社号 | 住吉神社 |
読み | すみよし |
通称 | |
旧呼称 | 酒見明神社 等 |
鎮座地 | 兵庫県加西市北条町北条 |
旧国郡 | ?(播磨国加西郡市場村 or 寺内村) |
御祭神 | 酒見神、底筒男命、中筒男命、表筒男命、神功皇后、大歳神、八幡神 |
社格 | 式内論社、旧県社、播磨国三宮 |
例祭 | 4月第1土曜日・日曜日 |
式内社
住吉神社の概要
兵庫県加西市北条町北条に鎮座する神社です。中世には播磨国三宮とされ、古くから有力な神社でした。
また、式内社「坂合神社」を当社とする説があります。
「住吉大社」(大阪府大阪市住吉)に伝わる古文書『住吉大社神代記』において、全国九ヶ所ある「大神の宮」の一つとして「播磨國賀茂郡住吉酒見社三前」と当社を記していることから、古くから「住吉大社」と関係が深く、また住吉神を祀っていたことがわかります。
当社の創建について、社伝によれば次のように伝えています。
- 養老元年(717年)、鎌倉峰(当地の北東約7km)に老夫婦と五人の従者が訪れ、その展望に感嘆した。
- その後一行は三重里(現在の北条町)に立ち寄り、当地の豪族の山部氏に宿を借りた。
- 一昼夜にして田圃に植えた稲苗が大松に化け、驚いた当地の人々と相談して松林の中に社殿を造営して神を祀った。
- 当初は黒駒村南の向山に祀られていたものの後に現在地に遷された。
このように当初は向山なるところに鎮座していたようです。その旧地は恐らく現在地の南方約1kmほどにある小丘でしょう。
また中世の地誌『峯相記』にも当社の由緒について次のように記しています。
『峯相記』(大意)
酒見大明神。養老六年(722年)壬戌に住吉大明神と五所の王子が当国に坐した。まずは鎌倉峰に降臨したが、付き従っていた神である佐保明神が私心で「この峰はよくない」と述べて三重の北条へ案内した。鴨坂北谷石上(※現在地不明)に休息していたとき、佐保明神は神宝を盗んで加東川(※今の加古川か?)の東へ逃げてしまった。追いつけなかった王子は憤慨して遠い所に崇め祀った。
ここに山酒人という人物が田圃六町を植えるとき、俄かに槻の木一本が門内に生えた。そこに白髪の老翁と貴女と若君三人が宿を乞い、摂津国住吉の辺りから来たと言った。ただの人でないと思った山酒人が宿を貸したところ、植えた苗が一夜にして槻の木となった。林中に宝殿を作って両大明神を崇め祀った。社殿は本社(住吉大社)の風儀に倣った。山酒人の子孫が神主を務めた。
(以下略)
この『峯相記』の記述は上記の当社社伝と共通する部分もあり、恐らく『峯相記』がより古く、これを元に時代と共に変更や修正が加えられたのが上記の当社社伝になるものと思われます。
『峯相記』に登場する「佐保明神」とは現在の「佐保神社」で、兵庫県加東市社と兵庫県加東市東実の二ヶ所に鎮座しています。
この「佐保神社」は元は鎌倉峰に鎮座していたと伝えられ、また当社と同様に式内社「坂合神社」の論社でもあります。
『峯相記』によれば当社の神は当初はこの鎌倉峰に降臨したものの、付き従っていた佐保明神が自身の鎮座地であったためか他所へと案内することになります。
しかしここで佐保明神は神宝を盗んで逃げてしまったといい、同じ式内社の論社である両社の神はまさに因縁の関係であると言えることでしょう。
当社が式内社「坂合神社」の論社となった根拠は、当社の古い呼称「酒見(サカミ)」がサカアヒに通じることによるようです。
「佐保神社」もまたサカアヒがサカホ、そしてサホとなったとし、やはり同様の理由を挙げています。
『古事記』や『新撰姓氏録』などの古記録には「坂合部」を名乗る氏族をいくつか記しており、『新撰姓氏録』には当該氏族として次の五氏を登載しています。
