っています。
造化三神の一柱である同神を祀る神社は珍しく、注目すべきものでしょう。
社殿は朱塗りの流見世棚造。
案内板
末社 飛来天神社
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御祭神
天之御中主神
例祭日
五月二十五日
御神徳
健康長寿 生産 縁結び
天地万物を司り、天と地(宇宙)を創られた神様。全てのものを結びつけ調和と安定をはかり、大自然に生かされている事に感謝の誠をささげれば幸せが訪れます。
飛来天神社の右側(南側)には遥拝所があり、注連縄の掛けられた御神木を通して遥拝するものとなっています。
神津嶽(後述)や皇居、伊勢神宮、橿原神宮を遥拝するものです。
一旦通路へ戻ります。通路の途中には出雲井とは別に「白水井」と呼ばれる泉があります。
この水に触れると眼病平癒や母乳の出の改善などの霊験があると伝えられているようです。
通路奥の小高いところに「天神地祇社」が西向きに鎮座。本社の境内社や当地周辺の神社をここに合祀しています。平成・令和の大造営以前は若宮社以外の全ての境内社をここに合祀していました。
大造営で一新され、春日造風の覆屋の中に妻入切妻造の社殿が納められています。
案内板
末社 天神地祇社にお祀りしている御祭神
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【明治期に左記の神社(現氏子内)の御祭神がお祀りされました】
(額田村)額田明神社、若宮八幡社、恵比寿社、山神社、高城社
(豊浦村)春日神社、東山神社
(出雲井村)八坂神社
(五條村)八幡社
(客坊村)市杵島姫神社
(四條村)春日神社
(松原村)春日神社、八幡社
[境内各所に鎮座していた左記の末社もお祀りしています]
椿本社、青賢木社、太刀辛雄社、勝手社、地主社、笠社、住吉社、飛来天神、岩本社、佐氣奈邊社、一言主社、坂本社、素箋鳴命社、八王子社、戸隠社、大山彦宮、門守社、角振社、官社殿社
天神地祇社のさらに南側、枚岡梅林へと出るところに「楠正行公縁の井戸」があります。
このように当社は多くの井戸があり、生駒山から湧き出る水を神聖視していることが窺えます。
案内板
楠正行公縁の井戸
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正平三年(一三四八年)一月、小楠公・楠正行、正時兄弟、和田高家、賢秀兄弟をはじめ一族郎党が、高師直率いる北朝軍の大軍と戦った「四条縄手の合戦」が、この地であったとの言い伝えが伝わっています。
境内にある滝行場。生駒山の麓や山腹に鎮座する寺社ではよく見かけるものです。
恐らく生駒山を拠点に活動した修験道と結びついたものと思われます。
境内は鬱蒼とした森に覆われていますが、よくよく観察してみると四季折々の彩りを楽しむこともできます。
神津嶽
境内から背後の生駒山の方へ登っていきます。途中にある枚岡展望台は休憩所となっており、大阪平野を見渡すことができます。
枚岡展望台からしばらく登っていくと注連縄の掛けられた小高い森となっている一画があります。
ここは「神津嶽(カミツダケ)」と呼ばれ、枚岡神社の元々の鎮座地だと伝えられる場所です。
生駒山の中腹にあたる神津嶽の上はかつて禁足地だったようですが、現在は「神津嶽本宮」として石祠が建てられ、誰でも参拝できるようになっています。
一説に、この神津嶽が平らな岡になっているから平岡(枚岡)と呼ばれるようになったとも言われています。
石碑
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此処は枚岡神社創祀の地なり その昔 神武天皇御東征の砌浪速から大和に進み給はむとす その時 天種子命 勅命を奉じ生駒山西方の霊地神津嶽の頂上に一大磐境を設け 国土平定祈願のため天児屋根大神 比売大神の二神を奉祀す ときに神武天皇即位紀元前三年即ち枚岡神社の起源なり その後孝徳天皇白雉元年神津嶽の霊地より現在地に社殿を作り奉遷す
