社号 | 寶來山神社 |
読み | ほうらいさん |
通称 | |
旧呼称 | 八幡宮、是吉大明神、宝来山大明神 等 |
鎮座地 | 和歌山県伊都郡かつらぎ町萩原 |
旧国郡 | 紀伊国伊都郡萩原村 |
御祭神 | 八幡大神、菅原大神、大山祗大神、猿田彦大神 |
社格 | |
例祭 | 10月27日 |
寶來山神社の概要
和歌山県伊都郡かつらぎ町萩原に鎮座する神社です。
社伝によれば、宝亀年間(770年~780年)に和気清麻呂が八幡神を勧請したのが当社の創建と伝えられています。
当地は寿永二年(1183年)に「高雄山神護寺」(京都市右京区高雄に所在)の荘園となり「桛田(カセダ)荘」と称しました。
神護寺は和気氏の氏寺であったとされる「神願寺」と「高雄山寺」が天長元年(824年)に合併して成立した寺院で、特に前者は和気清麻呂による開基とされています。また、現在も和気清麻呂の墓所が神護寺の境内にあります。
この神護寺の荘園だった地に鎮座する当社も、その創建を神護寺と関係の深い和気清麻呂に求めている形になります。
ただし上述のように当地が神護寺が荘園となったのは寿永二年(1183年)であり、それより遥か古い時代に和気氏が当地に関わったと考えるのはやや無理があると思われます。
神護寺の前身の神願寺は「宇佐神宮の神の願いに基づいて建てた寺」の意とされています。宇佐八幡宮神託事件により不遇を受けるも後に政界復帰を果たした和気清麻呂は、宇佐神宮の神(八幡神)を信仰したものと思われ、神願寺と神護寺もまた八幡信仰と深い関わりを持っていたのでしょう。(神願寺の源流を京都府八幡市の石清水八幡宮とする説もある)
このような背景を考慮すると、当社は当地が神護寺の荘園となった時代に神護寺と関わりの深い八幡神を勧請したと考えるのが自然です。
ただ、その前身となった神社があった可能性も考えられます。江戸時代後期の地誌『紀伊続風土記』は、当地は「丹生都比売神社」(上天野地区に鎮座)の神が遍歴した地であり当初はニフツヒメを祀っていたのではとし、境内社に祀られている弁財天(現在は市杵島姫大神)がその後継ではないかと推測しています。
なお、神護寺の荘園だった桛田荘の景観を描いた「桛田荘絵図」が当社および神護寺それぞれに伝わっており、いずれも国指定重要文化財となっています。このことから当社と神護寺の関係が深かったことを窺い知ることができます。
この「桛田荘絵図」には当社が描かれており、入母屋造の拝殿らしき建物と流造の本殿らしき建物が東向きで描かれ、「八幡宮」と記されています。
その後、戦国時代には神護寺にとって遠隔地である当地を支配することが困難になり、周囲が高野山領であったこともあり、当地および当社は高野山と関係を深めていきました。
特に高野山の福蔵院(現在の巴陵院)と関係の深かった是吉氏は当社を厚く崇敬して再興も果たしたといい、ますます高野山との関係が深くなっていったようです。
大永五年(1525年)の文書には当社を「是吉大明神」および「宝来山大明神」と記しており、是吉氏との関係が窺えると共に、これが当社を「宝来山」と称した初見でもあります。
しかし何故「宝来山」と称するようになったかははっきりせず、或いは神宮寺の山号に因むのかもしれません。
天正年間(1573年~1592年)には紀伊の他の神社と同様、兵火に遭って焼失し大いに荒廃したといい、その後江戸時代になって再興されました。
現在の本殿四棟はその当時のもので、慶長十九年(1614年)に建立された貴重な建築として国指定重要文化財となっています。
旧・桛田荘の鎮守として周辺の地区を氏子としており、当地における有力な神社として現在も信仰されています。
境内の様子
当社の一の鳥居は境内の南方100mほどの地に南向きに建っています。
一の鳥居から少し道を進むと右側(東側)に「船つなぎ松」と呼ばれる松があったことを示す石碑が建っています。
かつて紀ノ川は現在より北寄りのこの辺りを流れていたといい、ここにあった松に船を係留したと伝えられています。
ただ、その松は樹齢450年程度だったと見られ、その時代に紀ノ川がここを流れていたかは不明。現状の地形を見る限りでは河岸段丘の崖よりも陸側に大きく離れているため、実際にはこの松に船を係留していたとは考えにくいように思われます。