- 大和国皇別「坂合部首」(大彦命の後)
- 摂津国皇別 「坂合部」(大彦命の後 / 允恭天皇の御世、国境の標を造立したことにより坂合部連の姓を賜る)
- 左京神別 「坂合部宿禰」(火明命の八世孫、迩倍足尼の後)
- 右京神別 「坂合部宿禰」(火闌降命八世孫、迩倍足尼の後)
- 和泉国神別 「坂合部」(火闌降命七世孫、夜麻等古命の後)
このように「坂合部」を名乗る氏族は1.2.の皇別と3.4.5.の神別の二系統があったことがわかります。
2.に国境の標を立てた旨が記されているように、これらの氏族は境界の裁定・管理等を担ったことが考えられます。
或いはこれらのいずれかの氏族が鎌倉峰を災厄や悪霊を防ぐべき境界の地として神を祀ったのが式内社「坂合神社」だったのかもしれません。
『峯相記』の記述からは元は鎌倉峰に鎮座していた一つの神が酒見大明神と佐保明神に分かれたことを示唆しているようにも思われます。
もしそうだとすれば、当社も「佐保神社」も共に同じ式内社「坂合神社」に淵源があると考えることも不自然ではないでしょう。
また『峯相記』には山酒人が「両大明神」を祀ったとあり、この部分からは住吉神と酒見神は異なる神であることをも示唆しています。
元々は式内社「坂合神社」だった酒見神を当地(もしくは向山?)に遷して住吉神と共に祀ったのかもしれません。
なお現在も当社の御祭神は「酒見神」「底筒男命」「中筒男命」「表筒男命」「神功皇后」(以下略)であり、酒見神と住吉神は別の神として祀られているようです。
とはいえやはり推測の域を出ず、歴史的には酒見神と住吉神は同一の神として認識されてきたようです。
なお、平安末期の播磨国の国内神名帳である『播磨国内鎮守大小明神社記』には「酒見太神」や「佐保太神」が見えるのに対して「坂合」の名は見えません。
このことからも坂合神社が両社へ分かれことを示唆しているように思われます。
ただもしそうだとすれば『延喜式』神名帳に両社でなく坂合神社が載っている点は不審で、『延喜式』神名帳が『貞観式』等の古い神名帳を流用したものとする説を採ったとしても、坂合神社から両社へ分かれたであろう年代は養老年間より下ると考えるのが自然かもしれません。
天平十七年(745年)には当社に隣接して行基が「泉生山酒見寺」を創建し、それ以来当社の別当となり両寺社は一体的に運営されてきました。
その後戦乱等で幾度かの焼失を繰り返したといい、戦国時代には荒廃したものの江戸時代になって姫路藩の庇護を受けて復興されたと伝えられています。
現在の社殿の多くは江戸時代後期~末期に造営されたもので、本殿および拝殿は特に貴重な建築として2022年に新たに国指定重要文化財となりました。
境内の様子
当社は加西市の中心市街である北条町の集落内に鎮座しています。
交通の要衝である北条町は宿場町であると共に、当社や隣接する酒見寺の門前町・鳥居町として発展したところでもあります。
当社の境内入口には鳥居が南向きが建っています。
鳥居の左右には随身を安置するための社殿がそれぞれ互いを向き合って建っています。
いずれも本瓦葺の妻入切妻造。
旧・加西郡では随身門でなくこのように境内社という形で随身を祀る例が多く見られます。
鳥居をくぐって左側(西側)に手水舎が建っています。
本瓦葺の切妻造で、後述の拝殿と同年代である文化五年(1808年)に建立されたもので兵庫県指定有形文化財。
鳥居のすぐ正面奥に土俵のような円形の土盛があり、これは「勅使塚」と呼ばれています。
現在は「鶏合わせ」や「龍王舞」等の神事がここで行われています。
勅使塚の奥、境内の中央に社殿が南向きに並んでいます。