境内周辺
枚岡神社の境内南側一帯は「枚岡梅林」と呼ばれる梅の名所でした。
しかし2019年以降、この梅は見られなくなっています。ウメ輪紋ウイルスの感染が確認され、根絶のため伐採されているのです。
寒さの緩む頃に梅の花越しに眺める大阪平野の景色はまさに郷土の誇りと言えるものだっただけに、残念でなりません。
ウイルスの根絶が確認された暁には枚岡梅林の復活を強く願っています。(写真は2016年のもの)
枚岡神社の境内北側には「コ」の字型の「姥が池」というのがあります。
伝承によれば、600年ほど前、枚岡神社の灯籠の油を盗んだという貧しい老婆が身投げしたと伝えられ、その後は雨の夜に青白い炎が現れたと言われています。
案内板
姥が池
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この池は昔から「姥が池」と呼ばれていました。それは、今をさかのぼること約六百年前の出来事「悲しい老婆の身投げ伝説」に由来しています。
その伝説とは、枚岡神社の御神燈の油が毎夜なくなり、火が次から次へと消えていきました。妖怪変化の仕業と不気味がられていましたが、その正体をつきつめると、生活に困っていた老婆が油を盗んでは売っていたのでした。そのわけを知り、気の毒に思って老婆を釈放してやりました。しかし、人の噂が広まっていたたまれなくなり、老婆は池に身投げてしまいました。村人は明神の罰が当たったとして誰も同情しませんでした。その後、雨の晩になると池の付近に青白い炎が現れ、村人を悩ましたと伝えられています。
この物語は、井原西鶴の短編話など多くの俳諧、戯曲に「姥が池の姥が火」として登場しています。また、「和漢三才図会」「河内名所鑑」などにも記載されています。
平成23年3月 東大阪市
恩智川から望む生駒山。この山の山岳信仰が枚岡神社の初めであったと考えられます。
生駒山地を神域とする神社は式内社に限っても河内側・大和側ともに多く、当社はその代表的な神社と言えることでしょう。
タマ姫
大きな神社だね!「
春日大社」と同じ神様を祀ってるんだ!
その「春日大社」の神様の内、「天児屋根命」と「比売神」はこの神社から勧請されたと言われてるのよ。
トヨ姫
御朱印
由緒
案内板
河内国一の宮 旧官幣大社 枚岡神社
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御祭神
第一殿 天児屋根大神
第二殿 比売神
第三殿 経津主大神
第四殿 武甕槌大神
摂社 若宮社
御祭神 天忍雲根大神
末社 天神地祇社
御祭神 天津神、国津神
御由緒
社伝によれば、神武天皇御東征の砌、紀元前三年国土平定祈願のため、天種子命勅令を奉じて現在地の東方山上の霊地神津嶽に、天児屋根大神、比売神の二柱の神霊を奉祀せられた。その後孝徳天皇白雉元年(六五〇)平岡連等が、現社地に神殿を造営、山上より二柱の神霊を奉遷し、次いで光仁天皇宝亀九年(七七八)香取鹿島より、経津主大神、武甕槌大神を勧請奉斎して以来、四柱の神霊が四殿に御鎮座になっている。悠久限りなき上代に勅旨にて創祀せられた故を以って、古来朝廷の尊崇最も厚く大同元年には封戸六十戸を有し、貞観年中に神階正一位を授けられ、同時に春秋の勅祭に預り奉幣を受け、之を以って永例と定められ、更に延喜の制成るや大社として三大祭に案上の官幣に預り、名神祭、相嘗祭の鄭重なる祭祀を受け、殊に春冬の二回勅旨を遣わされて厳粛なる枚岡祭を行わせらるる外、随時祈雨祈病大祓等の祈願奉幣に預る等、最高の優遇を受けた。
中世より河内の国一の宮として御社運益々繁栄し河内一円の諸衆を氏子とし、武家、公家、庶民に至るまで根強き信仰を集め、明治四年神社制度が確立されるや、官幣大社に列格され御神威は益々高揚しその後幾多の変遷を経たが、創祀以来二千六百有余年の由緒を誇る大社としての格式と尊厳を保持し、今日に至っている。
