社号 | 三船神社 |
読み | みふね |
通称 | |
旧呼称 | |
鎮座地 | 和歌山県紀の川市桃山町神田 |
旧国郡 | 紀伊国那賀郡神田村 |
御祭神 | 木霊屋船神、太玉命、彦狭知命 |
社格 | 国史現在社 |
例祭 | 10月16日 |
三船神社の概要
和歌山県紀の川市桃山町神田に鎮座する神社です。
『延喜式』神名帳には記載が無いものの、『三代実録』貞観三年(861年)七月二日条に「紀伊国正六位上御船神従五位下」とある「御船神」は当社とされ、国史現在社です。
当社の創建・由緒は詳らかでありません。
江戸時代後期の地誌『紀伊続風土記』は伊勢国度会郡の式内社「大神乃御船神社」(三重県多気郡多気町土羽の「御船神社」に比定)と同神を祀ると推測しています。
多気町の「御船神社」は内宮の摂社の一つであり、また元伊勢伝承に関連する神社で、天照大神の坐すべき地を求めていた倭姫命が川を遡上する途中、船を泊めて神を祀ったものとされています。
元伊勢伝承において、倭姫命に天照大神の神霊を託される前は「豊鍬入姫(トヨスキイリヒメ)命」が天照大神の坐すべき地を求めていました。豊鍬入姫命は崇神天皇と遠津年魚眼眼妙媛(トオツアユメマクワシヒメ)との間に生まれた皇女で、遠津年魚眼眼妙媛の父は紀伊国造の「荒河戸畔(アラカワトベ)」とされています。
豊鍬入姫命の外戚祖父にあたる荒河戸畔の「荒河」とは、『倭名類聚抄』紀伊国那賀郡に見える「荒川郷」であり、後に「荒川(安楽川)荘」と呼ばれる荘園となる当地付近を指すと考えられます。
つまり荒河戸畔とは当地付近を拠点とした紀伊国造の人物であり、その孫にあたる豊鍬入姫命もまた当地に所縁ある可能性が浮上してきます。
実際、当社の案内板では「豊鉏入日売命の創祀」としており、元伊勢に関わるこの人物に当社の起源を求めています。
ただし、多気町の「御船神社」は豊鍬入姫命でなく彼女を引き継いだ倭姫命に関わる神社である点に疑問があります。
また、数ある元伊勢関係の神社の中で何故「御船神社」の神が選ばれてこの地に祀られたのかも疑問となってきましょう。
一方で当社を忌部氏の祖を祀る神社とする説もあります。
忌部系の史書『古語拾遺』に紀伊国の「麁香(アラカ)郷」に忌部氏の末裔がいると記しており、この「麁香」を「荒川」、つまり当地付近に比定することを一つの根拠としているようです。
しかし「麁香郷」は『倭名類聚抄』紀伊国名草郡に見える「荒賀郷」であり、現在のJR和歌山駅東側一帯に比定するのが有力で、那賀郡である当地とは無関係と考えるべきです。
ただ、紀ノ川の対岸にあたる神領地区の「海神社」は忌部氏の後裔が社家を務めており、当地に忌部氏がいたとしても不自然ではないでしょう。
現在の当社の御祭神は「木霊屋船神」「太玉命」「彦狭知(ヒコサシリ)命」の三柱で、この内の「太玉命」は忌部氏全体の祖、そして「彦狭知命」は紀伊を拠点ににした忌部氏の一族「紀伊忌部」の祖です。
つまり現在の当社は、元伊勢関係者の豊鉏入日売命に起源を求めつつも、忌部氏の祖を祀っており、上記の両方の説を取り入れたものとなっています。
残る「木霊屋船神」とは、『延喜式』祝詞の大殿祭に見える「屋船久久遅命【是木霊也】」と同神と思われ、即ち木の神である「ククノチ」を指すものでしょう。
紀伊忌部は木材の管理や建造物の造営などに携わっていたと見られ、当社は忌部氏の祖と共に彼らの職掌に関わりの深い木の神を祀ったもの、となるのでしょう。
