社号 | 大神神社 |
読み | おおみわ |
通称 | |
旧呼称 | 三輪明神 等 |
鎮座地 | 奈良県桜井市三輪 |
旧国郡 | 大和国式上郡三輪村 |
御祭神 | 大物主大神 |
社格 | 式内社、二十二社、大和国一宮、旧官幣大社 |
例祭 | 4月9日 |
大神神社の概要
奈良県桜井市三輪に鎮座する式内社です。『延喜式』神名帳には名神大社に列し、二十二社の中七社の一つにも列せられ、さらに大和国一宮ともされ、古くから現在に至るまで非常に有力な神社です。
当社には拝殿はあるものの本殿に相当する施設が無く、背後に聳える「三輪山」を神体山として祭祀しており、非常に古い信仰の形態を現在に伝えています。
三輪山の山上にはいくつもの岩石があり、これらを磐座として祭祀してきたとされています。上から奥津磐座、中津磐座、辺津磐座の三つの磐座群に分かれており、非常に古い時代から磐座に神籬を立てて祭祀してきたことが考えられます。
当社の御祭神は「大物主大神」であり、これは一般的には「大国主神」「大己貴命」と同一の神とされていますが、別の神であるとする説も有力で、「事代主神」の別名であるとする説もあります。
当地に大物主大神が鎮まったことが当社の創建ですが、その様子は様々な文献が伝えています。『日本書紀』によれば次のように記しています。
『日本書紀』(大意)
大己貴命(またの名を大物主神)は少彦名命と心を一つにして国作りをしてきたが、少彦名命は常世国へ帰ってしまった。そこで大己貴命が出雲国へ至り、「私は葦原の中つ国をよく治め、従わない者はいない。今この国を治めているのはただ私一人だけだ。私と共に天下を治めてくれる者が他にいるだろうか」と言うと、海を照らして光る不思議なものが忽然と浮かんできた。これが言うには「私がいなければあなたはこの国を治められないだろう。私がいるからあなたはこの業績を成し遂げられたのだ」と。大己貴神が「あなたは誰だ」と問うと「私はあなたの幸魂・奇魂である。私は日本国の三諸山(=三輪山)に住みたいと思う」と答えたので宮を造営して住まわせた。これが「大三輪の神」である。
このように、オオナムチが海を照らして浮かんできたものと対峙し、これはオオナムチ自身の「幸魂」「奇魂」であると答え、これを三諸山(三輪山)に祀って大三輪の神としたことが記されています。
「幸魂」「奇魂」について『日本書紀』には何ら説明がありませんが、本居宣長は『古事記伝』において、魂は「和魂」と「荒魂」の二面があり、さらに和魂は幸や恵みをもたらす「幸魂」と神秘的な働きをもたらす「奇魂」があると説明しています。
オオナムチが己の魂の一面と対峙し、それを自ら祀ったのはまるでドッペルゲンガーのようでやや不思議な伝承と言えます。
一方、『出雲国造神賀詞』には「大穴持命(オオナムチ)の言うには、「皇御孫の鎮まり坐す大倭国」として、己の和魂を八咫鏡に依り憑かせて倭の「大物主櫛玉命」と名を称して大三輪の神奈備に坐した」との旨があります。
オオナムチが八咫鏡に自身の和魂を憑かせて「大物主櫛玉命」と名乗り、当地に鎮まったことが示されています。
これらの当社の創建伝承から当社で祀られている神「大物主大神」とはオオナムチ(オオクニヌシ)の和魂(幸魂・奇魂)であると理解されています。
尤も先述の通り当地における祭祀は非常に古く、大和政権の支配の及ぶ遥か以前から在地の人々に祭祀されていたと考えられ、やがて大和政権が当地の信仰を重視するようになり当地の伝承を記紀神話に組み込み体系化したことが推測されます。
記紀にはこれ以降も当地の神の登場する箇所があります。『日本書紀』崇神天皇七年の条に次のように記されています。
『日本書紀』(大意)
この頃幾度もの災害があったので、天皇は神浅茅原で八十万神を以て卜占をした。この時、倭迹迹日百襲姫命に神が憑いて「何を憂うことがあろうか。私をよく祀れば自ずと平穏になろう」と言ったので、天皇は「あなたは何という神か」と問うと「私は倭国の境にいる神で名を大物主神という」と答えた。しかしこの通りにしたがそれでも収まらなかった。そこで再び祈ったところ夢に大物主神が現れ、「愁うことはない。私の子である大田田根子に祀らせれば平穏になるであろう」と言った。
