社号 | 石津神社 |
読み | いしづ |
通称 | 石津大社 等 |
旧呼称 | |
鎮座地 | 大阪府堺市堺区石津町 |
旧国郡 | 和泉国大鳥郡上石津村 |
御祭神 | 八重事代主神、大己貴神、天穂日神 |
社格 | 式内社 |
例祭 | 10月4日、5日 |
式内社
石津神社の概要
大阪府堺市堺区石津町に鎮座する式内社です。堺市西区浜寺石津町中の石津太神社と共に式内社「石津太神社」の論社となっています。
『新撰姓氏録』和泉国神別に天穂日命の十四世孫、野見宿祢の後裔であるという「石津連」が登載されており、本来はこの氏族が祖神を祀ったと考えられます。現在も当社に石津連の祖神である天穂日神が祀られています。
一方で社伝によれば、事代主神がこの地に降臨して五色の神石を置いたためこの地を石津と称し、後に第五代孝昭天皇の七年に勅により当社が創建され、垂仁天皇の御代に天穂日命の子孫、石津連の祖である野見宿祢を当社の神主にしたと伝えています。
この伝承により、当社は石津太神社と共に「日本最古の戎宮」と称しています。神が五色の神石を携えたこと、孝昭天皇七年に創建されたこと等、当社の由緒は石津太神社と多くの点で共通する一方、石津太神社では蛭子命を主体とするのに対し、当社では事代主神を主体としています。
以上のことは同じ伝承が二社に分かれて伝えられたことを示唆しています。当社と石津太神社のいずれかが式内社であると思われ、恐らく村を分けた際にどちらかがどちらかへ分祀したのではと推測されます。
石津太神社の地は『延喜式』の時代には海だったのではという説があり、徐々に砂が堆積して陸地が形成されていったとしたら、石津太神社の社地は確かに海に近すぎるという印象はあります。加えて、当社が西向きなのに対して石津太神社は東向きという点も気にかかる点で、海からやってきた神という伝承を見れば、海の方である西を向くのが自然であるようにも思えます。
とはいえ和泉国では海に関係ありそうな神社でも海に背を向ける神社も多く、また石津太神社には「やっさいほっさい」等古くからの神事があり、いずれが式内社かを決するのは難しいところです。いずれにしても地域の氏神として大切にされていることは変わらないでしょう。
境内の様子
当社の近くに歩道橋があり、そこから境内を見渡すことができます。
境内入口。鳥居前の歩道は狭いので写真を撮るのは一苦労。
鳥居をくぐったところ。参道両脇の灯籠は寛保二年(1742年)に奉納されたもので、「石津大社」と力強く刻まれています。
参道右側(南側)に手水舎があります。
正面に西向きの社殿が建っています。拝殿はRC造で、平入の入母屋造りに大きな唐破風の向拝が付いたもの。拝殿前のクスノキは堺市指定保存樹木です。
本殿もRC造で、平入の入母屋造となっています。
本殿を囲う塀にはこのような板が取り付けられてあります。エビス神は耳が遠いとさているので、当社では木槌でこの板を三度叩いて本殿の側で大きな音を鳴らし、その上で祈願するのが習わしとなっています。同様の信仰装置は他のエビス系の神社でも稀に見かけるものです。
本殿横でひっそりと置かれている狛犬。恐らく前代の狛犬でしょう。境内社等に転用されることもなくただ置かれているだけなので、狛犬としての機能は失われてしまっています。
本殿の右側(南側)に「猿田彦大神」が祀られています。
参道の左側、境内の北側に二基の祠が建っています。左側が「野見宿禰神社」で右側が「天満宮」です。野見宿祢は石津連の祖であり、社伝では垂仁天皇の御代に当社の神主になったとされています。また、天満宮の祭神の菅原道真は野見宿祢の後裔です。
境内入口の右側、境内の南西隅に大きなクスノキがあり、その根元に祠があります。このクスノキは堺市指定保存樹木となっています。
大阪市内ではクスノキに龍蛇の類がおられるとして祠に祀る信仰がよく見られることを当サイトでは指摘していますが、隣接する堺市でもしばしば見かけます。これもその例の一つなのでしょう。
境内北西隅のクスノキと境内北側のおがたまの木。これらも堺市指定保存樹木となっています。当社は決して鬱蒼とした森というような境内ではありませんが、樹木の一本一本は実に立派なものです。
梅雨入り目前の当社は社殿の前で花菖蒲が綺麗に咲いていました。


御朱印
由緒
案内板「石津神社」
地図
関係する寺社等
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石津太神社 (大阪府堺市西区浜寺石津町中)
社号 石津太神社 読み いわつた 通称 旧呼称 鎮座地 大阪府堺市西区浜寺石津町中 旧国郡 和泉国大鳥郡下石津村 御祭神 蛭子命、八重事代主命、天穂日命 社格 式内社、旧村社 例祭 10月5日に近い土 ...
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