社号 | 忍陵神社 |
読み | しのぶがおか |
通称 | |
旧呼称 | 新宮大権現 等 |
鎮座地 | 大阪府四條畷市岡山 |
旧国郡 | 河内国讃良郡岡山村 |
御祭神 | 熊野皇大神、藤原鎌足公、馬守大神、大将軍神 |
社格 | 式内社、旧村社 |
例祭 | 10月10日 |
式内社
忍陵神社の概要
大阪府四條畷市岡山に鎮座する神社です。古墳時代前期の前方後円墳である「忍岡古墳」の上に鎮座しています。
当社は三社が合祀した神社となっており、当地に式内社である「津桙社」が鎮座していたところに明治四十四年(1911年)に「大将軍社」「馬守社」の二社が合祀され、「忍陵神社」と改称しました。
津桙社
上述のように当社は当地に鎮座していましたが、当地へは江戸時代の初め頃に遷座されたようで、元の鎮座地は当地の東方にある「赤山」なる地(具体的な場所は不明)にあったと伝えられています。
社伝によれば当社は熊野の神を祀るとされ、天武天皇の御宇に役行者が開基したと伝えています。
しかし熊野信仰が広まったのは平安時代以降であり、天武天皇の御代に熊野の神が祀られたとは考えにくいと言わざるを得ません。
実際には恐らく熊野への参詣の街道筋となっていたために熊野の神が勧請されたと思われ、当社が式内社ならば熊野の神が祀られるようになったのはもっと時代が下ると考えられます。
また当社の江戸時代以前の呼称「新宮大権現」は熊野新宮、つまり現在の「熊野速玉大社」(和歌山県新宮市新宮に鎮座)から勧請したことを思わせるものの、当社の社伝では「熊野三山」(つまり「熊野速玉大社」に加えて「熊野本宮大社」「熊野那智大社」を併せた三社)から勧請したと伝えており、この点にも混乱が見られます。
一方で当地の豪族の「津鉾氏」が祖神を祀ったとする説がありますが、この氏族は『新撰姓氏録』はおろか記紀など他の資料にも見えず、そのような氏族が存在していたのかどうかも含めてはっきりしません。
また社名から推して、当地が草香江(古代河内湖)の港湾となっており、そこに鉾を依代として神を祀ったことも想像され、もしそのように祀られていたとすれば当初は水神的な神格を持っていたのかもしれません。
このように当社の創建の様子ははっきりしませんが、いつの頃か熊野の神が勧請されて主祭神となり、熊野信仰の神社となっていったようです。
また、社伝によれば寛永十一年(1634年)に「藤原鎌足公」が現在地に祀られたと伝えられています。藤原鎌足公が祀られた理由は不明。
津桙社が現在地に遷座した具体的な年代がはっきりしないものの、もし藤原鎌足公の勧請よりも後に津桙社が遷座したとすれば、現在地に最初に祀られていた神は藤原鎌足公であることになります。
大将軍社
当社は元々は砂地区(現在地の西に隣接)の中道なる小字(現在地不明)に鎮座していたようです。
当社の創建・由緒は詳らかでありません。
馬守社
当社は元々は砂地区の宮田なる小字(現在地不明)に鎮座していたようです。
創建・由緒は不明ながら、当地が娑羅羅馬飼部・菟野馬飼部の居住地であったことから祀られたとも言われています。
『日本書紀』天武天皇十二年(683年)十月五日条に「娑羅羅馬飼造」「菟野馬飼造」ら十四氏に連姓を賜った旨が見える他、『日本霊異記』中巻第四十一には「河内国更荒郡馬甘の里」が見えます。
ここに見える「娑羅羅」「更荒」とは当地の旧郡名「讃良」で、「菟野」とは『日本書紀』欽明天皇二十三年七月条に「河内国更荒郡鸕鷀野邑」云々とあるように讃良郡にあった地名です。(なお持統天皇の諱である「鸕野讃良」もこの地名に因むという)
つまり旧・讃良郡において馬を飼育していた集団がいたことが確かめられ、実際に周辺の古墳時代中期の遺跡からは多くの馬具が出土している他、蔀屋北遺跡(砂地区・蔀屋地区)からは馬の全身骨格も出土しています(参考:蔀屋北遺跡から出土した馬の全身骨格)。
このように当地付近では古くから馬と関連が深く、馬を飼育していた馬飼部らが馬の守護神として当社を創建したとするのも可能性としてはあり得るのかもしれません。
ただ、いつ頃まで当地付近で馬が飼育されていたのかははっきりせず、神社という祭祀形態が広まる頃(概ね八世紀頃?)まで続いていたのか、そうだとしてそれほど古くまで遡る神社だったのかという点にやや疑問があります。
とはいえやはり古く馬と関連の深かった当地に「馬守社」なる神社があったのは偶然とも言い難いところでしょう。
忍陵神社
上述のように、これら三社が明治四十四年(1911年)に合祀して成立したのが当社です。
則ち、古代に築かれた古墳の上に、近世から近代にかけて神社が遷座・合祀されたのが当社と言えます。
古墳の被葬者は不明で、中世の当地の様子もはっきりしませんが、ある意味では当地における祈りの場として原点回帰した形になったと言えるのかもしれません。
境内の様子
境内入口。丘(古墳)の上に鎮座するため長い石段が続いています。
石段は三段に分かれており、どんどん上っていきます。
一段目を上ったところに提灯台と鳥居が、二段目を上ったところに再び提灯台が南向きに建っており、最上部は忍岡古墳の前方古墳の後円部となります。
三段目の石段の下に狛犬が一対配置されています。しかめっ面な顔立ちが個性的。
石段を上り切った右側(東側)に手水舎が建っています。
最上部となる空間、すなわち古墳の後円部の墳頂に南向きの真新しい社殿が並んでいます。
拝殿は銅板葺の平入入母屋造に千鳥破風と向拝の付いたもの。
拝殿後方に建つのは恐らく本殿の覆屋でしょう。
幣殿で拝殿と接続した形になっており、幣殿から屋根が連続してその上にまた屋根が載るという珍しい形。
当社の鎮座地にある「忍岡古墳」は墳丘長87mの古墳時代前期に築造された前方後円墳で、社殿の右側(東側)の建物内に竪穴式石室が保存されています。
わかりにくいですが格子の隙間から石室が確認できます。
昭和九年の室戸台風で社殿が倒壊し、その再建中にこの石室が発見されました。
盗掘を受けていたようですが、数多くの鉄製品等が検出されています。
案内板
忍岡古墳(大阪府指定史跡)
境内の隅に「光龍大神」と刻まれた石碑が祀られています。
由緒
案内板
忍陵神社
案内板
式内社 忍陵神社
『河内名所図会』
地図