そこで大田田根子を探したところ、茅渟県の陶邑に大田田根子がいたので、天皇が大田田根子に「そなたは誰の子か」と問うと「父は大物主大神、母は活玉依媛である」と答えた。
天皇は喜び、大田田根子に大物主大神を祀らせた。すると疫病は終息し五穀も実り百姓は豊かになった。
このように、大物主神の子であるという「大田田根子」なる人物に大物主神を祀らせたところ平穏になったことが記されています。
大田田根子の出身地である「茅渟県の陶邑」とは大阪府南部の丘陵地帯にあたり、大阪府堺市中区上之の「陶荒田神社」を奉斎したとも伝えられています。
大田田根子は三輪君らの祖であるとされ、その子孫が当社の神官である大神氏となります。
また『古事記』では大田田根子を大物主神・活玉依毘売の五世孫としていますが、彼が神の子であることを証明する際に印象的な伝承を挿入しています。
『古事記』
活玉依毘売は美しい人物だった。ここにある男がおり、これまた容姿に優れた人物で、いつも夜中に通っている内に毘売は妊娠した。毘売の父母は怪しんでその人物の正体を知ろうとし、毘売に赤土を床に散らしておき、針に麻糸を通してその人物の衣に針を刺しておくよう教えておいた。その通りにして翌朝見たところ、麻糸は戸の鍵穴から出て行って、残っている麻糸はわずかに「三輪」だけであった。その糸をたどっていくと美和山に至って神の社まで続いていた。そこでその神の子と知った。その麻糸の三輪残ったことによってその地を美和というのである。
ここでは大田田根子の五世祖の正体が大物主神であると判明した経緯と共に、美和(三輪)の語源説話も語られています。
さらにその後の話として『日本書紀』崇神天皇十年の条に次のように記されています。
『日本書紀』(大意)
倭迹迹日百襲姫命は大物主神の妻となった。しかしその神は昼には見えず、いつも夜に来た。そこで姫は「あなたは昼に来ないのでその顔がわからない。その顔が見たいので明日の朝までいてほしい」と言うと大神は「もっともだ。明日の朝、あなたの櫛笥の中に入っていよう。ただし私の姿を見て驚かないでほしい」と答えた。明くる朝、櫛笥を見ると美麗な小蛇がおり、その長さは衣の紐のようであった。姫は驚き泣き叫んだので大神は恥をかき、忽ち人形と化して妻に「あなたは私に恥をかかせた。私もあなたに恥をかかせよう」と言って空を飛んで御諸山(=三輪山)に登った。姫は仰ぎ見て悔やみ、陰部に箸を撞いて死んでしまった。姫は大市において葬られ、その墓は箸墓という。
このように、大田田根子の伝承で倭迹迹日百襲姫命に憑いた大物主神はその倭迹迹日百襲姫命と結婚しました。そしてその正体が蛇であることが示され、さらにその際に亡くなった倭迹迹日百襲姫命の墓は現在の箸墓古墳であると記されています。
当社の神が蛇であることは古くから信じられており、これ以降でも『日本書紀』雄略天皇六年七月三日の条に天皇が三輪山の神が見たいと望んだので少子部蜾蠃が大きな蛇を捕らえた話が記載されています。
また先の『古事記』の話も麻糸が鍵穴を通っていたことから蛇であることが示唆されており、全国に分布する類話でも女の元に通う男の正体が蛇であったとする民話が多数採集されています。
当社の祭祀の原初的な信仰が蛇神祭祀だったことが示唆される一方、現在でも社殿前の杉に卵が供えられるなど、当社の神が蛇であることは根強く信じられています。
当社は記紀に頻りに言及されていることに加え、古い形態の信仰を残すことから、「日本最古の神社」とも称されています。
古くから有力な神社であることに加え、近年は本殿を持たない神秘的な祭祀形態が評価され、ますます多くの参拝者が訪れるようになっています。
境内の様子
当社社殿の1kmほど西方に非常に大きな「大鳥居」が西向きに建っています。鳥居越しに当社の神体山である三輪山を望むことができ、当社参拝において非常に印象深い光景です。
ただしこの鳥居は厳密には一の鳥居ではありません。
一の鳥居は大鳥居の一つ南側の道路に沿って南西向きに建っています。
本来はここからが表参道になるはずですが、現在は鉄道利用でも車利用でも動線から外れたひっそりとした場所になっており、ここから参拝する人は殆どいないでしょう。
大鳥居もしくは一の鳥居をくぐると松の木の並んだ長い参道が続いています。途中JR桜井線(万葉まほろば線)の踏切を渡ります。
