社号 | 止止呂支比賣命神社 |
読み | とどろきひめみこと |
通称 | 若松さん |
旧呼称 | 若松宮、牛頭天王 等 |
鎮座地 | 大阪府大阪市住吉区沢之町1丁目 |
旧国郡 | 摂津国住吉郡沢口村 |
御祭神 | 素盞嗚尊、稲田姫尊 |
社格 | 式内社、旧村社 |
例祭 | 4月18日、7月11日・12日、10月7日・8日、12月8日 |
止止呂支比賣命神社の概要
大阪市住吉区沢之町1丁目に鎮座する式内社です。
住吉大社に伝わる古文書『住吉大社神代記』には「子神」に「止櫛侶伎比賣命神」が記され、古代においては住吉大社と関係が深かったことが窺えます。
また当社の社伝によれば古くは住吉大社の摂社として「奥の院」とも称されたようです。
当社の創建・由緒は詳らかでありません。
現在の御祭神は「素盞嗚尊」「稲田姫尊」ですが、本来は社名の通り「止杼侶支比賣命」なる神を祀っていたものと思われます。ただし、これが如何なる神であったのかは不詳。
「トドロキ」を「轟き」と解すれば雷鳴とも解せられ、或いは農耕に必要な水を司る神とされていたのかもしれません。
江戸時代頃までは境内に「轟池」と呼ばれる池があり、「トドロキ」もしくは「轟橋」なる橋が架かっていたことが記録に見え、これが式内社「止杼侶支比賣命神社」としての名残だったのでしょう。
また承久三年(1221年)には後鳥羽上皇が当社境内に行宮を営んだと伝えられ、それ以来「若松宮」とも称されるようになったと言われています。
明治四十年(1907年)には大阪市住之江区安立に鎮座していた式内社の「天水分豊浦命神社」が当社境内に遷座しています。
境内の様子
道路に面して境内入口があり、左右に巨大なコンクリート製の角柱が配置されています。
ここを進むと鳥居が東向きに建っています。
鳥居手前の右側(北側)に手水舎が配置されています。
鳥居をくぐって正面に社殿が東向きに並んでいます。
拝殿は本瓦葺・平入入母屋造で千鳥破風の付いた大規模なもの。
拝殿前に配置されている狛犬。花崗岩製の新しいものです。
本殿は銅板葺に朱塗りの施された住吉造。
比較的新しい建築と思われますが、住吉造は珍しく、住吉大社との関係が表れているのかもしれません。
本社社殿の右側(北側)に「霰松原荒神」が南向きに鎮座。式内社「天水分豐浦命神社」は当社とされています。
元は大阪市住之江区安立町に鎮座していましたが、明治四十年(1907年)に当社境内へ遷座されました。跡地は現在も残っています。
また、傍らには江戸時代に式内社「天水分豐浦命神社」が当社に比定されたことを記念して建てられた石碑が建っています。
案内板
霰松原荒神社 由緒
案内板
大阪市指定文化財 大阪市教育委員会
天水分豊浦命社社号標石
霰松原荒神社の右隣(東側)にあるクスノキの根元に「黒長社」が鎮座。御祭神は「黒長大神」。
祠の前には蛇の石像が配置されています。大阪市内ではこのようにクスノキに龍蛇が住まうとする信仰をよく見かけます。
案内板
黒長社
当社鳥居の左側(北側)には稲荷神を祀る石祠が東向きに鎮座。
境内左奥(南西側)にあるこちらの建物は絵馬殿でしょうか。ただ絵馬等は特にありません。
境内の中でも特に古い建築と思われ、もしかしたら旧拝殿を改造したものなのかもしれません。
境内は開放的、言い方を変えればやや物寂しい雰囲気となっています。
かつては境内に轟池という清水の涌き出る池があったと伝えられます。
境内のすぐ裏手に南海高野線が走っています。
写真は当社の裏を通過する南海6000系。稼働年数50年以上にもなる現役最古参級の車両です。


御朱印
由緒
案内板
止止呂支比賣命神社由緒
『摂津名所図会』
地図
関連する寺社等
-
天水分豊浦命神社跡 (大阪府大阪市住之江区安立)
社号 天水分豊浦命神社 読み あめのみくまりとようらのみこと 通称 霰松原荒神 旧呼称 荒神社、歩王社 等 鎮座地 大阪府大阪市住之江区安立2丁目 旧国郡 摂津国住吉郡安立町 御祭神 天水分神、奥津彦 ...
続きを見る
-
住吉大社 (大阪府大阪市住吉区住吉)
社号 住吉大社 読み すみよし 通称 住吉さん 旧呼称 住吉四社大明神 等 鎮座地 大阪府大阪市住吉区住吉2丁目 旧国郡 摂津国住吉郡住吉村 御祭神 底筒男命、中筒男命、表筒男命、神功皇后 社格 式内 ...
続きを見る