木は家屋はもちろん船の材料としても非常に重宝されたことからその神は「“屋船”久久遅命」と呼ばれ、その内の船材としての側面が強調され、その守護神として「三(御)船神社」と称する当社が創建されたとすれば確かに筋は通っているようにも思われます。
ただし、現状ではそのように主張するだけの論拠は特に無さそうです。
当社は天正年間に社殿が焼失したといい、紀伊の多くの神社では豊臣秀吉の紀州攻めの被害を受けたため当社でもそうだったのかもしれません。
その後、天正十八年(1590年)に三間社流造の本殿が造営され、この本殿は現存しており桃山神代の建築手法を示す貴重なものとして国指定重要文化財となっています。
また摂社の二社もその後すぐの慶長四年(1599年)に造営されており、こちらも同じく国指定重要文化財となっています。
当社は国史現在社として古い歴史を有するのみならず、古い建築を伝える神社としても貴重な神社です。
境内の様子
当社は龍門山から西方に伸びる丘陵の西麓に鎮座しています。
境内入口にある鳥居は西向きに建っており、両部鳥居になっています。
鳥居をくぐった様子。150mほどの長い参道が続きます。
さらに進んでいくと参道は坂になっており、ここを上ったところはかなり広い空間となっています。
坂の右側(南側)の石垣上に舞殿があるのも特徴(後述)。
この広い空間の正面奥に城郭のような石垣が一面に積み上げられており、中央に石段が設けられています。
この石垣の上に社殿や境内社等の主要な建物が西向きに並んでいます。なお、当社に拝殿はありません。
石段下の左側(北側)に手水舎があります。
石段を上ってすぐのところに檜皮葺の平入切妻造の中門(拝所)が建っています。
中門の左右には瑞垣が設けられ、本殿や境内社を囲っています。
中門の後方に檜皮葺の三間社流造の本殿が建っています。
棟札から天正十八年(1590年)に造営されたことが判明しており、桃山時代の建築手法を今に伝える貴重な建築として国指定重要文化財となっています。
平成十五年(2003年)に二年かけて屋根の葺替や塗装修理が行われ、今も朱をはじめとする極彩色の緻密かつ豪華絢爛な塗装が美しい状態で保たれています。
本社本殿の左側(北側)に隣接して「丹生神社」(御祭神「丹生都比売命」)が、その左側(北側)に隣接して「高野神社」(御祭神「高野御子神」)がそれぞれ鎮座。
これらはいずれも檜皮葺の一間社隅木入春日造で、本社本殿の九年後、慶長四年(1599年)に造営されたものです。
こちらも貴重な建築として国指定重要文化財となっており、本社本殿と同様、緻密かつ豪華絢爛な塗装となっています。
境内社や本社本殿等を引きで見るとこのような感じ。斜面上に鮮やかで豪華な社殿が並ぶ様子は壮観の一言。
本社本殿や境内社等の建つ瑞垣の左側(北側)に桟瓦葺の平入入母屋造の建物があります。
詳細不明ながら、江戸時代まで遡りそうな古い建築で、小さな賽銭箱も設置されています。
一方、本社本殿の右側(南側)には桟瓦葺の妻入入母屋造の建築があります。
こちらも詳細不明ながら鈴の緒と小さな賽銭箱が設置されています。丹生神社と高野神社の他に境内社があるとの情報は無く、ますます謎です。
和歌山県神社庁HPには当社に神饌所があると記しており、この二つの建物の内いずれかがそうなのでしょう。
さらにその右側(南側)には桟瓦葺の棟が極端に短い寄棟造の建物が建っています。
こちらは宝蔵でしょう。
先に参道上で見た舞殿(神楽殿)は桟瓦葺の妻入切妻造。後方に後座があり、能舞台のような構造となっています。
屋根裏には多数の絵馬等が掲げられており、絵馬殿としても機能しています。
由緒
案内板
三船神社
案内板
国指定重要文化財
三船神社三棟
地図