石碑
船つなぎ松趾
さらに道をまっすぐ進むと二の鳥居が南向きに建ち、境内入口となっています。
二の鳥居は朱塗りの両部鳥居。扁額は「正一位勲八等 日本第一大福田 寶来山大明神」と揮毫されており、大永五年(1525年)に賜ったという後柏原天皇宸筆の勅額にもそう揮毫されているといい、これは恐らくそのレプリカなのでしょう。
二の鳥居をくぐった様子。社殿までまっすぐ参道が伸びています。
鳥居をくぐって右側(東側)に手水舎があります。
さらに参道を進みます。途中、六段ほどの石段があり、その上は砂利敷のかなり広々とした空間となっています。
この空間の正面奥に社殿が南向きに並んでいます。
拝殿は桟瓦葺の平入入母屋造に向拝の付いたもので、左右に平入切妻造の部屋が設けられています。
拝殿前に配置されている狛犬。やや赤っぽい石材を用いています。
拝殿後方、瑞垣の設けられた石垣の上に本殿や境内社が横並びに建っています。
これらの内、中央に建つ四棟の檜皮葺の一間社春日造が本殿で、これら四棟の左側(西側)から順に第四殿(御祭神「猿田彦大神」)、第二殿(御祭神「菅原大神」)、第一殿(御祭神「八幡大神」)、第三殿(御祭神「大山祇大神」)と変則的な順序が割り振られています。
いずれも慶長十九年(1614年)に建立されたもので、第二殿は高野山の吉徳院、他の三棟は当地の土豪である是吉吉右衛門なる人物が建立したもの。
近隣の大工による建立で、高い技術を発揮した優れた建築としていずれも国指定重要文化財となっています。
これら第四殿の左側(西側)には二社の相殿となった「西殿」が鎮座しており、左側(西側)に「蛭子大神」、右側(東側)に「少彦名大神」を祀っています。
また、第三殿の右側(東側)には同様に二社の相殿となった「東殿」が鎮座しており、左側(西側)に「素戔嗚大神」、右側(東側)に「大国主大神」を祀っています。
この「西殿」「東殿」はいずれも檜皮葺の二間社流造で、本社本殿よりもやや遅く17世紀半ばの建立と推定され、和歌山県指定文化財となっています。
さらに西殿の左側(西側)に隣接して「稲荷大神」を祀る境内社が鎮座。こちらの社殿は小さなトタン屋根の春日見世棚造です。
本社拝殿前の左側(西側)には弁天池と呼ばれる池があります。
池の畔に建つ鳥居から池に浮かぶ島へと太鼓橋が架けられ、島には「弁財天社」が東向きに鎮座しています。御祭神は「市杵島姫大神」。
社殿はトタン屋根の春日見世棚造。
『紀伊続風土記』は当社は元々ニフツヒメが祀られていたとし、この弁財天社の神がその後継ではないかと推測しています。
反対側、本社拝殿の右側(東側)には一つの基壇に三社の境内社が西向きに並んで鎮座しています。
これらは左側(北側)から順に「地蔵菩薩」「子聖(ネノヒジリ)大権現」「権現社」を祀っており、仏教色の強い境内社となっています。
社殿は地蔵菩薩がトタン屋根の春日見世棚造、他の二社はトタン屋根の流見世棚造。
奥宮
上記の三社の北側に、山腹にある奥宮へと至る参道が伸びています。石段を上っていくと朱鳥居が建っており、その先もまだまだ石段が続きます。
奥宮への参道は本社本殿の背後を通っているので、眼下に本社本殿を後ろ側から眺められます。
この参道の最奥部に「奥宮」があります。
朱鳥居が南向きに建ち、奥の石垣には朱の拝所と瑞垣が廻らされており、その内側には複数の岩石が配置されています。
その岩石の傍らに「蛭子神」「八幡神」等と記された札があるものの、多くが朽ちているため詳細不明。それぞれの岩石に対応して磐座的に神が祀られているのでしょう。
神願寺
当社の東側に隣接して「寶來山神願寺」があります。当社の神宮寺だった寺院で、源満仲が創建したとも伝えられています。
神願寺とは当地の荘園領主だった神護寺の前身となる寺院と同名ですが、高野山真言宗の神護寺と異なり当寺は仁和寺を本山とする真言宗御室派に属しています。
当地は戦国時代以降に神護寺の支配が及ばなくなったため、それ以降に当寺の所属が変わったのかもしれません。
由緒
案内板
宝来山神社略記
案内板
かつらぎ高野山系県立自然公園内
かつらぎ八景 宝来山神社(本殿4棟重要文化財)
地図