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呉服神社 (大阪府池田市室町)

社号 呉服神社
読み くれは
通称
旧呼称 呉織宮、下の宮 など
鎮座地 大阪府池田市室町
旧国郡 摂津国豊島郡池田村
御祭神 呉服大明神、仁徳天皇
社格
例祭 10月18日

 

呉服神社の概要

大阪府池田市室町に鎮座する神社です。

当社の由緒に関連して、『日本書紀』応神天皇三十七年以降に次の記事があります。

『日本書紀』(大意)

三十七年二月一日。織女を求めて阿知使主(あちのおみ)と津加使主(つかのおみ)の親子を呉に遣わせた。彼らは高麗国へ渡ったものの呉へ行く道がわからなかったので高麗で道を尋ねると、高麗王が「久礼波(くれは)」と「久礼志(くれし)」の二人に案内させたので呉へ行くことができた。呉王は「兄媛(えひめ)」「弟媛(おとひめ)」「呉織(くれはとり)」「穴織(あやはとり)」の四人の織女を与えた。

四十一年二月。阿知使主が呉から筑紫に戻ったところ、胸形大神が織女を欲しいと乞われたので兄媛を奉った。残りの三人の織女を率いて摂津国の武庫へ戻ったが、応神天皇が崩御されたので仁徳天皇に奉った。今の呉衣縫と蚊屋衣縫は彼女らの子孫である。

呉から連れられた織女らは当地に居住し、織女のもたらした技術により織物や裁縫、養蚕などの産業が盛んになり、当地は「呉織の里」と呼ばれるようになったと言われています。

そして織女の一人、「呉織」を祀ったのが当社であると伝えられています。一方で「穴織」は近隣の「伊居太神社」に祀られており、当社が「下の宮」と呼ばれたのに対し伊居太神社が「上の宮」と呼ばれたなど、両社は非常に密接な関係にあります。

織女らが亡くなったとき、穴織は「梅室」に、呉織は「姫室」に葬られたと伝えられ、その墳墓はかつて阪急池田駅付近にあったと言われていますが、阪急電鉄(当時は箕面有馬電気軌道)の開通の際に取り壊されたようです。

また、一般に絹織物を「呉服」と称するのは上記の事蹟に因んでおり、当社は後醍醐天皇より「呉服大明神」の宸筆を賜ったと伝えられています。

当社は衣服の製造や小売を行なう人々に信仰されるのはもちろんのこと、織女が呉から海を渡ってきたことから海上安全の神としても験があると言われています。

現在、伊居太神社と共に池田の有力な神社として多くの崇敬を集める神社となっています。

 

境内の様子

当社の鳥居は境内の東南東180mほど、阪急の高架線路に沿って南東向きに建っています。

 

線路沿いに歩いていくと真西へと折れる道があり、ここを進むと住宅街の中に当社が鎮座しています。

なお、阪急電鉄の前身の箕面有馬電気軌道が線路を敷設する前はこの周囲は何も無いところだったようです。

 

境内入口には東向きの神門が建っています。銅板葺・切妻造の四脚門。

 

神門をくぐって右側(北側)に手水舎があります。

 

呉服神社

呉服神社

正面に社殿が東向きに並んでいます。社殿は朱に塗られ、彫刻や絵画も色鮮やかで実に華やかな印象を受けます。

拝殿は銅板葺・平入の入母屋造で大きな唐破風の向拝の付いたもの。昭和四十四年(1969年)に建てられたものです。

 

拝殿前の狛犬。砂岩製で社殿とは対照的に古めかしさの感じられるもの。どこか人面っぽさの感じられる狛犬です。

 

本殿は銅板葺・平入入母屋造に千鳥破風と唐破風付きの向拝の付いたもの。彩色はありませんが、屋根上の装飾が豪華で拝殿に負けず華やかな印象です。

 

境内社

社殿の左側(南側)に「天満宮」が北向きに鎮座。妻入切妻の覆屋の中に祠が納められています。

 

天満宮の傍らにあった謎の岩石。注連縄が掛けられており、何らかの祭祀の対象なのでしょうか。詳細不明。

 

社殿の右奥(北西)に神明鳥居と神明造の社殿の境内社が南向きに鎮座。社名は不明ですが、傍らの石碑に「伊勢月參講」と刻まれており、社殿も二室に分かれているので天照大神と豊受姫命が祀られていると思われます。

 

その左側(南側)に隣接して、基壇の上に岩石が配置されています。これも何らかの祭祀の対象なのでしょうか。詳細不明。

 

社殿の右側(北側)に「稲荷大明神」が南向きに鎮座。

 

稲荷大明神の右側(東側)に南向きの横長の覆屋があり、六社の境内社が納められています。境内社は左から順に次の通り。

  • 市杵島媛神
  • 大物主神
  • 大国主神
  • 素盞嗚神
  • 国常立神
  • 猿田彦神

 

