社号 | 敏馬神社 |
読み | みぬめ/みるめ |
通称 | |
旧呼称 | 牛頭天王 等 |
鎮座地 | 兵庫県神戸市灘区岩屋中町4丁目 |
旧国郡 | 摂津国菟原郡岩屋村 |
御祭神 | 素盞鳴命、天照皇大神、熊野坐神 |
社格 | 式内社、旧県社 |
例祭 | 10月10日 |
式内社
敏馬神社の概要
兵庫県神戸市灘区岩屋中町4丁目に鎮座する式内社です。
『延喜式』神名帳では八部郡に記載されているものの、江戸時代の当地は菟原郡でした。いつの頃か郡境の変更があったのかもしれません。
当社の創建に関して、『摂津国風土記』逸文に次のような記事があります。
『摂津国風土記』逸文(大意)
美奴売と称するのは神の名である。その神は能勢郡の美奴売にいた。
昔、神功皇后が新羅へ出征したとき、神前の松原に神々を集め戦勝を祈願した。この時にこの神も来て「我が山の杉の木を伐って船を造り、それに乗って新羅へ行けば成功するであろう」と告げたので、その通りにすると新羅の征伐を果たすことができた。
新羅からの帰途、この地の沖で船が動かなくなり、占うとこれは美奴売の神の意思であるとわかったので、その地に祀り、船を奉納し、この地を美奴売と名付けた。
このように能勢の山にいた美奴売の神が神功皇后に助言し、新羅征伐の帰りに占いによって当地で祀られたことが記されています。
能勢の美奴売の山とは現在の大阪府能勢町と兵庫県猪名川町の境に聳える三草山であるとされています。
猪名川水系の上流地域が木材の一大供給地となっていたことが反映されたと思われ、猪名川を通して木材が運ばれ、猪名川の河口辺りだったと考えられる「神前の松原」で造船が行われたのかもしれません。
また、神功皇后が三韓征伐への帰りに大阪湾で神の意思により神を祀るのは『日本書紀』に記される「廣田神社」「生田神社」「長田神社」「住吉大社」の創建と同様であり、これらの神社と共に大阪湾一帯を神域として国家的に祭祀した可能性も考えられます。
特に当地は非常に古くからの港湾だったようで、「敏馬の泊」と呼ばれ、神戸最古の港だったと言われることもあります。
『延喜式』玄蕃寮には新羅からの使節が来朝した際は生田神社で醸した酒を「敏売崎」で振る舞う旨が記されています。新羅の人々が難波へ入る際にまずこの地に立ち寄って一連の手続きや儀式を行ったことから、畿内の内と外を往来する際の中継地として重要な港だったことが窺えます。
一方、当社では境内社「水神社」に水神である「彌都波能賣(ミヅハノメ)神」を祀っています。本来の当社の祭神はこの神であり、ミヌメとはこの神のことであるとも言われています。
境内には「閼伽井」もしくは「三犬女(みぬめ)清水」と呼ばれる泉(現在は涸渇)があり、この泉を神聖なものとして祭祀の対象としたことが考えられます。
或いはこの泉で祭祀を担った巫女を水女(ミヌメ)と呼んだことも考えられるかもしれません。
船を留めるのに適した地形でありながら清冽な水も得られる当地は停泊地としてうってつけの地であり、この泉が神聖視されて国家的にも重視されたのも当然の成り行きと言えそうです。
ただし、そうであるならば『摂津国風土記』逸文にミヌメが能勢の山の神として描かれていることとの整合性に課題があります。
いずれにせよ当社はミヌメ神を祀っていたはずです。しかし現在は「素盞鳴命」を主祭神とし「天照皇大神」「熊野坐神」を配祀しています。
近世以前は牛頭天王と称し、明治年間に神仏分離に伴い牛頭天王が同じ神格の素盞嗚命に変更されたようです。
上述の通り本来のミヌメ神は境内社の水神社に追いやられてしまったことが考えられます。恐らく中世以降に厄除けの験があるとして牛頭天王への信仰が高まり、新たに勧請されたのが本社に祀られたものでしょう。
当社の神は縁切りの神であるとも古くから信仰されており、花嫁行列は当社の前を通るのを避けたと言われています。
この由来は様々な伝承があったらしく、女神が嫉妬するからとも言われる一方で、「延喜式」が「縁切り」に訛ったとの伝承もあったようです。もし本当にそのような伝承があったのならば非常に珍しい例と言えるものの、恐らく後世のこじつけでしょう。
