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船待神社 (大阪府堺市堺区西湊町)

社号船待神社 / 舩待神社
読みふなまち
通称
旧呼称塩穴天神社 等
鎮座地大阪府堺市堺区西湊町1丁
旧国郡和泉国大鳥郡湊村
御祭神天穂日命、菅原道真公
社格式内論社
例祭9月14日

 

船待神社の概要

大阪府堺市堺区西湊町に鎮座する神社で、式内社「生國神社」の論社となっています。

創建年代は不詳ですが、社伝によれば概ね次のように伝えられています。

  • かつて和泉国塩穴郷にあったため「塩穴天神」と称して「天穂日命」を祀っていた。
  • 菅原道真公が太宰府へ流される際に当地で船を待っていたところ、菅原氏の祖神である「天穂日命」を祀る当社に参拝し、松の木を植えて出発した。
  • その後長保三年(1001年)に子孫の菅原為紀なる人物が当地を訪れて道真の痕跡を調べ、官に願い出て「菅原道真公」を合祀して船待天神社と改めた。
  • その後間もなく寛治年間(1087年~1094年)に塩穴郷から当地へ遷座し湊村の産土神となった。

このように、伝承による限りでは当社は元は菅原氏、さらにその源流である土師氏の祖である「天穂日命」を祀る神社だったのが、後に菅原道真ゆかりの神社として道真公を合祀し、天神信仰の神社となったようです。

 

一方、上述のように式内社「生國神社」を当社に比定する説があります。

これはどのような根拠で比定しているのか全く明らかでなく、一般的には殆ど認められていません。現在の当社も特に式内社を主張していません。

ただ、都合よく解釈するならば、次のように考えることができます。

当社がかつて鎮座していた和泉国塩穴郷とは現在の百舌鳥周辺、まさに大仙陵古墳をはじめとする「百舌鳥古墳群」の中心的な地です。そして百舌鳥古墳群はじめ畿内各地の巨大古墳群は埴輪の製作や葬送儀礼などを職掌とした土師氏の活躍が極めて大きかったと考えられています。

土師氏には「四腹」と呼ばれる四系統の血統があり、その中の一つ「毛受腹(モズバラ)」は特に百舌鳥古墳群に関わった集団であったと考えられます。

故にこうした地に土師氏の祖「天穂日命」が祀られるのは確かに自然なことであり、当社は百舌鳥古墳群の築造や葬送儀礼に関わった毛受腹の土師氏の子孫が創建した可能性も無くはないでしょう。

ただし百舌鳥古墳群に関わった土師氏は当社の南東約4.5km、現在の堺市中区土師町付近を拠点としたことが推定され、当社の旧地とは離れていると思われる点に注意が必要です。

このように難点はあるものの、大胆に言えば当社が極めて古い神社である可能性は無いとも言えません。

しかし、だとしても敢えて式内社「生國神社」と結びつける積極的な理由は見出せません。「生國」の社名も特に土師氏に関連するものでもなく、現状では式内社「生國神社」を当社とすることは難しいでしょう。

 

境内の様子

当社は阪堺電車の御陵前停留場の南西100mほどの地に鎮座しています。

境内の北西に入口があり、真っ白な鳥居が北西向きに建っています。

 

鳥居をくぐった様子。樹木は少なく非常に開放的な境内で、社殿まで一直線に石畳が敷かれています。

 

石畳の途中、右側(南西側)に手水舎が建っています。

 

石畳を奥まで進むと、注連柱と玉垣で区切られた空間に社殿が北西向きに並んでいます。

拝殿は本瓦葺の平入入母屋造に唐破風の向拝の付いたもの。

 

拝殿前に配置されている狛犬。花崗岩製のものでなかなか愛嬌のある顔立ちです。

 

拝殿は幣殿と一体化した「凸型拝殿」で、さらに背後に建つ銅板葺の流造の本殿とも一体化しています。

 

境内社など

当社には多くの境内社が鎮座しています。

まずは本社社殿左側(北東側)の境内社を見ていきましょう。いずれも南西向きに建っています。

 

こちらの空間に建つ境内社の内、左側(北西側)に「瘡(カサ)神社」が鎮座。御祭神は「少彦名命」。

社殿は銅板葺の流造風のもの。ガラス戸が設けられ、中に祠が納められているかもしれません。

社伝によれば敏達天皇の御代に瘡疾が流行した際に村民が医薬の神である少彦名命を祀ったところ霊験があったといい、これに従う限りでは(或いは本社以上に)極めて古い神社ということになります。

元は湊村中筋に鎮座していましたが、明治四十年(1907年)に本社に合祀され、平成三年(1991年)に社殿が造営されてここに遷座しました。

案内板「瘡神社」

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瘡神社

祭神

少彦名命

人皇三十代敏達天皇十四年三月(五八九年)に瘡疾(できもの)が流行しそれを患(や)む者は身体を焼かれる思いで死んでいったのを村民が我が国の医薬の祖少彦名命を祀り神前に祈願したところ霊験あらたかにしてたちまちに平癒した。江戸時代には参詣人多く門前市をなしたと社記に伝えられている。

