社号 | 曽祢神社 |
読み | そね |
通称 | |
旧呼称 | 天神 等 |
鎮座地 | 大阪府泉大津市曽根町 |
旧国郡 | 和泉国和泉郡北曽根村 |
御祭神 | 饒速日命、伊香我色雄命 他5柱 |
社格 | 式内社、旧村社 |
例祭 | 10月10日 |
式内社
曽祢神社の概要
大阪府泉大津市曽根町に鎮座する式内社です。
社伝によれば天武天皇四年(675年)に創建されたとされています。当社は物部氏の一族である「曽祢連」が祖神を祀ったと考えられており、『新撰姓氏録』には次の氏族が登載されています。
- 左京 神別「曽祢連」(石上同祖(神饒速日命の後))
- 左京 神別「真神田曽祢連」(神饒速日命の六世孫、伊香我色乎命の子、気津別命の後)
- 右京 神別「曽祢連」(同神(神饒速日命)六世の後)
- 和泉国 神別「曽祢連」( 采女臣同祖(神饒速日命の六世孫、伊香我色雄命の後))
これらの内、和泉国に居住していた曽祢連が当社を奉斎したと考えられます。右京・左京の曽祢連も当地の曽祢連の一部が移住したのかもしれません。
『和泉名所図会』には当社は江戸時代には天神と呼ばれており、住吉社と祇園社を合祀していたことが見えています。現在も祭神として曽根連・物部氏の祖である「饒速日命」「伊香我色雄命」の他、「素盞嗚尊」「住吉三神」「神功皇后」が祀られています。一方、近隣の神社から菅原道真公を合祀しているものの、本社に菅原道真公は祀られていません。ただ境内に古い牛の石像があることから、かつて天神と呼ばれた通り菅原道真公が祀られていたと思われます。
当社に隣接して弥生時代中期の巨大な環濠集落跡である「池上曽根遺跡」があります。大規模な建物跡やクスノキをくり抜いて作られた井戸、製鉄工房、大量の蛸壺、その他様々な遺物の発掘されている全国的に極めて有名な遺跡です。当社との連続性があるとは到底考えにくいものの、当地における人々の活動の歴史は無視できないものでしょう。
境内の様子
境内入口。鳥居は境内の北側で北西向きに建っています。境内の南東側にも入口があり、南に隣接する池上曽根遺跡と行き来できるようになっています。
境内入口の鳥居脇にある狛犬。花崗岩製です。
境内の南西側、玉垣で囲われた区画は巨樹が多く非常に鬱蒼とした空間になっています。社殿はこの空間の奥にある形。
鬱蒼とした区画の端に手水舎があります。
境内の西側に鳥居が建ち、鬱蒼とした空間に参道が延びて社殿へ続いています。
参道両脇の狛犬。こちらは和泉砂岩製でしょうか。
参道の正面にさらにもう一基鳥居が建ち、その後方に社殿が北東向きに建っています。拝殿は平入の入母屋造に千鳥破風と唐破風が付いています。樹木が生い茂っており非常に暗い空間。
本殿は三間社流造。見えにくいですが唐破風が付いているようです。
巨樹の多い境内の中でも、拝殿前のナギ、手水舎裏のクスノキは特に目立ち、それぞれ泉大津市の保護樹木に指定されています。
参道前の鳥居の右側に古い牛の石像があります。今は主祭神として祀られていませんが、かつて当社が天神として菅原道真公を祀っていた名残です。
境内の北西側に境内社の「白山神社」が鎮座しています。
白山神社の脇に非常に気になる石碑が。「式内 二田國津社」と刻まれています。「二田國津神社」は当社の北西にある二田町に鎮座していたようで、現在は当社に合祀されていますが、『延喜式』神名帳には記載されていないので式内社ではありません。『和泉国内神名帳』には記載があるので、これと混同して「式内」と書いてしまったのでしょうか。
二田國津神社は「天足彦神」「二田物部神」「菅原道真」を祀っていたようで、物部氏の神を祀る当社との関係が気になるところです。
当社の南方に隣接して「池上曽根遺跡」があります。弥生時代中期の環濠集落跡で、大規模な建物跡やクスノキをくり抜いて井筒とした井戸が発掘されたことで全国的にも極めて有名な遺跡です。遺跡は史跡公園として綺麗に整備されており、高床の建物である「いずみの高殿」はじめ竪穴式住居などが復元されています。
池上曽根遺跡から見た当社の様子。開放的な史跡公園の奥にこんもりとした森があり、一目で神域とわかります。


由緒
案内板「曾禰神社」
『和泉名所図会』
地図