社号 | 伊弉冊神社 |
読み | いざなみ |
通称 | 佐奈岐神社 |
旧呼称 | |
鎮座地 | 兵庫県明石市岬町 |
旧国郡 | 播磨国明石郡中庄村 |
御祭神 | 伊弉册大神 |
社格 | 式内論社、旧県社 |
例祭 | 10月第2日曜日 |
伊弉冊神社の概要
兵庫県明石市岬町に鎮座する神社です。
社伝によれば、崇神天皇六年九月十日に勧請されたと伝えられています。
宝亀二年(771年)には四町四方(約18.7ha)が赦免地となり、別所氏が三木城主となった際には五十石の社領が寄進され、広大な境内を有していたと伝えられます。
かつての境内は東西に連なる松林だったといい「さなぎの森」と呼ばれていました。今でも当社は「佐奈岐神社」とも呼ばれています。
古くサナギとは鉄鐸(祭祀に用いる鉄製の鈴)を指したことが知られていますが、当社との関係の有無は不明。
一方、江戸時代の地誌『播磨鑑』によれば当社は「岩屋神社」(材木町に鎮座)の御旅所だったといい、両社に深い関係があったことが窺えます。
当社は社名に示す通り「伊弉册大神」を御祭神としており、「岩屋神社」と同様、或いは淡路島から勧請されたのかもしれません。
また、式内社「伊和都比賣神社」および式内社「彌賀多多神社」を当社に比定する説があるものの、その根拠ははっきりしません。
当社は嘉吉年間(1441年~1444年)の赤松氏の和坂の戦い、天文年間(1532年~1555年)の放火、天正六年~八年(1578年~1580年)の羽柴秀吉による三木合戦、さらには昭和二十年(1945年)の明石空襲と度重なる焼失を経験しています。
そのため幾度も社殿や記録等が失われたものの、その度に再建が行われ、現在もなお明石において広く崇敬を集めています。
境内の様子
当社の参道は海岸の堤防から続いています。古くは社前が砂浜だったことでしょう。
参道を進み道路を横断したところに境内入口があります。
当社に鳥居は無く、代わりに入口には注連柱が建っており、そこから社殿までまっすぐ石畳が伸びています。
注連柱をくぐって石畳の参道を進むと左側(西側)に朱塗りの手水舎が建っています。
境内の正面奥に社殿が南向きに並んでいます。
拝殿は銅板葺の平入入母屋造に向拝の付いたもの。
拝殿前の左右に配置されている狛犬。花崗岩製の真新しいものです。
拝殿後方には銅板葺の流造の本殿が建っています。幣殿で拝殿と接続しており、権現造状の構造となっています。
本社拝殿の左側(西側)に朱塗りの柵があり、その一部に開口部があって通り抜けられるようになっています。
この奥は境内社の鎮座する空間となっており、朱塗りの鳥居が南向きに建っています。
朱鳥居をくぐって左側(西側)に「福徳三宝荒神社」が東向きに鎮座。
銅板葺の妻入切妻造の拝殿、および銅板葺の神明造の本殿で構成されています。
福徳三宝荒神社の右側(北側)に銅板葺の流見世棚造の境内社が東向きに、その手前右側(北東側)に鉄板葺の流見世棚造の境内社が南向きに鎮座。
社名・祭神はいずれも不明。
境内社の空間とを仕切る柵の手前には「三本松」と呼ばれる御神木があります。
この松は二代目であるといい、まだまだ植えてからそう経っていないようです。一代目の消滅が空襲なのか枯死なのかは不明ながら、往時はさぞや立派な松だったのでしょう。
由緒
案内板
伊弉冊神社のご祭神及び由緒
地図
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