さらに参道を進んでいくと鬱蒼とした森が見えてきて、いよいよ本格的に神域に入ります。
その入口に二の鳥居が西向きに建っています。
二の鳥居をくぐった様子。非常に鬱蒼とした照葉樹林で昼でも暗い参道となっています。
参道の途中、左側(北側)に「祓戸神社」が南向きに建っています。御祭神は「瀬織津姫神」「速秋津姫神」「気吹戸主神」「速佐須良姫神」。
鳥居が建ち、瑞垣内に銅板葺の春日見世棚造の社殿が建っています。
祓戸神社は大和国の大きな神社で参道途中によく見かける神社で、まず当社に参拝することで穢れを祓い身を清めるのが習わしとなっています。
案内板
大神神社末社 祓戸神社
さらに参道を進みます。途中に小さな橋があり、その奥に石段が続いています。
橋を渡ってすぐ左側(北側)に「夫婦岩」と呼ばれる岩石があります。前面に鳥居が建ち、瑞垣内に囲われています。
かつては「聖天石」と呼ばれたもので、二つの岩石が並ぶ様子から縁結びや夫婦円満に霊験があると信じられています。
案内板
夫婦岩
さらに石段を上っていくと左側(北側)に手水舎が建っています。檜皮葺の平入入母屋造で手水舎にしては重厚な建物です。
吐水は当社の祭神の正体とされる蛇を象ったものとなっています。
参道は手水舎の前で最後の石段が続いており、その上に注連柱が建っています。
注連柱をくぐると広い空間となっており、その正面に社殿が西向きに建っています。
拝殿は檜皮葺で、平入切妻造に裳階が付き、正面に軒唐破風の付いた妻入入母屋造の向拝が付いたもの。桁行九間・奥行四間の大規模な建物です。
「古い信仰の形態を残す」と言われる割には異様に装飾過多な印象を受ける拝殿です。
この拝殿は寛文四年(1664年)に徳川家綱によって再建されたもので、国指定重要文化財となっています。
先述の通り当社には拝殿の後方に本殿が無く、背後の三輪山を神体山として信仰の対象としています。
そのため本殿が建つ代わりに三輪山を遥拝するための「三ツ鳥居」と呼ばれる特殊な鳥居が建てられており、これは三つの明神鳥居を横並びに接続したもので、四本の柱で構成された珍しい鳥居です。こちらも国指定重要文化財。
当社摂社の「桧原神社」や大阪府大阪市の「坐摩神社」にも同様の三ツ鳥居が建てられています。
社殿前には「巳の神杉」と呼ばれる樹齢四百年ほどの杉があります。この杉から白い蛇が出入りするとされており、「巳さん」と親しまれています。
このため杉の前に設けられた拝所には酒と共に蛇の好物とされる卵が供えられています。
案内板
巳の神杉
境内北西側の様子
大美和の杜
境内の北側一帯の高台は「大美和の杜」と呼ばれており、展望台が設けられ西側に奈良盆地を見渡すことができます。
展望台からは眼前の大鳥居の他、耳成山や畝傍山、天香具山といった大和三山、さらにその奥には二上山や葛城山、金剛山といった奈良盆地を囲む山々まで望むことができます。
久延彦神社
境内の北西側には「久延彦神社」が鎮座しています。御祭神は「久延比古命」。
境内北西を東西に延びる道に面して入口があり、北側の丘の上へ石段が続いています。石段下と石段途中の二カ所に鳥居が建っています。
石段を上ると社殿が南向きに並んでいます。拝殿は桟瓦葺・妻入入母屋造で、左側(西側)に平入切妻造の社務所が接続しています。
拝殿後方には本殿を納めた覆屋(?)らしきものが建っています。
記紀のオオクニヌシの国作りにおいて、オオクニヌシの元に海の向こうから小さな神がやってきたものの名がわからず、ヒキガエルの多邇具久(たにぐく)が「クエヒコなら知っているであろう」といい、クエヒコに尋ねると「その神はスクナヒコナだ」と答えた、とあります。
さらに『古事記』によればクエヒコは「山田のそほど」つまり「カカシ」であるとも記されています。
クエヒコとは「崩え彦」の意であり、風雨に晒され身体が崩れて歩けないカカシの姿を表すとも言われています。
カカシは田の神であり、神の憑依する依代ともされたのでクエヒコは農耕神であるとも考えられる一方、当社では久延比古命は物知りでありスクナヒコナの名も知っていたことから知恵の神として信仰されています。
現在では試験合格や就職成就に験があるとして広く信仰されています。
案内板