尚摂末社として若宮社、天神地祇社が御鎮座になり、その南方の神苑には数百株の梅樹が植栽され、季節には参拝者の目を楽しませている。
例祭 二月一日
秋郷祭 十月十四日、十五日
月次祭 毎月一日
節分祭千灯明奉納 二月三日又は四日
家内安全祈願祭千灯明奉納 八月第四日曜日
特殊神事として
十二月二十三日 注連縄掛神事、お笑いの神事
一月十五日 粥占神事
五月二十一日 平国祭
八月二十五日 風鎮祈願祭
九月二十五日 風鎮報賽祭等
案内板
神気満ちみちた境内
河内国一之宮 枚岡神社
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【御由緒】
当社は紀元前六六三年に、神武天皇の詔によって、現在地の東方、霊山と崇める神津嶽に、天児屋根命、比売御神の両神がお祀りされ、白雉元年(六五〇)に現在地に神殿を造営し、山上より遷祀されたわが国有数の古社です。
奈良の春日大社創建に際して、両神が分祀されたことから、春日の元宮とも称えられ、その後、経津主命、武甕槌命が合祀され、四棟並列の美しい枚岡造の御殿が完成いたしました。
「延喜式」では 名神大社として祈年・月次・相嘗・新嘗の各祭に官幣を奉られ、殊に春冬二回、勅使を遣わされる等、朝廷より最高の優遇を受け、先の大戦まで官幣大社に列していました。
主祭神の天児屋根命は、祭祀を行なって天の岩戸開きをされたことから、神事を司る神さまとして称えられ、除災招福・開運厄除けのほか、幅広い信仰を集めており、社叢は全国「かおり風景百選」に認定されております。
太古より受け継がれて来たこの聖域には、神気が満ちみちています。この大いなる神気をいただかれ、皆様方の内なる気が蘇り、元気で幸せでありますよう願っております。
【御祭神】
御本殿 | <ご神徳> |
天児屋根命 | 国家安泰・家内安全・夫婦和合・開運招福 |
比売御神 | 安産・子授け・除災 |
経津主命 | 商売繁盛・病気平癒・元気回復・交通安全 |
武甕槌命 | 必勝・厄除け |
摂社 若宮社
末社 天神地祇社
案内板
枚岡神社の粥占神事(かゆうらしんじ)
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粥占は、小正月(1月15日)に行われる年占いの1つです。古くは正月儀礼は1月15日でしたが、暦の関係から元旦に祝うようになり元旦正月を大正月、15日正月を小正月と区別するようになりました。しかし農耕関係の儀礼は、ほとんど小正月のまま伝承されています。
大阪府の文化財に指定されている枚岡神社の粥占神事は、江戸時代には1月15日に行なわれていましたが、現在は11日に秘密神事として行なわれ、15日に占いの結果が参詣者に知らされます。農作物の豊凶、1年間の天候を占うものです。神饌所内で、大きな釜の中に米五升・小豆3升が用意され、竈にかけられます。古式により火鑚杵(ひきりきね)で杉葉に点火し、薪で焚かれます。黒樫でつくった長さ13cmの占木を平年には12本、閏年には13本用意され、竈に入れられ焦げ具合で日々の晴雨が占われます。粥の煮えたつ時、53種の農作物の豊凶を占うため、篠竹の占竹(15cm)53本を1束にして釜の中に吊り下げられ、中に入った粥の多少によって作物の豊凶が占われます。江戸初期の「御粥引付日記」によると、当時は5穀47種の農作物が占われていました。享和元年(1801)の「河内名所図会」には、当時の粥占の様子が描かれています。
平成18年3月 東大阪市
由緒書
河内国一の宮 枚岡神社略記
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御祭神
第一殿 天兒屋根命
第二殿 比賣御神
第三殿 齋主命(經津主命)
第四殿 武甕槌命
由緒