拝殿はやや複雑な形式で、本瓦葺の平入入母屋造で中央の通路部分は段違い屋根となっており、銅板葺の唐破風の向拝の付いた割拝殿となっています。
この拝殿は桁行九間にもなる大規模な建築で、文化五年(1808)に建立されたもの。2022年に国指定重要文化財となっています。
通路部分の様子。奥に三ヶ所の鈴の緒と賽銭箱が設置されています。
拝殿前には手前側に花崗岩製の狛犬が一対、奥側に凝灰岩製(?)の狛犬が一対配置されています。
拝殿後方には玉垣に囲われて銅板葺の平入入母屋造の幣殿が、さらにその後方には三棟の本殿が並んで建っています。
幣殿は大正五年(1916年)に建立されたもので、比較的新しい建築ながら加西市指定有形文化財。
三棟の本殿はいずれも銅板葺の妻入切妻造。屋根に反りがあるので厳密には住吉造ではないものの、『峯相記』に「本社の風儀に倣った」とする旨があるように住吉造を意識したものでしょう。
形式的には「恩智神社」(大阪府八尾市恩智中町)の「王子造」と称する本殿と類似したものと言えます。
これら本殿はいずれも嘉永四年(1851年)に建立されたもので、2022年に拝殿と同時に国指定重要文化財となりました。
社殿四隅の境内社
当社境内にはいくつかの境内社があり、中でも社殿を囲う玉垣(以下「社殿玉垣」と表記)の四隅にそれぞれ境内社が鎮座していることが大きな特徴となっています。
まずはこれらを南東隅から時計回りに紹介します。
社殿玉垣の右手前(南東隅)に「一王子神社」が南向きに鎮座。御祭神は「底津綿津見神」。
社殿は銅板葺の妻入切妻造。
社殿玉垣の左手前(南西隅)に「二王子神社」が南向きに鎮座。御祭神は「中津綿津見神」。
社殿は銅板葺の妻入切妻造。
社殿玉垣の左奥(北西隅)に「三王子神社」が西向きに鎮座。御祭神は「表津綿津見神」。
社殿は銅板葺の妻入切妻造。
社殿玉垣の右奥(北東側)に「直毘神社」が東向きに鎮座。御祭神は「神直毘神」。
社殿は銅板葺の妻入切妻造。
これら一王子神社~三王子神社は『峯相記』のいう「五所の王子」に関する神社である可能性があります。
祭神の綿津見(海神)三神は記紀ではイザナギが禊をした際に住吉神と共に生まれたことを記しています。
一方で直毘神社は全く無関係の神を祀っており、或いは鬼門を守護するために祀られているのかもしれません。
社殿周辺の境内社等
続いて社殿周辺の境内社を時計回りに見ていきます。
本社拝殿の左側(西側)に「白鬚神社」が東向きに鎮座。社殿は銅板葺の隅木入春日造に軒唐破風の付いたもの。本社本殿と同じ嘉永四年(1851年)の建立で兵庫県指定有形文化財。
白鬚神社の右側(北側)に「粟島神社」が南向きに鎮座。
桟瓦葺の平入入母屋造の割拝殿が建ち、奥の凸部に檜皮葺の一間社流造の本殿が納められています。
社殿は明治年間の建立で加西市指定有形文化財。
粟島神社の奥(北側)の森の中に「稲荷社」が南向きに鎮座。
複数の朱鳥居が並び、奥に桟瓦葺の平入入母屋造の拝殿、および本殿を納める覆屋が建っています。
上記の稲荷社の右側(東側)、本社本殿の奥側(北側)に、上記の稲荷社とはまた別の「稲荷社」が南向きに鎮座。
社殿は銅板葺の一間社流造。
ぐるっと一周し、白鬚神社の左側(南側)には神輿庫が建っています。
神輿庫の左側(南側)には桟瓦葺の妻入切妻造の舞台らしき建物が建っていました。東播磨の神社では能舞台が、西播磨の神社では舞台がよく見られ、これはその中間的な建築であると言えそうです。
しかし残念ながら2022年現在は撤去されてしまっているようです。


御朱印
由緒
案内板
案内板
北条節句祭
地図
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