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石津太神社 (大阪府堺市西区浜寺石津町中)

社号石津太神社
読みいわつた
通称
旧呼称
鎮座地大阪府堺市西区浜寺石津町中
旧国郡和泉国大鳥郡下石津村
御祭神蛭子命、八重事代主命、天穂日命
社格式内社、旧村社
例祭10月5日に近い土曜日

 

石津太神社の概要

大阪府堺市西区浜寺石津町中に鎮座する式内社です。堺区石津町の「石津神社」と共に式内社「石津太神社」の論社となっています。

『新撰姓氏録』和泉国神別に天穂日命の十四世孫、野見宿禰の後裔であるという「石津連」が登載されており、本来はこの氏族が祖神を祀ったと考えられます。現在も当社に石津連の祖神である「天穂日命」が祀られています。

この「石津氏」は「土師氏」と同族であり、この「土師氏」とは古墳の築造や埴輪の製造、葬送儀礼等に関わった氏族です。

当地の東方一帯は「大仙陵古墳」をはじめとする日本有数の大規模古墳群「百舌鳥古墳群」があり、土師氏の中でも「毛受腹(モズバラ)」と呼ばれた系統がその近辺に居住しこれらの古墳の築造や祭祀に携わっていたと考えられます。

彼ら「毛受腹」は当地から4.5kmほど東方、現在の堺市中区土師町付近を拠点にしたと推定されています。

これに関連して、或いは「百舌鳥古墳群」に携わった土師氏の一族は一ヶ所のみでなく、当地付近にも居住しその子孫が「石津氏」と名乗り当社を奉斎した可能性も考えられるかもしれません。(「船待神社」の記事も参照)

 

一方、社伝では古くから次のような由緒が伝えられています。

伊弉諾尊と伊弉冉尊が生んだ蛭子命は三歳になっても立てなかったので天磐樟船に乗せて海に流したところ、当地に漂着した。

蛭子命は携えていた「五色の神石」をここに置き、この地を「石津」と称し、船の漂着した地を「石津の磐山」と称した。

その後、第五代孝昭天皇の七年に勅命により「蛭子命」を祀り、更に「八重事代主命」と「天穂日命」を併せ祀った。

この伝承に因み、初めて「蛭子(ヒルコ)命」を祀った地として当社は「日本最古の戎宮」とも称しています。当社の鳥居前には「五色の神石」を埋めたとされる地も残っています。

また当社に伝わる「やっさいほっさい」と呼ばれる火渡神事は蛭子命が漂着した際に地元の漁師が薪を集めて火を焚き、暖めてもてなしたことに因むと言われています。

これは修験道と結びついた神事と思われますが、上記の伝承が現代に息づいていることを示すものでもあります。

 

平安時代以降は朝廷の崇敬もあり隆盛を極めましたが、元和年間以降は戦乱に巻き込まれて社殿等が焼失したと言われています。

その後、豊臣秀吉が当社を大坂城の裏鬼門を守護する神社として庇護し、木村重成が社殿復興のために黄金を寄進したと伝えられます。

現在残っている二棟の本殿はそれ以降の17世紀中頃に再建されたものと考えられており、貴重な建築として鳥居や拝殿と共に堺市指定有形文化財となっています。

 

なお、前述の通り式内社「石津太神社」は当社と共に堺市堺区石津町の「石津神社」も論社となっています。

いずれかが元々の式内社ということになろうかと思われますが、両社ともに似たような伝承が伝えられており、村を分けた際にどちらかがどちらかへ分祀したことが推測されます。

当社の地は『延喜式』の時代には海だったのではとする説があり、徐々に砂が堆積して陸地が形成されていったとしたら、当地は確かに海に近すぎる印象はあります。

加えて、石津神社が西向きなのに対して当社は東向きである点も気にかかる点で、海からやってきた神とする伝承を見れば、海の方である西を向くのが自然であるようにも思えます。

とはいえ和泉国では海に関係ありそうな神社でも海に背を向ける神社も比較的多く、これを以て断じるのは早計です。当社には前述の「やっさいほっさい」等古くからの神事があることも注目すべきでしょう。

いずれにしても地域の氏神として大切にされていることは変わりありません。

 