奈良から生駒山の暗峠を越えて真直ぐに西へ降った古い街道、山麓近くに朱の春日造の社殿が西向きに鎮座し、神社の主神は天兒屋根命即ち我国の祭祀の始めを掌り給い、中臣・藤原氏の祖神であり、春日大社の第三殿(天兒屋根命)と第四殿(比賣御神)の神は、神護景雲年間(西暦七六七~七七〇)に当社から春日神社へ分祀せられた為、当社を元春日と呼び習わして来た。因に、当社の第三殿・第四殿の二神は、宝亀九年(七七八)春日大社から迎えて配祀せられた。神階は次第に昇り、貞観元年(八五九)には正一位に叙せられ、『延喜式』には名神大社に列した。古くから中臣氏の一族平岡連の斎く社であったが、平安末期から水走家が祀職となり、河内一宮として朝野から篤く祀られた。天喜四年(一〇五六)・宝治元年(一二四七)・天正二年(一五七四)と度々火災に遭い、慶長七年(一六〇二)豊臣秀頼が社殿を修復した。現社殿は文政九年(一八二六)氏子の総力を挙げての修造である。社領は百石を有した。
明治四年官幣大社に列し、神宮寺等が廃された。本社四殿の他に、本殿背後の神津嶽に摂社神津嶽本宮、本殿南に摂社若宮神社更に南に末社天神地祇社が祀られ、その南部一帯は「枚岡神社梅林」として春は観梅の人達で賑わう。
催事・行事
当社三大祭は、例祭二月一日・祈年祭二月十七日・新嘗祭十一月二十三日であるが、祭礼神賑を伴った「秋郷祭」(十月十五日)は氏子の秋祭として各町の布団太鼓台約二十台が、神社の神輿に続いて境内へ勢揃いし、前日の宵宮祭・当日の本祭と、氏子青壮年の叩く太古の音が終日鳴り響き、緑に包まれた神社境内もこの時ばかりは大阪・奈良その他からの参拝者・露店があふれ十数万人の人出で境内は埋め尽される。周辺道路の規制は勿論であるが、河内国の祭の総力が此処にこの日に結集したかと思われる盛大な大祭となる。
年中恒例の中・小公式祭の他、節分祭の夕刻と八月第四日曜の夕刻には千灯明奉納神事があり、境内の釣灯篭・石灯篭を始め参道に沿って釣提灯が淡い灯をともし、春日大社の万灯篭を想わせる境内となる。八月の千灯明奉納は、河内音頭の奉納があり、近在の氏子の子女の輪踊りで夜遅く迄賑わう。又、夏越の大祓(六月三十日)は、茅の輪を立ててくぐり抜ける蘇民將来の古伝、夏病除けの信仰を伴う。
除夜・元日の所謂「年越詣り」は当社でも盛んで、夜中から正面参道に参拝者が列を作って並び、元日午前零時の新年初太鼓と共に参拝が始まる。境内では、氏子の奉仕する神酒授与の拝戴所に人の列が並び終日参拝者の列は切れない。
三月一日には梅花祭、四月三日には桜花祭があり、境内梅林と紅白梅・桜花の季節は花見を兼ねた参拝者で賑わう。
特殊神事祭典として、先ず一月十一日の「粥占神事」がある。御竃殿で桧の板と杵で火を鑚り出し、着いた火で小豆粥を大釜で松薪を以て炊き、篠竹を五十三本纏めて縄で縛りこれに入れる。その間、竃中の薪の燠火上に樫の小木を十二本並べ、これの焦げた有様で先ず一年十二ヶ月の晴雨を占う。やがて粥が炊き上がる少し前項からは、神職が大祓詞を繰返し奏上し、清浄な中にも清浄を期して神意を迎える。炊き上った釜の日を止め神職は粥の詰まった篠竹(占竹)を取り上げて三方に乗せて本殿前案上に奠し置く。午後、神前に於いて占竹を割り中の小豆粥の入り方で、米以下雑穀や芋・瓜・綿に至る迄、上中下の田畑、早稲・中手・奥手迄細かく占い、「占記」に記入し、一月十五日、この占記は印刷されて一般へ配られる。近頃は近在の農家が減って占記を受ける人も少ないが、神事は古来の手法の手を省かず昔通りに執り行われ、今後もこの姿勢は守って行くこととされている。
五月二十一日には平国祭が行われる。祭典中、神職が古式の鉾で拝殿の床を左右中と三度突き、奉幣行事を思わせる作法がある。
八月二十五日(二百十日)には風鎮祈願祭、九月二十五日には風鎮奉賽祭と、祈願と御礼の祭が執行されるのも、古い手振りの残った祭である。更に「上申祭」が十二月初申の日に斎行される。これもまた古風の祭である。十二月二十五日には「注連縄掛神事」が執り行われる。早朝から拝殿前石段下の境内広場で、藁を打ち縄を綯い注連縄を作り、祓川(夏見川)前の石の注連柱に懸け、次に神職が装束を着用、祓を修し、宮司正中して縄に向かいワッハッハと三度笑って神事を終る。これも珍らしい古式の神事である。
