社号 | 仲村神社 |
読み | なかむら |
通称 | |
旧呼称 | |
鎮座地 | 大阪府東大阪市菱江 |
旧国郡 | 河内国若江郡菱江村 |
御祭神 | 己己都牟須比命 |
社格 | 式内社 |
例祭 | 10月16日 |
式内社
仲村神社の概要
大阪府東大阪市菱江に鎮座する式内社です。
当社の創建・由緒は詳らかでありませんが、中臣系の氏族である「中村氏」が祖神を祀ったのが当社と考えられています。
『新撰姓氏録』左京神別に己々都生須比命の子、天乃古矢根命の後裔であるという「中村連」が登載されています。
河内国には見えませんが、中河内もまた中臣氏の祖を祀る「枚岡神社」(出雲井地区に鎮座)があることからもわかるように中臣氏の根拠地であることから、当地に中村氏が居住していたことは十分考えられることでしょう。
現在の御祭神「己己都牟須比(ココトムスヒ)命」は中臣氏の祖神「アメノコヤネ」の父にあたる神です。ただ江戸時代の多くの資料では当社の祭神を不詳としており、古くから一貫して同神が祀られていたわけではなさそうです。
山岳信仰だった「枚岡神社」に対し、当社は旧大和川の分流が河内湖に注ぎ中州を形成した地と思われ、低地における祭祀が行われたことと思われます。農耕に関する豊饒や水の分配を司る神への祭祀が行われたのかもしれません。
一方、当社は疱瘡(天然痘)の神としても広く知られていたようで、祈願の際は大和川(付け替え後は境内の菱澤池)で禊をし、社殿の雨垂れの砂を袋に入れてお守りにしたと言われています。
江戸時代には淡路島の住人が当社に疱瘡治癒を祈願し、晴れて完治したために元文三年(1739年)に朱鳥居が奉納されたと伝えられます。また大阪城代であった堀田正順が伝染病の流行を恐れて当社に祈願し、灯籠が奉納されています。
天然痘の根絶した現在では想像しにくいですが、かつて天然痘の脅威は絶大なもので、罹ってしまうと高い確率で死に至る恐ろしい疫病でした。
天然痘はまさに死活問題であり、当社に託された願いは真剣そのものだったことでしょう。
当社の疱瘡治癒に関する信仰圏の地理的な広さ、そして高位の人物にも信仰されたという人的な広さからしても、当社への崇敬の厚さが偲ばれるものとなっています。
天然痘が過去のものとなった現在では「普通の神社」といった雰囲気ですが、禊の行われた菱澤池がかつての面影を残しています。
境内の様子
境内入口。境内の南東隅に鳥居が南向きに建っています。
周囲は住宅や工場などがあり、かつて近隣諸国から信仰を集めたと思えないような、小さな町中の神社といった雰囲気です。
鳥居をくぐって右に曲がると注連柱と朱鳥居が西向きに建っています。
江戸時代に淡路島の人が当社に祈願して疱瘡が完治し、感謝して元文三年(1739年)に朱鳥居を奉納したと言われており、この鳥居が恐らくそうなのでしょう。
朱鳥居をくぐって右側(南側)に手水舎があります。
朱鳥居から石畳に従いやや右寄りに曲がって進むと社殿が西向きに並んでいます。
拝殿は銅板葺の平入入母屋造りに向拝が付いたもの。
拝殿前に配置されている狛犬。真新しいもので、たてがみが立派です。
拝殿後方に銅板葺・妻入切妻造の覆屋が建っており、この中に本殿が納められているようです。
本社拝殿前の左側(北側)に「稲荷大神」が南向きに鎮座。
八基もの朱鳥居が並び、奥に銅板葺の流見世棚造の社殿が建っています。
本社社殿の後方、境内の東側に三社の境内社が西向きに並んで鎮座しています。
左側(北側)から順に「歯神社」「琴平宮」「空八竜王」。
社殿はいずれも流見世棚造ですが、「歯神社」と「琴平宮」は銅板葺、「空八竜王」は石祠となっています。
境内の南東に「菱澤池」があり境内社として「水神」が北西向きに祀られています。社殿は銅板葺の流見世棚造。
かつて疱瘡治癒の祈願の際はかつて近くを流れていた大和川に入り禊を行っていたといい、大和川の付け替え後はこの菱澤池で禊を行ったと伝えられます。
疱瘡(天然痘)が根絶した今ではその信仰もなくなり、菱澤池もコンクリートで固められ水がなくなっています。
案内板
菱澤池
由緒
案内板
菱江と仲村神社
案内板
仲村神社略記《延喜式内社》
『河内名所図会』
地図
関係する寺社等
枚岡神社 (大阪府東大阪市出雲井町)
社号 枚岡神社 読み ひらおか 通称 枚岡大社 等 旧呼称 平岡社 等 鎮座地 大阪府東大阪市出雲井町 旧国郡 河内国河内郡出雲井村 御祭神 天児屋根命、比売御神、経津主命、武甕槌命 社格 式内社、河 ...
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