境内の様子

石津太神社

当社の一の鳥居は東向きに建っており、これは寛永十九年(1642年)に建立されたもので、堺市指定有形文化財となっています。

一の鳥居と二の鳥居の間には広い空間があり、参道というよりは馬場のようになっています。

江戸時代中期の地誌『和泉名所図会』の挿絵ではこの空間の両側に屋敷が連なっているものの、現在は雑居ビルになっています。

 

石津太神社

一の鳥居をくぐって正面に進むと境内入口となり、二の鳥居が東向きに建っています。

現在の境内は玉垣で囲われていますが、『和泉名所図会』の挿絵では塀で囲われ、また二の鳥居も描かれておりません。

 

二の鳥居をくぐって左側(南側)に手水舎があります。

 

石津太神社

二の鳥居をくぐって正面奥に社殿が東向きに並んでいます。

拝殿は本瓦葺の平入入母屋造の割拝殿形式ですが、通路が左右に二ヶ所あるのが大きな特徴で、後方の二棟の本殿の前にそれぞれ拝所(通路)がある形となっています。

また通路の上にそれぞれ唐破風が付けられており、二ヶ所の拝所(通路)を強調しています。

この拝殿は18世紀後期に造営されたと考えられ、堺市指定有形文化財となっています。

なお『和泉名所図会』の挿絵はこれの造営前に描かれたのか、拝殿がありません。

 

拝殿後方、塀に囲まれて二棟の本殿が建っています。

右側(北側)の本殿は銅板葺の一間社流造で軒唐破風と千鳥破風の付いたもの。

左側(南側)の本殿は銅板葺の一間社春日造で軒唐破風の付いたもの。

両方ともに17世紀中頃の造営で、堺市指定有形文化財となっています。

 

境内入口の右側(北側)にあるクスノキの根元に「白蛇社」が西向きに鎮座。

鳥居が建ち、奥の柵内に銅板葺の小さな一間社流造の社殿が建っています。

大阪市内ではクスノキに龍蛇の類がおられるとして祠に祀る信仰がよく見られることを当サイトでは指摘していますが、隣接する堺市においてもこのように同様の信仰をしばしば見かけます。

 

白蛇社の左側(北側)に隣接して、エビス神の石像と共に「戎神之御腰掛石」があり、注連縄が掛けられています。

神社にまつわる神や人物が腰を掛けたと伝わる石は各地にあり、このように聖跡となっているところもあります。

岩石に神が宿るとする磐座祭祀の変化したものと見ることができ、注目すべきものです。

 

この前に配置されている狛犬はやや古めかしさを感じさせるもので、前代の狛犬を転用したのかもしれません。

 

境内の北西隅のこんもりと木々の生い茂った一画に二社の境内社が鎮座しています。

 

この内、左側(南側)に「八幡宮」が東向きに鎮座。

鳥居が建ち、奥に桟瓦葺の隅木入春日造の社殿が建っています。

 

八幡宮の右側(北側)に隣接して「磐山稲荷社」が東向きに鎮座。

六基の朱鳥居が並び、簡易な拝殿と銅板葺の一間社春日造(?)の社殿が建っています。

社名の「磐山」とは当社の祭神である蛭子命が漂着したという「石津の磐山」と関係あるのでしょうか。

 

手水舎のすぐ裏にある大きなクスノキ。堺市指定保存樹木となっています。

当社には同様に堺市指定保存樹木となっているクスノキの巨樹がいくつかあり、緑豊かな社叢を形成しています。

 

先に紹介した手水舎とは別に、上記のクスノキの側に手水舎の跡らしきものがあります。

井戸があり、手水鉢が置かれていた痕跡も見受けられます。参拝客の動線を考慮して手水舎の機能を移したのでしょうか。

 

当社の一の鳥居の前方に「五色の神石」を埋めたとされる場所があり、檀が築かれて今でもそれとわかるようになっています。

元々はここに本殿があったとも伝えられているようです。

石碑

五色の石

 

タマ姫
式内社の「石津太神社」の論社は二社あるんだね。どちらが式内社だったんだろう?
こちらは元々は海だったとも言われてるけれど、「やっさいほっさい」のような古い神事も伝わっていて、どちらが本来の式内社かは難しいところね。
トヨ姫

 

御朱印

 

由緒

案内板

石津太神社

 

地図

大阪府堺市西区浜寺石津町中

 

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