これ等神事のうち、一月の粥占神事は大阪府の無形民俗文化財、十二月の注連縄掛神事は東大阪市の無形民俗文化財として指定されている。
境内は、神津嶽から参道を社殿のある境内へ、更に街中の第一鳥居(石造)迄の東西に細長い約一万八千坪。この面積には本殿南に隣接する梅林が含まれる。枚岡神社梅林は約六百本の紅梅白梅が早春香を競い、一望大阪の平野を眺める高燥・風光絶佳の神苑である。
『河内名所図会』
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牧岡神社四座
出雲井村にあり。国民敬神して当国一ノ宮と称す。例祭、九月九日、近村十四ヶ村の本居(うぶすな)として、祭祀を俱にす。
祭神 南より 壱、大日霊尊 二、天津児屋根命 三、経津主命 四、武甕槌命
若宮 天押雲命を祭る。本社、南にあり。
末社 豊磐間戸命、櫛磐間戸命、石階の下に鎮座。其外、末社多し。
猿田彦祠 若宮の南にあり。
榊祠 神主の宅にあり。天磐立命を祭る。
延喜式云 大。月次相嘗新嘗。承和六年冬十月、授正三位勲二等天児屋根命従二位、従四位上比売神正四位下。
三代実録曰 貞観元年正月、授従一位勲三等天子屋根命正一位、正四位上勲六等比咩神従三位、承和十年、勅平岡大神宦等、永預把笏。貞観七年冬十月、勅神主一人、給春冬当色軾料絹布等。一如平野梅宮神主、又、春秋二祭、差神祇宦中臣宮人一人、検校祭事、兼付幣帛。又、差琴師一人、供事祭場、立為恒例。十二月、勅河内国平岡神四前。准春日大原野神、春冬二祭奉幣。永以為例。
公事根源云 神護景雲元年六月廿一日、武いかつちノ命、常陸国鹿島より御すみ所たばねに出給ふ。御乗物は鹿にて、柳の木の枝を御むちにもたせ給ふ。伊賀国なばりの郡につかせたまふ。御ともには、中臣の連時風秀行といふ人なり。十二月七日に大和国あべ山につかせ給ふ。同じき三年正月九日、三笠山に跡をたれ給ふて、天児屋根命、いはひ主命、姫太神の御もとへ、おの〱此よしを申させ給ひければ、斎主命は下つふさの国香取よりうつらせ給ふ。天児屋根命は河内国平岡よりうつり給ふ。姫大明神は伊勢国よりうつらせたまふ。姫大神はすなはち天照太神の分神ましますなるべし 下略。また、此月(一月)、かしまの祭、平岡のまつり有。是も、上の申の日、使を発遣せらる。縁起、春日におなじ云々。
当社に、毎歳正月十五日、占穀の祭事とて、神前にて粥を焼(たき)、五穀を其中へ入れて、竹の管を編て一々に名を書付て、熱(にへ)る中へ入れ、神人、これを取出し、管の中へ五穀の入様の次第を考え、其年の豊凶を生土子の諸人に告しらしむ。これを粥卜(かゆうら)といふ。此祭事、所々にあり。難波名所図会にも見へたり。
高津嶽(かうつがだけ) 当社の山嶺をいふ。
照沢 若宮の北にあり。俗に姥ヶ池といふ。
白水池 姥ヶ池の南にあり。池水白し。土色の強きなるべし。
一ノ鳥居 本社より六町許西、京街道にあり。
御旅所 豊浦村に神宮寺ありで、来迎寺の本尊、十一面観音、長壱尺五寸の尊像を安す。
当社御神の霊瑞あり。諺云、天正年中、豊臣秀吉公、三尺を提て百万の兵を指麾し給へば、万国の列侯賓服して、既に天下に威を闘ふ者なし。於是、上奏して曰、近年、足利天下の権を採しより、官領互に鉾先をまじへ、王風衰弊して、天業輝々たる事なし。不侫、尾州に出誕の時、母、夢の中に日輪を呑と見て妊身す。依之、日輪の照す所、麾下に属せずといふ事なし。然れども。三軍五兵の運は徳の末なりと申せば、願は、勅を下して関白の重職を許し給はゝ゛、仁政を施し国民を撫育せん。王道旧に帰して、四海清平ならんと奏し給へば、百官議奏して、遂に、勅許にぞ極りける時に、近衛前久公龍山公曰、関白は執柄の職にして、武家これに任ずるの例いまだ聞ず。むかしより、天子の外戚摂禄の外、これに任する例なしと、独遮り給ふ。然れども、早勅免あれば、是非なく、龍山公、薩摩国へ左遷の御身とぞ成給ふ。然れども、三歳も経ずして帰洛し給ふとぞ聞へし。御下向の砌は、御舩にめされ、難波潟、江口、河尻の辺に御舟を留られ、河内国平岡明神は遠祖天児屋根の御神なれば、こゝに詣しまし〱けり。其時、神前にて御当座あり。
