社号 | 大森神社 |
読み | おおもり |
通称 | 熊取えびす 等 |
旧呼称 | 穂和明神、穂波明神 等 |
鎮座地 | 大阪府泉南郡熊取町大宮1丁目 |
旧国郡 | 和泉国日根郡久保村 |
御祭神 | 事代主命、菅原道真公 |
社格 | 旧郷社 |
例祭 | 9月28日 |
大森神社の概要
大阪府泉南郡熊取町大宮1丁目に鎮座する神社です。
当社の創建・由緒は詳らかでありません。
江戸時代以前は「穂和(ホワ)明神」「穂波(ホハ)明神」等と称しました。その由来ははっきりしません。
かつては旧・野田村の「野田神社」(旧地不詳)および「雨山神社」(雨山山頂に鎮座)と共に「熊取三社」と称し、旱魃の際にはこの三社に祈雨を行ったと伝えられています。
このことから当社の水神的な神格が窺えます。山上に鎮座する「雨山神社」は恐らく山に鎮まる龍蛇的な神格だったと思われ、これに対して里に鎮座する当社は田畑に水を潤して作物を守護する農耕神的な水神だったのかもしれません。
和泉国の国内神名帳『和泉国神名帳』の日根郡に「従五位上 大杜社」が見え、江戸時代中期の地誌『和泉志』は当社に比定しています。ただし、『和泉志』は当社と上記の「野田神社」を混同しており、或いは「大杜社」は後者だとする理解があったのかもしれません。
「野田神社」はかつては「天神」と称しました。中世には「東永寺」なる寺院の鎮守だったといい、天正年間(1573年~1592年)の兵火により東永寺は廃絶、その後は「東圓寺」が神宮寺となったようです。
この「野田神社」および「雨山神社」は明治四十一年(1908年)に近郷の神社と共に当社に合祀されました。ただ「雨山神社」は現在も雨山山頂に石祠が残っています。
現在、「熊取三社」が合祀されている当社は熊取町内における有力な神社として崇敬を集めており、かつて久保村だった当地が現在は大字「大宮」となっているのはその象徴であると言えましょう。
境内の様子
当社は旧・久保村の集落の東側に鎮座しています。
境内の南西隅に入口があり、一の鳥居が西向きに建っています。
一の鳥居の両脇に配置されている狛犬。花崗岩製です。
鳥居をくぐって右側(南側)に手水舎が建っています。
先に境内社を見ておきます。手水舎のすぐ左側(東側)に「地主稲荷社」が北向きに鎮座。
朱鳥居が建ち、妻入切妻造の覆屋内に銅板葺の流見世棚造の社殿が納められています。
社殿の左脇には石塔もしくは灯籠の宝珠らしきものが安置されています。
地主稲荷神社のすぐ左側(東側)の参道上に水路をまたぐ小さな石橋があり、これを渡ると二の鳥居が西向きに建っています。
二の鳥居をくぐって石畳の参道を進むと左側(北側)に「子安犬」と称する犬の石像が配置されています。
案内板には、基壇の周囲に刻まれている干支の内で自身の干支にあたるものと、犬の像を撫でて祈願するよう案内しています。
当社で古くからこのような信仰装置があったかは不明ながら、一般に犬は広く安産の象徴とされています。
石畳の突き当りで左側(北側)へ曲がると三の鳥居が南向きに建っており、その奥は社殿の並ぶ砂利敷の広い空間となっています。
三の鳥居の両脇に配置されている狛犬。花崗岩製で、一の鳥居のものよりずんぐりとした体形。
三の鳥居をくぐって正面奥に本瓦葺・妻入入母屋造の一間四方の舞殿が建っています。
京都府の神社に多い舞殿風拝殿のような配置で、泉州地域では珍しい配置と言えます。
舞殿の奥に社殿が南向きに並んでいます。
拝殿は本瓦葺の平入入母屋造に千鳥破風と軒唐破風の付いた割拝殿で、桁行十間にもなる極めて大規模な建築です。
拝殿後方には本殿が建っているものの、全く見ることはできません。
本社拝殿の左側(西側)には本瓦葺の妻入寄棟造に庇の付いた神庫が建っています。
境内の隅には「七福神」と称して七基の石祠が並んでいます。
これらには「福神」と刻まれているものの、屋根の形や唐破風の有無等の規格が異なっており、或いは道端や屋敷神として祀られていた石祠を転用したのではないかと推測されます。
中には「金」と刻まれたものもあり、これは元は金毘羅信仰の祠だったのではと思われます。
地図