覆屋の右側(東側)に「祓戸(伊吹戸主神)」が南向きに鎮座。

 

本社社殿の右側(東側)に「恵比須神社」が南向きに鎮座。大きな拝殿と本殿が設けられており、境内社としては破格の待遇です。

拝殿は銅板葺・平入入母屋造に軒唐破風の付いたもの。本殿は銅板葺の一間社流造。

 

恵比須神社の前に配置されている狛犬。古めかしい砂岩製の立派なもの。本社拝殿前のものとは全く顔立ちが異なっており、こちらは動物らしさが感じられます。

 

恵比須神社の本殿横にはこのように木槌で叩くための板が設置されています。

エビス神は一般に耳が遠いと言われており、エビス神を祀る神社ではしばしばこのように大きな音を出すための信仰装置が設けられています。

 

当社境内は伊居太神社と対照的に森が乏しく開放的な印象ですが、クスノキやイチョウなどの巨樹もあり神木とされています。

 

タマヨリ姫
呉服神社?名前からして服の神様を祀ってるのかな。
その通りよ。呉の国からやってきた機織の姫を祀ってるのよ。これに因んで絹織物のことを「呉服」と呼ばれるようになったみたいね。
トヨタマ姫

 

御朱印

 

由緒

案内板「呉服神社の御縁起」

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呉服神社の御縁起

大阪府呉服里池田市にかしこくも鎮座まします。

日本最初「繊維」の祖神呉服大神の御由緒を左に申述べます。

人皇第十五代応神天皇の御代に猪名津彦命を中国の呉の国に遣わし機織裁縫の工匠をお需めになりました。その時久礼波・久礼志の二人を案内役として呉の国に趣き呉王に乞うて呉服・綾織・兄媛・弟媛の四人を伴い渡来する事となりました。帰路九州の築紫潟に着きましたが兄媛は胸形明神の御望みにてこの地にお留りになり他の媛は摂津の国武庫の浦にお着きになりましたので猪名の港(今の唐船ヶ渕)に機殿を建て呉服媛をお迎え致しました。

呉服の神女は昼夜怠りなく布帛を織り少しも倦み給う事がなかったと申します。この時より機織裁縫染色の技術が我国に伝わり男女寒暑の服装の別が定まりました。尚四季には上妙の衣服を天子に献し下は万民に施されました。

仁徳天皇の七十六年(385)九月十八日呉服の大神は御齢百三十九才という人生に倍する御長寿を以てお隠れになり、その御遺体を今にその跡を残す梅室、姫室ひお納め申し上げました。その翌年仁徳天皇が勅令を以て御神祠をお建てになりました。

この大神が糸を様々にお染め分けになった所を染殿井と称しその糸を掛け晒しになりました松を絹掛松と名付けてその跡は今も残って居ります。

大神の御託宣に「我は衣服の神となり人をして寒暑の憂なく、養蚕機織絹布裁縫の道を守護し旦つ船路遥かにこの日本に帰化せし故海上の難おも無からしめん」とあります。代々の帝殊に御崇敬篤く、円融天皇御代には鎮守府将軍源満仲公が社祠を修復、又下って御陽成天皇(※原文ママ)の御代には豊臣秀頼公が片桐且元を奉行に命じて再建の事があり、文政二年には有栖川宮殿下の御祈願所となりました・近年になって昭和四十四年、新拝殿の御造営が相なりました。

因みに呉服大明神の御名は後醍醐天皇より賜りました御宸翰により起り、又これにより、我国にて絹布の類をすべて「呉服」と称する事となりました。

省みまするに五穀を作るすべを授け万民に飢餓の憂の無い事は天照大神の御神徳であると等しく機織裁縫の道を教えて寒暑の憂なきはこの大神の御遺徳に他ならずと信じます。この故を以て衣服の業に従い並びにその産物を商うものはおしなべてその祖神たる呉服大神を崇敬すべき事は論を俟たぬ事であり、古来より健康長寿家業繁栄、文化、経済、手芸上達の神徳があるといわれています。

呉服神社主例祭行事

本社

夏越祭 七月十八日
秋季大祭 十月十八日

末社

一月九・十・十一日 恵比須祭
一月二十五日 天満宮祭

呉服神社関連史跡
  • 染殿井 市内満寿美町ダイエー南下る
  • 衣掛松 市内畑町五月山の一部
  • 唐船ヶ渕 呉服橋と絹延橋との中間点
  • 星の宮 市内池田町池田中学校門前
  • 呉服分霊社 市内下渋谷町郷土史学館横
  • 姫室猪名津彦塚 当社境内地

摂津池田 下の宮 呉服神社々務所

『摂津名所図会』

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呉織神社

池田の町南の端にあり。この地の生土神とす。例祭九月十八日。社内に猪名津彦の祠 影向石あり。末社五前。観音堂あり。

 

地図

大阪府池田市室町

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