つゝ゛きつゝ近き衛もそれならで身は百敷の遠津嶋守 龍山公
はる〱とつくしの果まて御下向ならせ給ふ。留別の御こゝろにや、神酒を戴かせ給はんとて御土器を乞せ給ふに、其神器、忽然として破れにけり。神人驚き、御土器を取かへ奉る。又、砕て前の如し。故に、前久公、不思議におぼしめし、此度は、先に神酒を勧られ、後に明神へ奉れ給ひしかば、恙もなかりけり。神人、従者も、奇特の思ひをなしにける。此公、御神の遠孫ながら、尊き当官にわたらせ給ひ、特には、徳の勝れさせまし〱て、かゝる奇瑞もありしかと、人々奇異の思ひをなしにける。抑龍山公は、歳星の臣ともいひつべきものか。賢者位に在す時は、徳星天に見る。夷斉は周の粟を喰ず、屈平が廉直たるを、讒人高く張て嘿々たり。子陵は厳子灘に隠れて釣を垂る。これ皆、賢者の炳焉たる也。平岡明神は公の精誠たる賢をしろし召て、御土器を互に取かはし給ふも、又、神徳の新なる所也。其より、額田村の奥なる不動寺、長尾滝など見めぐり給ひ、御舩に召れ、八重の潮風をしのぎ、さつまがたにぞおもむき給ふ。
さつまの国頴娃郡に天満宮を御建立ありて
いつのよにこゝに北野の神となりわかの浦浪よせて見るらん 龍山公
懐中抄 からの湊 たのめともあまの子たにも見へぬ哉いかゝはすへきからの湊に ゝ
名寄 うつほ嶋 さつまかたゑのゝ郡のうつほ嶋これやつくしの富士といふらん ゝ
右の旨趣は、寛永十九年、宇多帝の後胤、葛田従五位上修理権太夫源宣慶の書れし額田寺社縁起の奥書にも粗(ほゝ゛)見へたり。程なく、三年の後御帰洛まし〱て、洛東慈照寺銀閣の風景を賞し給ひ、此寺に閑居し給ふ。又、元禄十二年己夘の秋、天下旱魃す。其時、近衛関白太政大臣基凞公、祈雨の御詠歌御自筆に遊され、御短冊を下し置れ、大明神の神殿へ納奉る所、忽、霊雨頻にして、五穀豊饒す。其時の御歌に、
比良をかにあまくたります神ならば民くささかるゝあはれをはしれ 基凞公
此短冊、神主鳥居氏に有。此後、旱の時、祈雨に神殿へ捧げよと台命ありて、鳥居忠勝へ給ふと也。当神宝、種々、此家に伝来しけるなり。
宝基杜(たからもとのもり) 明神の鎮座、平岡山をいふ。
尾花塚 宇多帝、灯炉寄附ありし跡也。
夏見河 神其の川をいふ。
祝辞石(のつとせき) 四位の橋といふ側にあり。
千代古通(ちよのふるみち) 鳥居の前の道をいふ。
解除川(はらひかは) 神前の細川なり。
夏越岸 はらひ川の岸ならんか。
皇天門 神前の門をいふ。
行合橋 夏越川にかくる橋をいふ。
御旅所 豊浦村属村箱殿と新家との間にあり。土人、一本木といふ。
粥占神事 毎年正月十五日、藍觴年久しくして、本町遯史にも出せり。近隣の農夫集りて、其年の五穀の豊凶をしるなり。
姥ヶ火
土人の諺云、むかし、牧岡の神燈の油を盗取し姥有しに、明神の冥罰にやありけん、かの姥、見る沢の池に身を投、空しくなる。それより、此地の名を姥が池といふ。雨夜には此ほとりより、光もの出て、ゆきゝの人を悩す。其火炎は、姥が首より吹出せる火のやうにも見へ侍るにより、妄執の火なりとて、世俗に姥か火といひ囃しける。高安、恩智までも飛行、雨夜などには今も出るとなり。これは地火ともいふものなり。粗、霖雨の後、暑熱地気に籠りて陰気に刻し、自然と火を生し、地を去る事遠からず、往来の人を送り、あるひは人に、先立て飛行あり。これ、地中の湿気の発するなり。恐るゝに足らず。くはしきは馬場信武の本朝天文志に見へたり。
地図
大阪府東大阪市出雲井町
最寄り駅
近鉄奈良線「枚岡」駅
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