明治四十年十一月五日に当時湊村中筋に鎮座されていた宮を当船待神社に移し合祀された。平成三年十二月に新社殿を造営しここに遷座さる。

少彦名命は身体は小さく敏捷にして忍耐力強く大国主命と協力して国土の経営に任じ医薬の法を始めた人と伝えられている。

 

瘡神社の右側(南東側)に隣接して二社の境内社が一つの覆屋に納められています。この内、左側のものが「役行者」で右側のものが「三宝荒神社」。

いずれも社殿は流見世棚造。

 

対して、本社社殿右側(南西側)にも多くの境内社などが鎮座しています。

こちらはいずれも北西向き。

 

この空間の境内社の内、最も左側(北東側)に鎮座する境内社。社名は不明ながら十一柱の神々を祀っています。或いは近隣から遷座した神がまとめて祀られているのかもしれません。

祀られている神々は、「住吉大神」「春日大神」「大國主大神」「琴平大神」「恵美須大神」「厳嶌大神」「天照皇大神」「事代主大神」「少彦名大神」「八幡大神」「猿田彦大神」。

社殿は銅板葺の流造風の建物。

 

十一柱を祀る境内社の右側(北西側)に鎮座する境内社。こちらは社名・祭神は不明。

社殿は銅板葺の流造風の建物。

 

その右側(北西側)に「豊倉稲荷大明神」が鎮座。二基の朱鳥居が建ち、覆屋の中に一間社流造の社殿が納められています。

 

豊倉稲荷大明神の右側(北西側)に二室に分かれた覆屋があり、この内の左側の部屋に「不動明王」が、右側の部屋に「水掛不動明王」が安置されています。

どちらも同じ尊像ですが、右側のものはその名の通り鉢に水が貯められており柄杓で水をかけるものとなっています。

当社には明治の神仏分離まで「安楽院」なる神宮寺があったといい、これら不動明王は上述の役行者などとともに「安楽院」の名残なのかもしれません。

 

鳥居の傍ら、境内の西端に「菅公腰掛石」があります。

菅原道真公が腰掛けたと伝えられるもので、各地で見られる「腰掛石」の一例ですが、簀子が設置してあり誰でも腰掛けられるように誂えられています。

案内板にも帰る際にここに腰掛けて祈ることを推奨しており、このように参拝者にも積極的に腰掛けるよう促す例は比較的珍しいものです。

案内板「ねがいごと」

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ねがいごと

一、先ず本殿で祈願して下さい。

二、お帰りになる時、この「腰掛石」に座り再度本殿に向かって心静かに祈りましょう。きっと貴方に力を与えて下さるでしょう。

 

タマヨリ姫
ここ式内社だって言われてるけど、あんまりそんな雰囲気は無い感じだね。
根拠のある説でもなさそうだしね。でももしかしたら土師氏の関わる古い神社かもしれないわ。
トヨタマ姫

 

由緒

案内板「船待神社々記」

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船待神社々記

御祭神

天穂日命
菅原道真公

創立年代

寛治年中再建

由緒

当神社は元塩穴郷にあり塩穴天神社といわれ天穂日命を祀る。その後延喜元年一月菅原道真公が太宰府へ降る途中河内道明寺を経て、この地に来たり船を待つ間この地に祀られてあった菅原道真公の遠い先祖に当る天穂日命の祠に参拝し松の樹を植えて出発した。その後、長保三年正月十五日菅原朝臣為紀と言う人がこの地に来た時、祖先の残した種々の跡を調べ、官にお願いして天穂日命の社に菅原道真公を合祀し船待天神社と改めたが、その後寛治年中に塩穴郷より今の地・湊に移し再建した。

例祭日

九月十五日

昭和五十二年四月十七日
船待神社

案内板「船待神社」

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船待神社

御祭神は天穂日命・菅原道真公を主神とし、末社として琴平神社・春日神社・豊倉稲荷神社・瘡神社等を祀っています。

当社の縁起によると、当初は塩穴郷(しあなごう)にありました。菅原道真公が九州太宰府に下る途中、船を待つ間、道真公の遠い祖先に当る天穂日命を祀る祠に参拝し、松の木を植えて旅立ちました。長保3年(1001)道真公の子孫菅原為紀がこの地に来て、祖先の残した旧跡を調査し、官に願い出て菅原道真公を合祀し、船待天神社と改称しました。その後、寛治年中(1087~1094年)に塩穴郷よりこの地に神社を移し、村の産土神として再建しました。

道真公を偲んで、没後25年毎に例大祭が行われ、子ども獅子踊りが奉納されていましたが、昭和52年(1977)より、9月の秋祭りの際に毎年奉納されています。

境内には、菅原道真公が座ったとされる腰掛石が残ります。

堺市

 

地図

大阪府堺市堺区西湊町1丁

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