学業の守護神・知恵の大神
大神神社末社 久延彦神社
久延彦神社の社殿前からも奈良盆地を見渡すことができます。
久延彦神社の社地は大美和の杜と地続きの高台で、社殿前から直接大美和の杜の展望台へ行くこともできます。
大直禰子神社(若宮社)
久延彦神社の西側に「大直禰子神社(若宮社)」が鎮座しています。御祭神は「大田田根子命」「少彦名命」「活玉依姫命」。
大神神社の社家である大神氏が祖神であり大神神社の初代神主である「大田田根子命」を祀ったのが当社であると言われています。
元々は大神神社に三つある神宮寺の一つ「大御輪寺(だいごりんじ)」の境内に鎮座していましたが、明治の廃仏毀釈により廃寺となり、寺の本堂をそのままに神社としたものです。
当社は久延彦神社と違い丘の下に鎮座しており、入口には南向きの鳥居が建っています。
鳥居前に配置されている狛犬。花崗岩製です。
大神神社本社には狛犬がありませんが、当社ではこのように狛犬があります。恐らく大御輪寺の頃からのものでしょう。
鳥居をくぐって右側(東側)に手水鉢があります。
鳥居をくぐって正面に南向きの社殿が建っています。本瓦葺・平入入母屋造で桁行五間・奥行五間の大規模な建物です。
先述の通り元々は大御輪寺の本堂だったものです。そのため拝殿・本殿といった神社建築の構成になっておらず、建物内の内陣に御神体が祀られています。
この建物は弘安八年(1285年)の建立で室町時代までに数度の改修を経ていますが、内陣には奈良時代の部材が含まれており、極めて貴重な建築で国指定重要文化財となっています。
また大御輪寺時代には現在桜井市の聖林寺にある国宝の十一面観音菩薩立像がここに安置されていました。
案内板
大神神社摂社 大直禰子神社(若宮社)
社殿前には「御饌石(みけいし)」と呼ばれる石があり、正月のご神火まつりの時に久延彦神社に神饌を備える石です。
丘の上に鎮座する久延彦神社に参拝できない人が遥拝するための遥拝所ともなっています。
案内板
御饌石
境内の西側に「御誕生所社」なる神社(?)があり、社殿はなく岩石が祀られています。鳥居の奥の塀で囲われた空間内の瑞垣内に鎮座。
御祭神は「鴨部美良姫命」。『先代旧事本紀』で大田田根子命の母親とされる神です。安産の守護神とされているようですが詳細不明。
境内の東側に「琴平社」が西向きに鎮座。御祭神は「大物主神」。鳥居が建ち、瑞垣内に春日見世棚造の社殿が建っています。
境内北側の様子
本社社殿から北側へは道が伸びており、三輪山の麓から春日山の麓までを結ぶ古道「山の辺の道」の経路ともなっています。
活日神社
本社社殿の北側、山の辺の道の東側の崖上に「活日(いくひ)神社」が鎮座。御祭神は「高橋活日命」。崖下に北向きの鳥居が建ち、石段上に西向きの妻入切妻造の社殿が建っています。
高橋活日命とは酒を醸造して大物主神に奉った神で、当地付近の酒造家から厚く崇敬を受けています。
高橋活日命が一夜にして酒を醸造したことから当社は古く「一夜酒社(ひとよさけのやしろ)」とも呼ばれました。
大神神社と酒の関係は深く、毎年11月14日に行われる醸造安全祈願祭で拝殿に杉玉が吊るされるのが恒例となっており、これが全国に伝わり全国の造り酒屋に新酒が出来た合図として杉玉を吊るす風習が行われるようになったとも言われています。
案内板
大神神社摂社 活日神社
磐座神社
活日神社の北方、山の辺の道の東側に「磐座神社」が鎮座。御祭神は「少彦名神」。鳥居が建ち瑞垣に囲われているものの社殿は無く、見えにくいですが瑞垣内には岩石が鎮座しています。
三輪山にある磐座群の一つ、辺津磐座に属する磐座とされています。
案内板
大神神社摂社 磐座神社
お知らせ
磐座神社の北方には大神神社摂社の「狭井神社」が鎮座しています。狭井神社については別記事にて紹介していますので併せてご覧ください。
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狭井神社 (奈良県桜井市三輪)
社号 狭井神社 読み さい 通称 華鎮社 等 旧呼称 鎮座地 奈良県桜井市三輪 旧国郡 大和国式上郡三輪村 御祭神 大神荒魂神、大物主神、姫蹈鞴五十鈴姫命、勢夜多多良姫命、事代主神 社格 大神神社摂社 ...
