社号 | 交野天神社 |
読み | かたのてん |
通称 | |
旧呼称 | 楠葉天神社、天満宮、春日大明神(?) 等 |
鎮座地 | 大阪府枚方市楠葉丘2丁目 |
旧国郡 | 河内国交野郡楠葉村 |
御祭神 | 光仁天皇、天兒屋根命、菅原道眞 |
社格 | 旧村社 |
例祭 | 10月16日 |
交野天神社の概要
大阪府枚方市楠葉丘2丁目に鎮座する神社です。
元禄十五年(1702年)の当社の社記『交野天神社縁起』によれば、延暦六年(787年)に桓武天皇が当地に「郊祀」を行い、父である「光仁天皇」を祀ったのが当社であるとしています。
「郊祀(こうし)」とは、中国において天子が都の郊外に檀を設け天子の祖先と天地を祭祀したもので、冬至には都の南郊で天を、夏至には都の北郊で地を祀るのが例でした。
桓武天皇はこの中国の「郊祀」を本邦でも行ったことが『続日本紀』に見え、延暦四年(785年)十一月十日条に交野柏原で天神を祀ったこと、および延暦六年(787年)十一月一日条にも交野で天神を祀ったことを記しています。
特に後者はその祭文も記載されており、「昊天上帝(天上の帝王の意)に告ぐ」云々と中国式の形式を採用し、天と共に高紹天皇(=光仁天皇)を祀ったことも記しています。
桓武天皇が中国に倣って「郊祀」を行った理由は、長岡京遷都にあたりその南郊にあたる当地で律令制の強化を図ったこと、天武天皇の皇統に替わって天智天皇の皇統が再興したことを擬制的に新王朝と見做したこと、外戚が渡来系氏族である和氏であり中国の文化に親和性があったこと等が挙げられます。
こうした本邦における「郊祀」は、その後文徳天皇の御代である斉衡三年(856年)十一月十二日・二十三日にも同じく河内国交野郡の栢原野で行われたことが『文徳実録』に見えています。
しかし桓武天皇が「郊祀」を行ってから既に70年も経過しており、この時期になって何故再び「郊祀」が行われたのかは不明。
また当地は長岡京から見れば南郊ではあるものの、文徳天皇の御代は当然ながら既に平安京であり、南郊とは言い難い点も疑問があります。
本邦における「郊祀」は記録に見える限りではこの三度のみであり、祭文が残っているとはいえ多くの点でその実態は謎に包まれています。
さて社伝に見えるように当社はこの「郊祀」の祭祀を継承し、そこで祀られた「光仁天皇」を当社で祀っているものとしています。
当社の「天神社」も「あまつかみのやしろ」の意で、「郊祀」で祀った天神を指すものであり、後世に「天満宮」と称するようになったのは天神信仰との混同であるとされています。
ただし、「郊祀」が行われたとされる候補地は他にもあり、当社の南南西約4kmほどの片鉾本町に鎮座する「杉ヶ本神社」の地であるとする説も有力です。
このため当社は当初から天神信仰の神社であり、「郊祀」に関連する神社とすることこそ付会であるとする説もあります。
元々は当地には「穂掛神社」(現在の境内社「貴船神社」)が鎮座していたとする伝承もあり、後世に「菅原道真」を勧請し本社としたことも可能性として考えられます。
一方でさらに時代を遡り、当社の地は継体天皇が最初に営んだ皇居である「樟葉宮」であるとする伝承もあります。
前代の武烈天皇が後嗣を残さず崩御したため、応神天皇の五世孫であり越前もしくは近江に居住していたヲホドを迎えて継体天皇として即位し、この皇統が現在に続いています。
しかし継体天皇はすんなりと大和へ入ることが出来なかったと思われ、まず「樟葉宮」で即位し、続いて「筒城宮」(京都府京田辺市付近?)、「弟国宮」(京都府長岡京市付近?)に皇居を置き、樟葉宮から20年ほどの年月を経てようやく大和の「磐余玉穂宮」に皇居を遷しています。
詳細は割愛しますが、継体天皇が大和へ入る際には大きな抵抗があったことが考えられ、当地を含む淀川水系の一帯は継体天皇の拠点となっていたことが推測されます。