また縁切りのまじないとして、当社の砂を相手方の食べる料理に混ぜると効果があるとも言われたようです。
境内の様子
当社の境内入口。境内の南側に南向きの鳥居が建っています。
鳥居をくぐると石畳の参道が伸び、正面に長い石段が続きます。
手前側の空間と奥側の社殿の建つ空間とで大きな高低差があり、この崖は縄文時代に海面が高くなったときに形成された海食崖であると言われています。
手前側の低い空間は近隣住民の駐車場になっています。
石段下の左側(西側)に手水舎があります。
手水舎の傍らに「閼伽井」と呼ばれる井戸があります。かつては「三犬女(みぬめ)清水」とも呼ばれていました。
斜面の下に湧き出ていた泉であり、「ミヌメ」と呼ばれた当社の信仰の原点であるとする説もあります。
江戸時代の地誌『摂津名所図会』の挿絵にはこの場所に池が描かれており、記事中には暑いときも寒いときも水の増減がなかったと書かれています。
しかし残念ながら阪神大震災で涸れてしまったようです。
石段を上るともう一つ手水舎が右側(東側)にあります。
こちらは水が滾々と注がれており、参拝客はこちらの手水を利用するのが常となっています。
石段を上って正面に南向きの社殿が建っています。
当社は昭和二十年(1945年)に神戸大空襲の被害を受けており、現在の社殿はその後に再建されたものです。阪神大震災で倒壊したものの、その後復興されました。
拝殿は銅板葺・平入入母屋造に千鳥破風と軒唐破風付きの向拝の付いたもの。
戦前の拝殿は寛政六年(1794年)に建立された建築で、瓦葺の平入入母屋造で千鳥破風の付いたものでした。
拝殿前の狛犬。花崗岩製です。
本殿は銅板葺の流造で塀に囲われて建っています。
本社社殿の右側(東側)に「水神社」が西向きに鎮座。御祭神は「彌都波能賣(ミヅハノメ)神」。
一説にミヌメとはこの神のことであると言われており、当社創建時はこの神が主祭神だったと伝えられています。
後世に牛頭天王が勧請されて本社に祀られ、この神は境内社へと追いやられたことが考えられます。
また本社本殿の裏に古くから「奥の宮」と呼ばれる石祠があったといい、現在は水神社の背後(東側)に遷されています。
御祭神は「伊邪那岐大神」「伊邪那美大神」。
案内板
水神社
水神社の右側(南側)に「后(きさい)の宮」が西向きに鎮座。御祭神は「神功皇后」。
傍らに建つ「神功皇后祠」と刻まれた石碑は昭和十三年(1938年)に近隣の民家から発掘されたもので、室町時代のものとも言われているようです。しかし同時代の類例が思い当たらず、詳細不明と言うべきでしょう。
また祠の前の石灯籠は寛文十三年(1673年)のもので当社最古の灯籠です。
案内板
后の宮
后の宮の右側(南側)に「松尾神社」が西向きに鎮座。御祭神は「金山彦神」「大山祇神」「船玉神」。
酒の神として信仰されています。当地付近は酒造りの一大産地である灘五郷の一つ「西郷」で、この地の酒造家や酒を運ぶ廻船業者が主に信仰してきました。
ただし何故か京都の松尾大社とは御祭神が異なっています。(松尾大社は「大山咋命」「中津島姫命」)
案内板
松尾神社
道を戻り、石段下の右側(東側)に「白玉稲荷大神」が西向きに鎮座しています。
当社の境内の遠景。社前に西日本の大動脈である国道2号が通っており多くの車が頻りに走っています。
かつてこの地は港湾の地でありながら風光明媚な景勝地としても知られ、柿本人麻呂や大伴旅人ら著名な歌人も当地を歌に詠みました。
大正頃まで社前はそうした風情を残す美しい浜だったものの、戦前から埋め立てが開始されて開発が進んだ結果現在は建物が建ち並び、往時の風光明媚な様子を窺うのは難しくなっています。
泉が涸れるなど阪神大震災の影響も甚大であり、かつてと環境が大きく変わった神社と言えましょう。
御朱印
由緒
案内板
式内社 敏馬神社略記
案内板
万葉ゆかりの地
敏馬神社
案内板
敏馬の泊・敏馬浦の変遷
『摂津名所図会』
地図