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貴船神社
狭井神社から山の辺の道をさらに北へ進むと東の斜面上に「貴船神社」が西向きに鎮座しています。御祭神は「淤加美神」。
石段上に鳥居が建ち、瑞垣内に春日見世棚造の社殿が建っています。
案内板
大神神社末社 貴船神社
貴船神社の社殿の傍らに瑞垣に囲われて岩石が鎮座しています。磐座の類でしょうか。詳細不明。
お知らせ
貴船神社の北方には大神神社摂社の「桧原神社」が鎮座しています。桧原神社については別記事にて紹介していますので併せてご覧ください。
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桧原神社 (奈良県桜井市三輪)
社号 檜原神社 読み ひばら 通称 旧呼称 鎮座地 奈良県桜井市三輪 旧国郡 大和国式上郡三輪村 御祭神 天照若御魂神、伊奘諾命、伊奘冊命 社格 大神神社摂社、式内社 例祭 2月15日 式内社 大和國 ...
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境内南側の様子
本社社殿のすぐ右側(南側)に「神宝神社」が西向きに鎮座。御祭神は「家都御子神」「熊野夫須美神」「御子速玉神」。
鳥居が建ち、その奥に瑞垣と春日見世棚造の社殿が建っています。
熊野三神を祀っており、古くは「熊野権現」と称していました。
案内板
大神神社末社 神宝神社
天皇社
神宝神社の南方の崖上に「天皇社」が鎮座。御祭神は「御真木入日子印恵命(崇神天皇)」。
山の辺の道の東側の崖下に南向きの鳥居が建ち、石段上の空間に瑞垣に囲まれて妻入切妻造の社殿が西向きに建っています。
大神神社の神主に大田田根子が選ばれ、さらに倭迹迹日百襲姫命が大神神社の神である大物主神の妻となったのも崇神天皇の御代であり、大神神社の基礎が作り上げられた頃の天皇として深い関係を持っているとも言えます。
案内板
大神神社末社 天皇社
成願稲荷神社
天皇社の南側、山の辺の道の西側に「成願稲荷神社」が北向きに鎮座。御祭神は「宇迦御魂神」。
朱鳥居が建ち並び、塀が設けられ、桟瓦葺の流見世棚造の社殿が建っています。
大神神社の三つあった神宮寺の一つ「浄願寺」の鎮守社として正応三年(1290年)に創建されたと伝えられています。
案内板
大神神社末社 成願稲荷神社
お知らせ
成願稲荷神社の南方には大神神社摂社の「神坐日向神社」が鎮座しています。神坐日向神社については別記事にて紹介していますので併せてご覧ください。
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神坐日向神社 (奈良県桜井市三輪)
社号 神坐日向神社 読み みわにますひむかい 通称 旧呼称 御子宮 等 鎮座地 奈良県桜井市三輪 旧国郡 大和国式上郡三輪村 御祭神 櫛御方命、飯肩巣見命、武甕槌命 社格 大神神社摂社、式内社 例祭 ...
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神社周辺の様子
当社周辺は全国有数の素麺の産地で「三輪素麺」としてブランド化しています。
伝承では奈良時代の当社の神主だった大神穀主という人物が、飢饉に苦しむ民の姿を憂えて神に祈願したところ、神の啓示を得て小麦の生産を行い素麺作りを始めたとも言われています。
当社は素麺作りの守護神としても信仰されており、毎年2月15日に素麺の卸値を占う卜定祭が行われています。
当社二の鳥居の近くにある「そうめん處 森正」さんでは美味しい三輪素麺をいただくことができます。冷たい素麺の他、暖かいにうめんもあるので冬でも美味しくいただけます。
また当社大鳥居前の「白玉屋榮壽」は弘化元年(1845年)の創業で、「みむろ最中」が名物となっています。
香ばしい皮種の中に甘い餡がたっぷり入った美味なお菓子です。当社の参拝の際は是非。
お知らせ
大神神社の西方には大神神社摂社の「綱越神社」が鎮座しています。綱越神社については別記事にて紹介していますので併せてご覧ください。
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また、大神神社の周辺には他にも多くの摂社・末社が鎮座しています。


御朱印・御朱印帳
由緒
案内板
大和国一ノ宮 三輪明神 大神神社
案内板
大和国一ノ宮 三輪明神 大神神社
地図
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