社号 | 木梨神社 |
読み | こなし |
通称 | |
旧呼称 | 藤田大明神、聖九社明神 等 |
鎮座地 | 兵庫県加東市藤田 |
旧国郡 | 播磨国加東郡藤田村 |
御祭神 | 八十枉津日神、大直日神、神直日神、底津少童神、中津少童神、表津少童神、底筒之男神、中筒之男神、表筒之男神 |
社格 | 式内社、旧郷社 |
例祭 | 10月第1日曜日 |
式内社
木梨神社の概要
兵庫県加東市藤田に鎮座する神社です。
案内板によれば、崇神天皇の御代に物部八十手がこの地に八十枉津日神を祀り、後に彦坐命が丹波の賊を征伐する際に当地で神託があり当社を創建したとしています。
ここにいう「物部八十手(もののべのやそで)」は『日本書紀』崇神天皇七年十一月十三日条に見え、「大神神社」(奈良県桜井市三輪)および「大和神社」(奈良県天理市新泉)の神を祀らせる際に伊香色雄(イカガシコオ)に命じて物部八十手に供物を用意させたことが記されています。
伊香色雄は物部氏の祖の一人であり、物部八十手とは物部氏の配下にいる人々といった意味です。
案内板の「物部八十手が…」云々はこの記事を受けたものと思われますが、上述のようにこれは「大神神社」および「大和神社」の祭祀に関わる記事であり当社は全く関係ありません。
加えて当地において物部氏の痕跡も特にありません。
また次に見える彦坐命とは開化天皇の第三皇子で、『古事記』においては崇神天皇の命を受けて丹波国へ派遣され玖賀耳之御笠(クガミミノミカサ)を討ったことを記しています。
案内板の「彦坐命が…」云々はこの記事を受けたものと思われますが、記録の上では当地を訪れたとする記述はありません。
このように案内板に記されている由緒は記紀の記述を受けたものではあるものの当社との関係は見えず、そのような伝承が古くからあった可能性はあるものの、基本的には当社の創建を崇神天皇の御代にまで遡らせるための創出と見るのが妥当でしょう。
一方で案内板は木梨軽太子が神前に幣帛を捧げた故に社号を木梨神社と呼ぶようになった旨も記しています。
木梨軽太子(木梨軽皇子)とは允恭天皇の第一皇子です。木梨軽皇子の同母妹に酒見皇女がおり、加西市に酒見の地名・社名(「住吉神社」(加西市北条町)の記事も参照)があることから、木梨もまた同じ旧・賀茂郡内である当地・当社を指す可能性が指摘されています。(『特選神名牒』等)
ただし他に特に木梨軽皇子との接点は無く、これも“木梨”の名からの付会と見るべきかもしれません。
このように当社由緒は付会や脚色が多いように見受けられ、当社の創建・由緒ははっきりしないのが実情でしょう。
ただ当地「藤田」の西に隣接して「木梨」の地名があることから当地付近に式内社「木梨神社」が鎮座していたことは確実です。木梨地区には「八幡神社」が鎮座しているものの、そちらは式内論社ではないようです。
醍醐天皇の御代には源満仲が当地に大池(多田池)を築造し、彼によって当社が再建されたと伝えられています。
この多田池に大蛇が住み、当地の藤田三郎太夫行安が退治した伝承があることは注目に値するものでしょう。(伝承の詳細は下記「由緒」参照)
現在の当社の御祭神は「八十枉津日神」「大直日神」「神直日神」「底津少童神」「中津少童神」「表津少童神」「底筒之男神」「中筒之男神」「表筒之男神」の九柱。
いずれも黄泉から帰ったイザナギが禊をした際に生まれた神々です。
「底筒之男神」「中筒之男神」「表筒之男神」はいわゆる住吉三神で、加古川流域には住吉神社が非常に多く分布することから当社でもこの信仰が取り入れられたのかもしれません。
ただし江戸時代には祭神不明となっていたようで、『神社覈録』は上記の「木梨軽皇子」ではないかとも記しています。
一方でかつては「聖九社明神」とも称したといい、古くから九柱の神を祀っていたことも窺われます。
境内の様子
当社の鳥居は境内の南西約200mほどの地に南西向きに建っています。
鳥居からの参道は高速道路が通っており、その高架下のトンネルをくぐり抜けた先に当社境内があります。
境内入口は石垣が積まれて玉垣が設置され、立派な樹木も聳え立っています。
石段を上ると広い空間に石畳が伸びており、その正面奥に社殿が南西向きに並んでいます。
拝殿は二棟建っており、手前側に建つ拝殿は桟瓦葺の平入入母屋造の割拝殿。
割拝殿内の左右の部屋の様子。長床状になっています。
割拝殿の通路の奥に石段があり、その下の左側(北西側)に手水鉢が設置されています。
割拝殿奥の石段の上に二つ目の拝殿(以下「奥側拝殿」と表記)が建っています。
こちらは銅板葺の平入入母屋造で、鈴の緒はこちらに設置されています。
奥側拝殿の手前に配置されている狛犬。
奥側拝殿の後方に玉垣に囲われて銅板葺の三間社流造に千鳥破風と軒唐破風の付いた本殿が建っています。
本社本殿の左側(北西側)に三社の境内社が一つの覆屋に納められて南西向きに並んでいます。
左側(北西側)から順に「愛宕神社」「八幡神社」「恵比須神社」が鎮座。
社殿はいずれも板葺の一間社流造。
上記三社の左側(北西側)にやや離れて「大歳神社」が南西向きに鎮座。
板葺の一間社流造の社殿が覆屋に納められています。
大歳神社の手前左側(西側)に円形に石垣の積まれた区画があり、ここに「金刀比羅神社」が南東向きに鎮座。
円形の区画上に銅板葺の流見世棚造の社殿が建っており、手前側に簡易の拝所が建てられ、奥には樹木や石碑等があります。
反対側、本社本殿の右側(南東側)に「市杵嶌神社」が南西向きに鎮座。
桧皮葺の一間社流造の社殿が覆屋に納められています。
市杵嶌神社の右側(南東側)に「藤田三郎太夫」を祀る境内社が南西向きに鎮座。藤田三郎太夫とは当地の池の大蛇を退治したと伝わる人物です。(詳細は下記由緒参照)
社殿は銅板葺の妻入切妻造。
藤田三郎太夫を祀る境内社の手前右側(南側)に「太神社」が北西向きに鎮座。
社殿は銅板葺の流見世棚造。
本社割拝殿の手前左側(西側)には茅葺の妻入入母屋造の能舞台が建っています。
東播磨では神社境内に能舞台を設置する神社が多く、民衆の娯楽として盛んに能が演じられていたようです。中でも茅葺で残っているのは珍しい例です。
由緒
案内板
木梨神社
地図