ただ、「樟葉宮」に関してもあくまで伝承地であり、発掘調査等の裏付けがあるわけでない点に注意が必要です。
当社本殿は応永九年(1402年)に建立された貴重な建築で国指定重要文化財となっています。
隣接して建つ八幡神社の社殿も同時期の建立と推定され、同じく国指定重要文化財となっています。
当社に伝わる継体天皇の「樟葉宮」および桓武天皇の「郊祀」の伝承がどこまで史実を含んでいるかは定かでないものの、当社に残る社殿はその歴史の古さを物語るものと言えましょう。
境内の様子
樟葉駅近郊の住宅地として開発された中に森が残されており、当社はここに鎮座しています。
境内南西に入口があり、一の鳥居が西向きに建っています。一の鳥居は神明鳥居。
鬱蒼とした社叢に伸びる参道を東へ進んでいくと左右に狛犬が配置されています。
狛犬の少し奥に二の鳥居が西向きに建っています。
二の鳥居をくぐったところで参道は突き当りとなっており、左側(北側)へ曲がっています。
この地点に配置されている灯籠には「春日大明神」と刻まれています。当社に「天兒屋根命」が祀られていることからかつてそう呼ばれたこともあったのかもしれません。
参道を曲がった様子。ここからの参道は石畳となり、社殿までまっすぐ伸びています。
この左側(西側)に手水舎が建っています。
この参道を進んでいくと木造の三の鳥居が南向きに建っています。
三の鳥居をくぐり、若干の石段を上った先に社殿が南向きに並んでいます。
拝殿は本瓦葺の平入入母屋造。
拝殿前に配置されている狛犬。
拝殿後方、塀に囲まれて本社本殿および境内社の八幡神社社殿が建っています。
この内、左側(西側)に建つ本社本殿は檜皮葺の一間社流造に朱塗りを施したもの。
応永九年(1402年)に建立された優美で貴重な建築で国指定重要文化財となっています。
本社本殿の右側(東側)に隣接して境内社の「八幡神社」が南向きに鎮座。
社殿は檜皮葺の一間社流造で、本社本殿よりやや小規模で簡素なもの。
この社殿も本社本殿と同時期の建立と推定され、貴重な建築として国指定重要文化財となっています。
塀の外側、八幡神社の右側(東側)に「大神社」が西向きに鎮座。御祭神は「天照大神」。
流造状の覆屋に板葺の春日見世棚造の社殿が納められています。
本社拝殿の右側(東側)から北東方向へ参道が伸びているのでここを進んでいきます。
この参道の突き当りで右側(東側)へ曲がっており、その先は小さな丘に石段が伸びています。
この石段を上っていくと平らな空間となっており、「貴船神社」が西向きに鎮座。御祭神は「高龗神」。
塀に囲まれて銅板葺の一間社流造に朱塗りの施された社殿が建っています。建立年代は不明ながら桃山時代の形式が見られ、枚方市指定文化財となっています。
伝承ではこの空間は継体天皇が最初に営んだ皇居である「樟葉宮」の跡地であると伝えられており、それを示す石碑が建つと共に大阪府指定史跡となっています。
案内板にはこの貴船神社はかつて「穂掛神社」と称し、村の産土神でもあり、本社社殿の辺りにあったものを樟葉宮跡であるこの地に遷したと伝えられている旨が記されています。
元々はこの貴船神社(穂掛神社)が本社で後に天神社が成立したことを示唆しており、「郊祀」の後継として光仁天皇を祀っているとする本社の社伝と矛盾を生じさせるものともなっています。
つまり、元々穂掛神社が鎮座していた地に菅原道真公を勧請し主祭神としたのが当社だった可能性が浮上してきます。
ただそうだとしても、当地が「郊祀」の跡地であった可能性を完全に否定するものではありません。(とはいえ伝承に過ぎない)
案内板
継体天皇樟葉宮跡伝承地
案内板
大阪府指定史跡
交野天神社
継体天皇樟葉宮跡伝承地
御朱印
由緒
案内板
交野天神社
案内板
交野天神社
案内板
枚方八景
樟葉宮跡の杜
地図