社号 | 長野神社 |
読み | ながの |
通称 | 長野戎 等 |
旧呼称 | 木屋堂宮、牛頭天王宮 等 |
鎮座地 | 大阪府河内長野市長野町 |
旧国郡 | 河内国錦部郡長野村 |
御祭神 | 素盞嗚命 |
社格 | 旧村社 |
例祭 | 10月11日 |
長野神社の概要
大阪府河内長野市長野町に鎮座する神社です。
当社の創建・由緒は詳らかでありません。
当社は江戸時代以前には「牛頭天王宮」と称し、牛頭天王を祀る神社として信仰されていました。現在の御祭神は「素盞嗚命」で、これは牛頭天王が明治年間の神仏分離により同格の神道の神に変更されたものです。
一方で「木屋堂(コヤド)宮」とも称し、「木屋堂」の地名は古く正和二年(1313年)の『後宇多院御幸記』や元弘三年(1333年)の『粉河寺文書』など鎌倉時代には既に記録として見えています。(当時当社が存在していたかは不明)
この「木屋堂」とは木材の集積地の意で、金剛山地や和泉山脈などから切り出された木材が石川と天見川の合流地である当地に寄せ集められたものと考えられます。
こうした河川の合流地であることに加え、当地は東高野街道と西高野街道の合流地でもあるので、古くから人流や物流の結節点となっていました。このような地に立地する当社もまたその創建は古く遡るのかもしれません。
なお、『新撰姓氏録』河内国諸蕃(漢)に山田宿禰同祖、忠意の後であるという「長野連」が登載されており、当地の地名「長野」はこの渡来系氏族に因むとする説があります。(当地でなく志紀郡長野郷、現在の藤井寺市付近の氏族とする説もある)
或いはこうした当地を開拓した氏族が祖を祀ったのが当社の始めであった可能性も考えられるかもしれません。
当社の本殿は室町時代後期に建立されたものと推定され、貴重な建築として国指定重要文化財となっています。
当社の所在する河内長野市は大阪都心に近くかつ自然溢れることから戦後に衛星都市として大いに発展し、当社はその中心にある神社として多くの人々に親しまれています。
境内の様子
当社は河内長野市の中心部近く、石川の形成した河岸段丘の崖上に鎮座しています。
境内の南西部に境内入口があり、東へ伸びる石段の上に提灯台と注連柱が建っています。
石段を上った様子。段丘面のため広く平らな空間となっています。
石段をのぼってすぐ左側(北側)に手水舎が建っています。
さらに進むと左側(北側)に鳥居が南向きに建ち、奥の玉垣を挟んで本殿や境内社等の建つ空間が広がっています。
鳥居の両脇に配置されている狛犬。花崗岩製です。
鳥居をくぐって正面奥に瑞垣に囲まれて本殿が南向きに建っています。拝殿等の施設はありません。
この本殿は檜皮葺の一間社流造で千鳥破風と軒唐破風の付いたもの。朱などで塗装されていた痕跡も見られます。
室町時代後期の建立と推定されており、貴重な建築として国指定重要文化財となっています。
本社本殿の左側(西側)に「恵比須社」が南向きに鎮座。御祭神は「事代主大神」。
銅板葺の平入切妻造の拝殿と銅板葺の一間社流造の本殿で構成されています。
本社は「長野戎」とも称されていますが、この呼称はこの神社に因むもののようで、毎年1月10日に行われる「十日戎」は例祭に匹敵するほど大賑わいとなります。
本社本殿の右側(東側)に「五社」が南向きに鎮座。社名の通り五社の相殿となっており、左側(西側)から順に次の神社が祀られています。
- 「高良宮」(御祭神「高良玉垂尊」「武内宿禰尊」)
- 「春日宮」(御祭神「天児屋根尊」「武甕槌尊」)
- 「八幡宮」(御祭神「誉田別尊」「息長帯姫尊」)
- 「多賀宮」(御祭神「伊弉那岐大神」「伊弉那美大神」)
- 「熊野宮」(御祭神「速玉之男神」「家都御子大神」「夫須美神」)
社殿は銅板葺の五間社流造に千鳥破風と軒唐破風の付いたもの。
五社の右手前(南東側)に「天神社」が西向きに鎮座。御祭神は「菅原道真公」。
社殿は銅板葺の一間社流造。
当社には社叢と呼べるほどの森は形成されていないものの、いくつかの巨樹が見られます。 |
本社本殿と恵比須社の間には大阪府下最大級とも言われるカヤの巨樹があり、大阪府指定天然記念物となっています。
また鳥居の手前側、境内の南側にはイチョウの巨樹があり、秋には綺麗な黄葉となるようです。
案内板
大阪府指定天然記念物
長野神社のかやのき
当地「長野」は古くからの街道である西高野街道と東高野街道が合流し、また石川と天見川の両河川も合流するまさに交通の要衝です。
宿場町としての機能は南方約1kmの三日市が栄えたものの、当地もまた人や物の集まる地として栄えたようで古い町並みがよく残っています。
当地では河内鋳物師の出身で江戸時代に豪商となった吉年家の邸宅や古くからの酒蔵である西條合資会社などがあります。
由緒
案内板
長野神社
地図